何かと物議をかもす徳であるので、三右衛門としては名主の同意を取っておきたかったのである。
徳の後見問題は、いつの間にやら名主まで登場し、公的な側面を持ち始める。
三右衛門は改革組合大惣代ということもあってか、五目牛村に対し、土産まで進呈し、公式な挨拶の儀礼を行っている。
一金百疋
御名主 渡辺三右衛門
御役人中江 渡辺三右衛門
一金弐百疋
御若衆中
若者世話人 嘉藤次、金次郎
渡辺三右衛門
若者世話人 和太郎 龍 蔵
孫之丞 式 蔵
続く
何かと物議をかもす徳であるので、三右衛門としては名主の同意を取っておきたかったのである。
徳の後見問題は、いつの間にやら名主まで登場し、公的な側面を持ち始める。
三右衛門は改革組合大惣代ということもあってか、五目牛村に対し、土産まで進呈し、公式な挨拶の儀礼を行っている。
一金百疋
御名主 渡辺三右衛門
御役人中江 渡辺三右衛門
一金弐百疋
御若衆中
若者世話人 嘉藤次、金次郎
渡辺三右衛門
若者世話人 和太郎 龍 蔵
孫之丞 式 蔵
続く
何かと物議をかもす徳であるので、三右衛門としては名主の同意を取っておきたかったのである。
徳の後見問題は、いつの間にやら名主まで登場し、公的な側面を持ち始める。
三右衛門は改革組合大惣代ということもあってか、五目牛村に対し、土産まで進呈し、公式な挨拶の儀礼を行っている。
一金百疋
御名主 渡辺三右衛門
御役人中江 渡辺三右衛門
一金弐百疋
御若衆中
若者世話人 嘉藤次、金次郎
渡辺三右衛門
若者世話人 和太郎 龍 蔵
孫之丞 式 蔵
続く
他の同族の本家仲右衛門、分家安五郎が、組頭伝兵衛と新田の国之丞を通して、
三右衛門に是非徳の後見になって欲しいと頼んだ。
三右衛門は村役人も同意ならば承知しましょう、と返答した。
そこで一同はその足で名主弁次郎を訪れる。そこでは村用で居合わせた宇忠太、初太郎まで、
加わって、後見となるよう、よろしく頼むと頼まれた。
其れを示す手紙は下記の内容である。
「五目牛村お徳殿本家仲右衛門殿・向分家安五郎殿よりお徳殿後見ヲ我等江同村伝兵
衛殿・同村新田国之丞殿両人ヲ相頼、右後見仕呉候様被申入候、我等相答族は村役人中も
同様之儀族ハヾ承知可仕旨及挨拶、然ル処伝兵衛殿・国之丞殿・仲右衛門・安五郎殿、名
主弁次郎と申方江罷出候、(中略)折節小割勘定とか申、居合族人宇忠太殿・初太郎殿此三
人之方より後見被頼之旨申入ル、何れ宜敷く頼と抜頼族」
続く
徳の狙いは三右衛門の「世話」になり、「後見」になってもらうことにあった。
他はあるときは執拗に、あるときは用意周到に根回しを怠らない。
年が明けて嘉永五年(一八五二)、他の動きは一段と活発となる。
まず五目牛村の周辺を固め、三右衛門に迫ることである。組頭を務める隣家の神沢伝兵衛が一番の協力者であった。
三右衛門を酒で饗応し、五目牛村の旧跡を案内したりしている。
もちろん同族の絆が物を言う。義弟清七、親類の長老格の安五郎、そして本家筋の菊池仲右衛門まで加わって、
`三右衛門に後見となるよう懇願している。二月二日、
徳のところに一泊した翌日のことである。
続く
忠治貸帳の清算
三右衛門は忠治の貸帳の貸金取り立てについても相談を受け、複雑な経緯をメモにした。
覚
嶋村三次郎事
当時木崎宿二而
田中や三次郎
右之もの江金拾両也忠次郎貸有之候処、中山様忠次郎貸帳は右お徳江御下ケニ相成ル
金拾両之内弐両受取
残リ八両也 内金五両也去忠次郎一件之砌金五両は三次郎より出候由、同人江催促仕候処、
同人申すには今井村伊三郎ヲ以去十月十日二忠次郎へ相対二面而相渡し候様ニ被申候、金子八九月
栄助へ伊三郎より相渡スと被申候、今田中や三次郎方二受取有之由二候処、受取書小俣村栄助
之自筆之由、人々被申候由、然ル処、当六月十四日、国定村重兵衛大間々宿二面右伊三郎二逢
ひ、右金一条聞合、伊三郎亦々申ニは丸山善太立合二面相生町正助へ相渡し候由ヲ被申候
生前忠治が、嶋村三次郎(木崎宿では田中屋)に貸した十両が、関東取締出役中山誠一郎が押収
