アーネスト・サトウ著「上野地方の古墳群」より
現地調査から論文に至るまで
1、遺物出土に経過について
サトウがこの文章で報告している前橋大室古墳群は、1878年に石室が開口して遺物が、
出土している。「群馬県史」等では、狐、狢の類を捕獲するために掘った穴か偶然に、
石室に当たったと表向きは語られているが,『古制徴証』に紹介
されている井上真弓の書簡によると,「村吏県の許可を得て2月の下旬より開墾を始め,
古墳に参集した人員は毎日数百人」と記していることから,一応,公式に行われ,
且つ相当大規模であったようである。前二子,後二子両古墳の石室部分の発掘には,
3月21日から4月1日までかかっているらしい。
後二子古墳が開口したのが1878年3月21日で,22日,23日の両日をかけて遺物を調
査して取り上げている。引き続き,3月24日に前二子古墳か開口して,翌25日より4月1日まで
かっかって出土遺物と内部の調査が行われたようである。
地元区長の根岸重次郎より「室内出品言上簿』が県令揖取素彦に報告されたのか3月31日で,
その報告を受けて4月13日には,揖取から徳大寺實則宮内卿へ上申されている。
一方,井上真弓は4月4日に遺物図を作成して4月14日付 けで菅政友に書簡を送っている。県令の報告を受けて,10月22日に宮内省より2名派遣の達示があり,11月25日に大沢情臣,大久保忠保か実査している。
この年は明治天皇の北陸東海巡幸があった年で,宮内省の調査に先立つ9月4日に群馬県庁内にて,
これらの遺物(前二子,後二子,大黒塚古墳等出土品)は天覧に供したという。
そのことから岩倉宮内大臣より提出の口達があり,
1878年12月5日に御巡幸掛大政宮少書記宮谷森翼男に照会,その回答を受けて,
1879年2月3日に宮内省に提出したとされる。群馬県立文書館に残る公文書では、
1878年12月14日に大室出土遺物並びに,上武士出土遺物を宮内省に転送した行政文書があることから、
日数に若干の誤差があるものの,提出の事実は裏付けかとれる。
1879年3月17日に宮内書記官から,「献納したのは県か又は所有者か,買い上げてもよいのなら,
いかほどの代価がよいか。」という様な照会があったので,
3月19日にいままでの経緯を説明した回答をおこなったところ,3月27日に遺物は全て戻ってきたようである。
匠の技が、随所に観られこの丸窓も素晴らしいものでした。
庭園も季節に調和した、木々が美しく
中庭も廊下を下から通るように工夫されていましたが、歴史的に素晴しいものです。
廊下の畳も、楊枝が入る隙間も無く畳表も最高の作品と思われます。
つづく