アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

映画「八甲田山」 Ⅳ

2013年06月08日 | 近世歴史と映画

 

 映画「八甲田山」

 

  音楽      芥川也寸志

 

音楽は下記のアルバムに収録されている

芥川也寸志 映画音楽組曲「八甲田山」 Yasushi Akutagawa - "Hakkoda-san"

及び09年にディスクユニオンのレーベル富士キネマよりCDで再発された。

(規格品番FJCM-006)。


芥川也寸志 forever(規格品番 FOCD-9415)には、

 八甲田山(1977930

 ⑩徳島隊中ノ森雪原(135

 ⑪徳島隊銀山に向う(229

 ⑫棺桶の神田大尉(234

 ⑬終焉(238

 

特に、⑫棺桶の神田大尉(234)には、心打たれ涙する私である。

 目をつむって聴いていると、芥川也寸志の非凡さが満ち溢れているのです。

 

1943年、東京音楽学校予科作曲部に合格したものの乗杉嘉壽校長から

呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて

「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに、過ぎない。大芸術家の倅として、

恥ずかしく思え!」と叱責されたが、

1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業

 父:芥川龍之介 母:芥川文は海軍少佐の塚本善五郎の娘 兄:芥川比呂志 

長女:芥川麻実子(財団法人首都高速道路協会理事) 最初の妻紗織(旧姓山田)の長女

息子:芥川貴之志 MB-Netの創設者。『メルセデスベンツマガジン』など自動車雑誌でも執筆のほか、ナイキのコレクターで、有名、母親は也寸志の3番目の妻

 

芥川氏は先祖をさかのぼれば源氏・平氏の両方に起源をもつ豪族であり、

どちらも摂津国芥川に由来する。ひとつは清和源氏義家流小笠原氏族。

ひとつは流派不詳だが、徳川幕府に仕えた芥川元孝が家伝に桓武平氏の一族としているという。後者はどうもウソくさいが、芥川也寸志の家は代々江戸っ子で、

先祖は江戸城の茶坊主であったというから、後者だろう。

また伊賀忍者の家にも芥川があると司馬遼太郎が記している。

 

芥川也寸志は

 大正14 712日 生まれ

也寸志が 二歳の 誕生日を迎えて 12日後 の 昭和2

724日 父の 芥川龍之介が

(ただぼんやりとした不安)と 言う 遺書を残し自殺

也寸志は 父の 面影すら知らない

そんな幼少期を過ごします

そんな 也寸志が 音楽の世界に入るきっかけは

奇しくも 父 龍之介 が 趣味で集めていた クラシックのSPレコード

也寸志は 若くして 天才作曲家の 名を欲しいままにしますが

 いつも 芥川龍之介の 三男 と 言う肩書きが 付いて回り 苦悩の日々

 

そして 父が 自殺した 36歳まで 生きられるのか?

そんな不安からか 愛を求めるかのように 三回結婚しています

 

そのうちの 1人が 二番目の妻で女優の 草笛光子

草笛光子は 以前 あるテレビ番組で、芥川也寸志と 結婚した時、

幸せなハズなのに彼は、いつも 孤独を抱えていたと語っている。

 

また、松本 清張は、

養父道章は芥川龍之介の第一回河童忌(七月二十四日だが、

暑いので参会者の迷惑を考えて六月二十四日にくりあげた)の翌朝、

庭を掃除しているうちに急に気分が悪くなり、床についた二日後に死んだ。

こんなことを書くのはどうかと思われるが、若し、

(という仮定が宥されるとすれば)養父の死が一年早かったなら、

芥川の自殺は無かったかもしれないと思われる。(P108-109

── 松本 清張《昭和史発掘 02 芥川龍之介の死 119821015 文春文庫》

芥川は、黛敏郎がいうところの、壮烈な文化への戦死を遂げ、

                                惜しまれつつこの世を去った。



映画「八甲田山」 Ⅲ 「高倉健を呼んでこい」

2013年06月07日 | 近世歴史と映画

 

