最近、新聞紙面で「AI (Artificial Intelligence)」に関する記事を見る機会が著しく増えてきた。例えば「国産囲碁AIが初白星 趙名人相手 ハンディなしで」、「AI、医師試験合格近づく 慶大、正答率55%超に」(共に日本経済新聞 2016年11月21日)、「がん治療にAI活用 超早期診断などをめざす 国立がんセンターなど」(同2016年11月30日)などである。また、AIが人の知性を上回るというシンギュラリティー(特異点)についての議論もますます活発になってきた。同じく日経新聞の2016年5月23日の記事に「(日本の)内閣府は、急速に進歩する人工知能(AI)とうまく付き合う方法を探る検討に入る。」とあり、この記事によれば内閣府の専門家会合では「意識や心を持つAIに人格権を認めるべきか」「人間側はどんなリテラシーを身につけるべきか」といったテーマも想定し、議論を深めていくらしい。別の記事では「AIに非常停止ボタン グーグル 「暴走」阻止へ開発推進」(同2016年6月9日)と報じている。急速に進化するAIの悪用への懸念や社会の不安に応えることが狙いで、AIが非常停止ボタンを無効化しないよう、あたかもAIが自分で判断したかのように“だます”ことがポイントらしい。IT業界の片隅で生業を得る私としてもこのAIのことは決して他人ごとではない。
製造業の生産管理から自動車の自動運転、医療現場のがん判定などさまざまな分野での応用が期待されているAIであるが、いわゆる道具であるコンピューターの進化形であるAIとこの道具を使う人間との関係の深くて長い模索はこれから一層難題としてついて回るであろう。そんな中、興味深い記事があった。「人間中心のAIめざす 米マイクロソフトCEOに聞く」(同2016年11月29日)である。この記事の中でマイクロソフトのサティア・ナデラ最高経営責任者(CEO)は記者のAIによる人間の置き換えについての質問に対しAIに簡単に置き換えられない仕事の例として「医療の世界では“医師”の仕事は自動化できたとしても、看護師や介護福祉士などは人が足りない。AIが普及した社会で一番希少になるのは、他者に共感する力を持つ人間だ。」と答えた。マイクロソフトが今夏に公表した「AI開発原則」の中で「人間に求められるもの」の筆頭に「共感力」を挙げ、「他者に共感する力をAIが身につけるのは極めて難しい。だからこそ、AIと人間が共生する社会において価値を持つ」と規定している。
サティア・ナデラ氏が「共感」についてどの程度の洞察を持っているのかはこの記事を読む限りでは判らないが彼のこの見解は哲学者マルティン・ブーバーの言葉を思い起こさせる。患者や病気を単に観察する対象としてしか見ることのできない医療従事者は遠くない将来AIにとって換わられ、患者を人間として「ありありとあらしめる態度(現前化)」をとることができる医療従事者のみが生き残り、更に一層世界から求められるような時代が来るということだ。医師や技術者、弁護士など知的レベルの高く、知性や技術、論理能力のみが人間性の優位性のよりどころと信じている人々にとっては、AIはまさに自分の仕事と価値を奪う脅威に他ならない。(近ごろは医療技術の急激な発達のせいか、かつて早坂泰次郎先生が指摘した“Nursing is nothing”という看護関係者の最大の美徳を忘れ、技術や知識、論理のみに固執する看護関係者が増えてきたと聞くが嘆かわしい限りである。もしそうだとすれば、彼(彼女)らもAIに職を追われる危機が近づいていると言えよう。)
さて、「共感」について少し考えてみよう。マルティン・ブーバーはその著書『哲学的人間学』の「原離隔と関わり」の章のなかで「共感」について以下のように述べている。
「他者の意志行為を表象する私の表象には、意志行為の本質であるものがいっしょになって働いているというが如きである。このための通例としては、いわゆる『共感』ということが引かれ得るであろうが、しかしその場合には曖昧な『同情』ということは考慮からはずして、『共感』の概念をかの『事態』に制限する必要がある。それは、私がたとえば他者の特殊な痛みを経験する時、他者のその特殊なものを、従って一般的な不快或いは一般的な悲しみではなく、この特殊な痛みを、しかもまさしく他者のそれを、感得し得るようになるという仕方で、経験するということである。」(24ページ、筆者注:「事態」とは「現前化」を指す。)
また、この「現前化」についてブーバーは『対話的原理Ⅱ』の「人間の間柄の諸要素」の章で「感得は、私が他者に根本的に関わるとき、つまり他者が私にもつ現存となるときに、はじめて可能なのである。それ故私は、この特別な意味での感得を人格の現前化と名づけるのである。」(102ページ)と述べる。再び「原離隔と関わり」に戻る。「私と他者が共通な『生の境位』によって取り囲まれており、そしてたとえば私が他者に加えるところの痛みが、私自身の内で痙攣し、遂には人間と人間との間の生の矛盾が深淵としてあらわになるところでは、この『現前化』はその極み、魂の逆説までに高まる。そのとき、これ以外の仕方ではけしって促進され得ない或るものが起こり得るのである。」(24ベージ)と述べ、「私と共に他者が自己となること」すなわち「人間の間にあっては、殊にかの『現前化』の相互性から―私が他者の自己を現前化すると共に、逆に他者によって私が私の自己において現前化する」(25~26ページ)と言明する。要約すれば、「共感」とは根本的に他者と関わるときに得られる感得である「現前化」が前提であり、この「現前化」によってのみ私と共に他者は自己となることができるということだ。ブーバーの言う「共感」とは、一般に「共感」と混同される「同情」のような、なんとなく理解し合えたような生温い感じとは全く異質でレベルの異なる、人間存在の本質にかかわる問題、生命が持つ根源的な関係性にかかわる問題として捉えなければならない。
再びマイクロソフトの「AI開発原則」に戻ろう。AIの開発主体である彼らはこの原則で「人間中心」や「共感力」を謳い、「(人間の)代替より(人間の)能力拡張」を訴えるが、AIの進化への期待や情熱とはうらはらに人間そのものの成長についての記載はない。
AIが技術革新のなかで強化されていく一方で、人間の力が弱体化してしまえば、たとえAIの緊急停止のボタンを作ったとしても、便利で安全な社会システムのインフラを支えるに至ったAIが万一暴走し人々に危害を加えるようになった際、本当に人間は便利さや安全を犠牲にする覚悟と勇気をもってAIを止めるボタンを押すことはできるのであろうか。
AIが急激に進化する現代という時代の中で、我々の人間力がいよいよ試されることとなってきた。この「人間力」とは生きている人間であろうとする力であり、この力はブーバーの言う「現前化」を前提とする。もちろん「人間力」が問われるのは医療従事者だけではない。私たち現代人全体の問題だ。現代社会の中で複雑さを増した、ブーバー流に言えば「我―それ」の世界は今まさにAIにとってかわられ、私たち人間には「我―汝」の態度のみが生存のための喫緊な課題となってくるであろう。そのような時代の中で現象学と実存心理学を学問的根拠とし「本当の人間関係」を実践的に確認し学ぶための場であるIPRトレイニングに対する社会の要請は高まざるを得ない。この先、研究会スタッフの意識と覚悟が一層問われることは間違いない。
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