 映画「八甲田山」


雪中行軍随行大隊本部

     山田少佐(第2大隊長):三國連太郎

      隊の指揮系統を乱し、結果的に大量遭難の原因を作ることになる悪役。

     倉田大尉:加山雄三

     沖津大尉:玉川伊佐男

     永野軍医:竜崎勝

     田村見習士官:日和田春生

     井上見習士官:仲野裕

     進藤特務曹長:江角英明

     今西特務曹長:井上博一

 雪中行軍隊の家族・親族

     神田はつ子(神田大尉の妻):栗原小巻

     徳島妙子(徳島大尉の妻):加賀まりこ

     斉藤伍長の伯母:菅井きん

     少年時代の徳島:石井明人

 案内人たち

     滝口さわ(宇樽部村):秋吉久美子

     沢中吉平(熊ノ沢):山谷初男

     福沢鉄太郎(熊ノ沢):丹古母鬼馬二

     沢田留吉(熊ノ沢):青木卓

     大原寅助(熊ノ沢):永妻旭

 その他

     作右衛門(田茂木野村・村長):加藤嘉

     滝口伝蔵(宇樽部村):花沢徳衛

     鈴木貞雄(三本木の宿の主人):田崎潤

     中里村の老人:浜村純

     西海勇次郎(東奥日報記者):船橋三郎

興行収入 25900万円 (1977年邦画配給収入1位)

 

《キャメラマン・木村大作の話》

 「高倉健を呼んでこい」

 

一九三九年東京生まれ。

日本を代表する映画キャメラマン。五八年東宝撮影部にキャメラ助手として入社。

黒沢明作品で仕事を学び、七三年の「野獣狩り」から撮影監督。

高倉健とは『八甲田山』以降、多くの作品で一緒に仕事をしている。


因みに、長望遠のロングカット及びバストアップのキャメラワークが

黒沢監督作品及び、高倉健主演作品に、高い職人技を駆使していたが、

何故か2000年前後から、その職人技が自らの監督作品も含め少なくなっているのが、

私自身は寂しい。

 

『八甲田山』の撮影に入ったとき僕は三五歳で、終わったときには三八になっていた。

三年の間、あの一本にかけたんだ。キャメラマンとして世に出たいと……。

それで頑張ったんだ。自分でもよくやったと思う。もうあんな映画は二度と作れない。

雪のシーンなんか蔵王のスキー場の脇でも撮れるのに、

結局は実際の場所で撮ることになった。

 あんまり過酷な撮影だったから脱走兵まで出たんだ。エキストラとして東京の劇団

から若手を三〇入くらい呼んだんだが、彼らが着ていたのは明治時代の軍服に、革靴でしょう。

よほど寒くて辛かったんだな。ある日、七~八人が逃げて戻ってこなくなった。

これはまずいと次の日から、脱走兵を見張る投まで作ったんだから。

健さんと言葉を交わすようになったのもあの苦しい仕事があったからだよ。

でも、あの頃の僕は映画に狂って働いてたから、しょっちゅう怒鳴りまくってた。

俳優さんの体を気づかうより、とにかくいい絵を撮りたいという一心で、

キャメラを回してた。

 『八甲田山』のなかで、大ロングのカットがあったんだ。

キャメラをかまえていたところから健さんたちの隊が行進する場所まで歩いて三〇分くらいかかる。

僕としては晴れ渡った岩木山を中心に撮って、山裾のほうをちょこちょこと兵隊たちが動いていればいい、と、

そんな絵を想像した。僕のプランを間いた健さんは、

「ここまでロングの撮影なら棒を立てて、そこに帽子をかけとけばいいんじやないか」と、

笑いながら呟いた…・…

そう助監督から伝えられたのだけれど、僕は本人に歩いて頂かなくては、

他の俳優たちの演技にしまりがなくなると思った。それで、そんな早朝に山裾を、

歩くだけの撮影に三日間心底かけたんだ。終わった時に、

健さんの処まで走っていって、はあはあ言いながら「ありがとうございました」と

頭を下げたら、「木村さん、ぼんとに、これですべて終わりましたね」と念を押しながら苦笑されました。

 もう一つあるんですよ。その次の日だったかなあ、健さんが先頭で歩くシーンと、

岩木山を狙うショットを撮らなぎやならなかった。山の天気だから晴れてる時間が短い。

雲が切れて太陽が顔を出しやっといい具合に山肌が見えた瞬間がきた。ところが、

健さんのメイクに時問がかかって、なかなか現れない。

「俺は山を撮りたいんだ。高倉健のメイクなんかどうでもいいから、早く呼んでこい

 まわりの奴に活を入れるつもりで、助監督にそう怨鴫ったんだよ。

あくまでもパフォーマンスだよ、本気じゃ無い。そしたら、なんとオレの言葉を健さんに

そのまま正確に伝えた奴がいてさ。内心、どうしようと思った。

 すると、なぜかすぐに健さんか現場に現れたんだよ。

それで山のほうを見て、

あっ、木村さん、これは僕の顔より山のほうかほるかに綺麗ですね」って言ったんだ。

それだけは覚えてる。

 


私自身も、この映画ほど、何度も何度も繰り返し観て泪した、

今後は二度と其れは無いだろう。


 

 

 


映画「八甲田山」 Ⅱ

2013年06月06日 | 近世歴史と映画

雪中行軍隊

    徳島大尉(第1大隊第2中隊長):高倉健

    田辺中尉:浜田晃        

    高畑少尉:加藤健一

    船山見習士官(気象担当):江幡連

    長尾見習士官(疲労度調査):高山浩平

    倉持見習士官(装備点検):安永憲司

    斉藤伍長:前田吟

    松尾伍長:早田文次

    川瀬伍長:吉村道夫

    佐藤一等卒:樋浦勉

    加賀二等卒(喇叭手):久保田欣也

    小山二等卒:広瀬昌助

    徳島の従卒:渡会洋幸

青森歩兵第5連隊

    津村中佐(連隊長):小林桂樹

    木宮(きのみや)少佐(連隊本部):神山繁

    三上少尉(遭難救助隊):森田健作

    花田伍長(遭難救助隊):伊藤敏孝

雪中行軍隊

    神田大尉(第2大隊第5中隊長):北大路欣也

    伊東中尉(第1小隊長):東野英心

    中橋中尉(第2小隊長):金尾哲夫

    小野中尉(第3小隊長):古川義範

    鈴森少尉(第4小隊長):荒木貞一

    中村中尉(第5小隊長):芹沢洋三

    野口見習士官(中隊本部):山西道広

    藤村曹長:蔵一彦

    谷川曹長(第5小隊):森川利一

    村山伍長(第5中隊):緒形拳

        青森5連隊でただ一人、田代温泉へ至る。

     高橋伍長(第1小隊):海原俊介

    渡辺伍長(第2小隊):堀礼文

    江藤伍長:新克利

    平山一等卒:下条アトム

    長谷部一等卒:佐久間宏則

         神田大尉の従卒。弘前31連隊雪中行軍隊斉藤伍長の弟。

     裸で凍死する兵卒:原田君事

    橇隊の兵卒:大竹まこと「最初の死者」

        小野中尉の従卒:浜田宏昭

 

 

 《小林稔侍の話》

 『八甲田山』(七七年)のときの顔が好きです。歯をくいしばってるような、

なんとも言いようのない、素敵な顔でした。

ちょうどヤクザ映画が終わって、独立されて……。

時の流れの狭間に入ってた頃だったんですね。結果的には犬ヒット映画になったのですが、

上映前は「まるで教育映画みたいだ」と不評だったんです。

なのに健さんは三年もあの映画だけに絞ってやっていた。

 だいたい普通のスターさんは一つの波で終わるものでしょう。一つの時代は作るけれど、

次の時代には終わってしまう存在ですよ。しかし、あの人は波を三つも持っている。

デビューした頃は青春スターで、その次はヤクザもので、その後が『八甲田山』と

『幸福の黄色いハンカチ』(七七年)……。いまだに主役を張ってるのはあの方くらいでしょう。

それにしても『八甲田山』。あのときの顔は今もまぶたに焼き付いています。

僕はね、健さんの映画はすべてを見てるんだ。デビュー作からすべてを。

 


映画「八甲田山」

2013年06月03日 | 近世歴史と映画

 

 映画 八甲田山

              

監督      森谷司郎

脚本      橋本忍

製作      橋本忍

野村芳太郎

田中友幸

出演者   高倉健       

北大路欣也

三國連太郎

加山雄三

音楽      芥川也寸志

撮影      木村大作

編集      池田美千子


 

高倉健の話

東映から外に出て仕事をしてからいろいろなことを学びました。東映のときは毎日

毎日、同じスタッフで仕事をしていたでしょう。ぽかぽかとした日向にいるような気

分で仕事ができました。会社だって心地のいい人たちを前面に押し立てて僕に仕事を

させようとするよねえ。それが外の風に当たるとまったく違った。ひとりで考えなく

てはならないことが増えました。

 それで『八甲田山』。

 あれはもう仕事を通り越してた。三年間、コマーシャルやらなかったし、

インタービューにも出なかった。

そんな余裕は無かった。史実では弘前連隊三十八人は十一日間の予定で雪中行軍したことになっているんです。

ところが演じ方の僕らは三年間、百八十五日も雪のなかにいたんですから。

自衛隊は今でも八甲田山で雪中訓練をやっているんですが、昔と違って現代的な装備で、

それほどきびしい条件ではないようです。けれども僕らは明治時代の服装でロケをやったわけでしょう。史実のままでした。

 毎日、朝四時半に起きて……。朝か弱いなんて言ってられないよ。

軍隊の装備をつけてメークアップして六時に点呼をとる。それからロケ地まで三時間くらい進軍して(笑)、

帰ってくるのなんか夜中の二時、三時ですよ。演技なんか考えている余裕はな

かった。どうやって体を持たせるか。撮影のない夏にはジムに通って健康管理して。

僕だけじゃありません。なかには体の弱い仲問もいたから、そいつにはオフの間の

トレーニンダ方法やビタミン剤の飲み方まで教えたりもしました。

 あのときは芝居なんて考えられなかった。雪のなかで立ってるだけでやっとの演技

で、まるでドキュメンタリーを撮ってたようなもんだよ。ただ、まわりの俳優さんは

「高倉健が我慢してるんだから」と何も言わないでやってたところもあるよね。今に

なって思えば僕が代表して「こんなことはできません」と言えばよかったのかもしれ

ないなあ。でも、言わないんだよ。僕には言えない。何も言わないで厳しいところへ

 それでも映画のセリフのなかでいくつか忘れられないものはあります。

 たとえば『八甲田山』のなかで、飯泉の嫁をやった秋吉久美子さんが僕ら軍人を

案内するシーンのセリフがそれです。暴風雪のなかをかよわい女性が先頭に立って、

軍人たちを案内する。道案内を終えた秋吉さんにお礼をするために、僕が号令をかける

場面があるんです。

 「全員、整列」

 「案内入寂に向かって、かしらI、右」

 一列に並んで敬礼をするんですが、あのときは出演者みんながシーンとしました。

映画のなかでも印象に残るシーンなんです。つまり、あのセリフ自体は特別な言葉じ

やないけれど、場面がいいからセリフが印象に残る。いいセリフとはいいシーンで使

われるものなんじやないでしょうか。


福島泰蔵大尉の残された母子

2013年06月02日 | 近世歴史と映画

 

 いかに、戦争とは、どんな時代でも、無残で残酷で有り無意味であり、残された家族は、

悲痛であり、またそれを、永遠に心の傷として残すのである。


 戦死後、妻キヱは、3年忌を前に、下記の手紙を、実家宛に送っている。



軍人の妻として、苦渋の手紙である。

 

因みに当時の、戦死者の祭祀料は、

少佐

75円

大尉

50円

中尉

35円

少尉

25円

准士官・下士

10円

兵卒

5円

当時の煙草は1箱4銭であった。

なを、恩給法は(大正12年法律第48号)に規定される。


その後の残された母子の消息については、私は胸が痛く文献を、探す気力がないので

お許し願いたい。

 

・昭和七年四月、群馬の刊根川べりに建碑。

 福島は、生涯を通じて、学究心の強かった激情闘魂の壮士。

 


参考 文献

八甲田連峰 吹雪の惨劇
小笠原狐酒・著)

八甲田山 死の彷徨
(新田次郎・著)

青森市史 別冊
 雪中行軍遭難60周年誌
(青森市史編纂室・編纂)

雪の八甲田で何が起ったのか
(川口泰英・著)

青森歩兵第五連隊
 雪中遭難記録写真集
小笠原狐酒・監修)

われ、八甲田より生還す
 弘前隊・福島大尉の記録
(高木勉・著)

八甲田山から還ってきた男
 雪中行軍隊長 福島大尉の生涯
(高木勉・著)

八甲田山 死の雪中行軍
 真実を追う
(三上悦雄・著)

青森聯隊遭難 雪中行軍
(百足登・編纂)

遭難始末
(青森歩兵第五聯隊・編纂)

八甲田遭難記
(陸上自衛隊第九混成団本部・編纂

広報とわだ No.1031
(十和田市・発行)

 



懐しのわが家へ

2013年05月29日 | 近世歴史と映画

 

辛うじて浦町駅に転り込み、ここから乗車して東北線沼町駅に下車。
八里の道を増沢に向かい進んだが、誰一人語るものはない安否を

気づかい待ちわびている妻子をしのびながら・・・
漸くにてわが家の敷居をまたいだのは27日午前2時頃。
家内に支えられて倒れるように家の中に転り込んだが、

顔面ははれあがり、四肢は凍傷に冒され、股引は脱ぐ事が出来ない。
仕方なく切り開いて脱ぐあり様である。
その上、二目とはみられぬ容貌に家族等皆泣き悲しんだの当然である。
それでも生きて還ったことを家族等はせめてもの事として喜んだ。
その后、病者のように床に臥しなどして数日を経たが凍傷の手当ての

療法も判らぬうち症状が悪化するものが続出した。
中沢由松氏の如きは回復せず、十数年廃人同様に過ごし、

遂に死亡したのは誠に同情に値するものである。


さて省みるに彼等7名の行動は、一命をかけて忠実勇敢にその本文を

尽くしたために五連隊の遭難に引き替え、三十一連隊の雪中行軍隊は

完全に八甲田の猛吹雪に耐え、一人の落伍者も出さずに決行することが出来たのである。
これはまさに此のかくれた犠牲者の行為の賜である。

此の功績は称賛して余りあるものであり見聞そのまま埋れ行くのを愁い、

奇跡的に生還した案内者7名の中、当時の生存者4名の御来席をとくに願い

収録したもので、実録であります。


粗文ではありますがその時にこんな事もあったのかと読者の

御記憶や知識の片隅にとどめおき願えれば幸いでございます。

彼等7名の偉業を称える東道旌表(せいひょう)碑と解説文
『東道』とは、道案内の意味で
『旌表』とは、褒め讃えるという意味である


再考、八甲田山雪中行軍 9

2013年05月28日 | 近世歴史と映画

 

共に励まし合って


 位置を知り方向を定めばほっと安心したのも束の間、大尉は意外にも「汽車賃なり」といつの間に

準備したのか金2円づつを7名に渡し口を一文字に結んでいった。

「過去2日間の事は絶対口外すべからず」と唯一言。

無情にも吾等を置き去りにして隊員を引卆し、何処ともなく暗闇の中を出発して行った。

同伴をすがることも出来ず、吾々はただ呆然として失神同様となってしまった。
やっと気をとり戻したものゝ、暗夜、しかも土地不案内の雪路に放り出すように残された、

吾々7名は生きた心地もなく田茂木野村を目指して、病者の群れのごとく、

辿り進む哀れな身の上となってしまった。
沢内鉄太郎氏は途中やぶ蔭を見付けては幾度か眠りをとろうとした。

睡魔に襲われたのである。
ほとんど意識を失い吾々は幾度か呼んだが答えない。
省みれば24日に増沢を出発して以来、2昼夜不眠不休その上、

途中僅か一食をとっただけである。
だから空腹と疲労のため遂に仮死状態となってしまったのである。
彼は八甲田の地理に詳しい数少ない存在で、終始一行の先導をし、

数十名の生命が常に彼の双肩にかかったことが幾度かあったのである。

このような恩人を見捨て置くことができるだろうか。

吾々は極度の疲労をも省みず、死なしてなるものか死なば諸共と互に励し合い、

抱き起こそうとしては共に倒れ、起きては抱き、抱きては転び、正に雪だるまのようになって、

漸く田茂木野村と思われるに辿り着くことが出来た。

 未だ夜中であったがの所々の家は起きており何やら騒々しさが感じられる。

一刻も早く睡眠と食事を取りたいものと、さる家に宿を頼んだが無念にも、

断られ暫く軒先きにて立往生したが、田茂木野村であることを知る事が出来た。

聞けば五連隊捜索隊の宿泊する為であるとか。
やむなく乞うて土間を借り木炭を譲り受け、鍋を借りて「ワッパ」の儘煮て、

氷となった飯を解かし之を食べた。

時午前4時頃、精神もうろうとして昼夜の区別がつかない。

又自我の意識もはっきりしない。

死んでいるのか生きているのか只夢心地でしばらくの間、うたた寝をしていたのである。
いつまでもこのようにしていることもできないので、一同は覚悟を決めて同地を出発、

正午頃漸く待望の青森に転るように辿り着くことが出来た。

 

途中、人・馬橇が陸続として一里以上も長く続いて擦れちがった。

これは五連隊遭難兵の捜索隊であったのである。




再考、八甲田山雪中行軍 8

2013年05月27日 | 近世歴史と映画

 

あれが青森の灯だ


 やがて午前零時と思われる頃、前方より数知れぬ人影や提灯が横隊を、

なし前進してくるのを微かに認めた。


一同奇異を感じたが、隊長の元気な「救援が来た。」との言に躍り上るような

気持ちでしばらく待った。

期せずして吾々の足がその方向に進路を変えたのに大尉は何を思ったか

「同じ方向に進むべからず」といった。

早くも提灯の列は縦隊と変り、目前に迫って来た。

止むなく避けようとしたが、隊列は直進して来る。

不思議なことに今まさに突き当たると思ったときに右に折れ、

忽然として灯火が消え吾々の囲は又元の暗闇、

一同唯唖然として立ちすくんでしまった。

狐狸の仕業か? 亡霊か? 心の錯乱か?

不思議な現象に直面して、心は惑い方向を失いさまよう中に微かな汽船の

ドラの音に正常な意識をとり戻した。

その方向は遥に右方から聞こえる。
眼をこらし全身の神経を集中してその方向を見ると、

電灯らしい光が点々と見えてくるではないか。

青森であるとを直感し、初めて夢から醒めた心地であった。



再考、八甲田山雪中行軍 7

2013年05月26日 | 近世歴史と映画

 

あゝ惨五連隊の凍死兵


 やがて途中鳴沢から数町手前の小高い丘で軍銃の逆に立っているのをみた。

大尉が渋い顔をしていった。

「どんな馬鹿が銃を捨てたのか」と憤慨の様子。

吾等に命じてその銃を担がせて進むと又も一丁発見した。

これをも担がせて鳴沢の峡をよじ登り、小屋より北方へおよそ十五・六町

(今の銅像の地点)に達した時は午后時頃と思われる。

 此の地は北西に面し、青森市を一望のもとに眺めることができる場所。

遠く函館と相呼びあうことが出来る地で高さ千二百尺、

冬季になって寒風が吹けば何物でも吹き飛ばすと云う難関の高所である。

此処より田茂木野村へと目指して下っても暴風は尚止まない。

すでに案内者各自は疲労が甚だしく、意識ははっきりせず眼はもうろうとして白雪も色彩を帯び、

着衣は上下共(麻織製)氷結して少しも曲がらず棒のような足で夢遊病者のように降りて行った。

ふと黒色の物を発見し近寄って見ると凍死兵!

是が五連隊雪中行軍遭難兵であった。(後刻判明)

嗚呼彼等はこの難所で一命を失ったのか、 仰向けに打倒れ銃を握り締め眉毛に雪が凍りついている。

一同は深く冥福を祈りつゝ吾身に引き換えこの惨たらしき屍をしばらく呆然として眺めていた。

いつしか暗黙の夜となった。

しかし大尉の「手を触るゝべからず」との命に空しく同情しつゝ山を下ること約一~二町、

又数個の凍死体を目撃し同情の念を投げつゝ下り続けた。




再考、八甲田山雪中行軍 6

2013年05月25日 | 近世歴史と映画

 

空小屋発見


 五名は行けども進めども新湯らしき所に着かず、暫く途方にくれたが、

この儘では凍死あるのみと凡そ2時間程探し求めた結果偶然!全く偶然!

待望の新湯でなく一戸の空小屋を発見した。(三戸郡出身の開拓者仮住宅)

蘇生の心地で転り込み、闇を手探りして燃料を探すと幸いにも梁の上に板が多数あるのを発見し、

早速焚火して初めて暖をとることが出来たが、既に五名は力尽きて気力が衰え無言の儘に車座となった。

そのうち誰れ云うとなく、「吾等は生きて帰る見込みがあるだろうか?」

答えていうには、「食糧は大尉等一行に預けて置いて来たので一食もない。

吹雪は益々烈しくなるし、さりとて新湯に着くのはむづかしく此の地の鬼と化すに近いであろう」と、

一同遭難の刻一刻と迫りつつあるのを感じ、悲嘆にくれながら語るうち誰れかが云った。

「吾等はこの儘では唯死を待つだけであるから彼等を残して増沢へ引き返してはどうだろう。」

との名案が出たので慎重に協議した。

しかし意見は容易に決らず、空しく時を過すだけである。

各自思案の末「若し我等五名が不幸にして途中遭難!と仮定すれば大尉等一行も

同様無惨な途を辿るであろう。そうなれば彼等の消息を何人が世に伝えようか。

伝える者がない。また吾等の事をも何人が家族に伝え得るだろうか途中命尽きて

倒れるものがあるかもしれないが、

すぐ引き返し一行を連れて来て此の小屋で一 夜を明かそう。」との結論的意見に一同は共鳴した。

 留守一人(沢内吉助 増沢本家)を残し、上らない足を引きずるようにして再び戸外に出た。

あゝ その決意は真に悲壮の極といっていゝであろう。

然るに外界は魔の暗夜、依然として吹雪は烈しく前の方から吹きつけ身を支えがたく、

先程通った路は早くも跡形もない。

又もや肩で雪を押し、泳ぐようにして進んだが幸い路を間違わずに赤川で待ちわびている一行に再会し、

隊長に小屋の発見を伝えたところ即時に同意して下さったので直ちに一行と共に引き返したが、

不幸な事に又もや路後がなくいくら行けども小屋が見当たらず、さては方向を間違ったのでは、

なかろうかと不安に思 い、一同声を限りに叫んだが猛吹雪に遮られ応答がなく

最后の力もまさに燃え尽きるかと思われたそのとき、後方でかすかに燈火を振っているのを目撃したので

その方向へ引き返し、漸くにして辿り着いた頃は東の空がほのぼのと白みはじめ午前5時頃と思われた。


 しかし小屋は全員を収容するにはせまいので、隊長は仕方なく半数を屋外に、

残し二列縦隊に整列させ一二・一二の掛声をかけて歩調をとらせ、各自を励まし小屋の回周を行う様に、

命じて屋内の者と交互に暖と食事を摂らせた。


 しかしながら増沢出発以来初めての食事なので早速食にありつこうとしたらワッパの飯は氷結しており、

小刀を借りて切り取り火にあぶって食べるに喉を通らず、その三分の一も食べれる者はない。

頼みの餅も同じように氷結し石のように堅くて歯が立たず、

止むなくホド蒸しのソバ餅を食べて腹を満たし2時間程休憩した。
大尉徐に吾等にいうに「最早新湯に行く必要はない。

君等は此処から引返すよりは一緒に青森へ出る方が便利ではないか」との言葉に一同は喜び、

それに同意して午前7時頃、同小屋を後に出発した。
相変わらず先頭を命ぜられて進むほどに雪は小降りになったが、

酷寒は益々加わり積雪既に身の丈を越すあり様で、

胸で雪を押しながら立ち泳ぎの状態で前へ進んだ。

隊列を前方から眺めればさながら首の行列のような壮観ではなかったろうか。