し、徳に下げ渡した忠治の貸帳にあった。お徳が催促したところ、二両は返して残金はハ両である。
そのうち五両は今井村の伊三郎から、十月十日、玉村宿で収監されている忠治に直接渡す、との返
答であった。五両は九月二十九日、伊三郎へ渡され、受取書の日付は十月一日、実際の渡し方は、
玉村宿の道案内関根屋三右衛門のところで伊三郎から小俣村栄助へ渡すとのことであった。
このときの受取書が木崎宿の田中屋三次郎方にあるとのことだが、
小俣村栄助の自筆であると周囲の人々は言っている。
五両の金は忠治に返されずどこへ消えたか。六月十四日、子分重兵衛が大間々宿で
伊三郎に直接問い糺したところ、丸山善太の立会いで、桐生町の正助へ渡したとのことで、
話の筋が全く読めない。
まず傑刑になった博徒忠治の生前の博突その他の貸金を書き留めた貸帳が存在し、
これを押さえた中山誠一郎が徳に下げ渡していることに驚かされる。
お上は忠治を極刑に処しながら、一方で忠治の悪の本業の博突を見逃していることになる。
忠治は死んでも貸帳はお上公認で生きているから、木崎宿三次郎の十両の取立てが行われたので
ある。あの手この手を使い返済を迫るが、相手もさるもの、仲介と称して割前をはねようとする
悪が入れ替わり立ち替わり登場してウヤムヤにしようとする。
伊三郎、関根屋、栄助、正助等は煮ても喰えない二足草鞍の禿鷹のような連中であろう。
彼らを腕ずくで押さえる力は国定一家にはもうない。
忠治の子分重兵衛とて五十一歳の老境である。
頼りになるのはお上にも裏世界にも顔の利く三右衛門しかないと、徳は思い込んだ。
続く
徳の三右衛門への働きかけは忠治絡みである。嘉永四年七月二十一日、三右衛門の三回目の訪問
の際の出来事である。
「五目牛村お徳の方へ罷出候処、国定村重兵衛居り面談いたす、同村友蔵義去戌年
御取締御出役中山様、関様より御差紙之節逃去り、此節帰農仕度侯間、御伺下され被伺
被下度申入候、国定村領主松平誠丸様、五目牛村地頭は平岡鐘之介様、但し両者佐位郡也
右五目牛村お徳より被申候事」
上記の文面では
おとく殿(呼び捨てにしていない)へ出かけた処、国定村重兵衛(忠治の子分次郎右衛門、中追放の刑を受けていた)が居て、去年の召捕りのとき、関東取締出役の中山・関両人から出頭するよう差紙をつけられながら逃亡した忠治の弟友蔵が帰村したがっている。
大総代の三右衛門の方から出役の二人に御意向を伺ってみてはくれまいか、国定、五目牛どちらでも良いが、念の為国定の領主は、前橋藩の松平誠丸様、五目牛は旗本平岡鐘之助様です。両者とも佐位郡においでになります。と五目牛村のおとくから言われた。
徳は忠治はじめ自分をも捕らえた関東取締出校の中山・関の二人に最も近いところにいる大総代の
三右衛門を介して、「忠党」の弟友蔵の正式な帰村を認めるよう頼んだのである。
徳の家には中追放に処せられ、居てはならないはずの忠治の子分重兵衛までが居合わせている。
なんとも融通無碍の世界である。三右衛門の尽力で帰村したのか、確証はないか、その後友蔵は、
一家を構え、糸繭商として財を成し、兄忠治亡きあと長岡家を盤石なものとした。
続く
渡辺三右衛門の人別は玉村宿にはない。玉村宿の隣村福島村に移住する。
福島村は家数五十軒余り、村高八百九十二石余、内五百九拾七九石余が旗本大久保筑前守の、
知行所、いう、二人の旗本が支配した。
村の生業がわかる反別は、二十三町2反四畝が田方「二十八パーセント」五十九町二反四畝畑方
「七十二パーセント」で、畑方優位な上州の典型的村落である明治元年〔村方明細書上帳〕
渡辺家は旗本大久保筑前守の支配に属し歴代名主を務める名家であった。
名主として両辺村四の紛争処理に頭角を現した。三右衛門は、四十歳の弘化三年「一八四六」、
玉村宿外二十四か村改革組合村の大総代選任される・組合村及び旗本分の二給含めて二十七枚の
入れ札の結果二十五枚獲得するという圧倒的人気であった。
以上の様な公の顔役に、渡辺三右衛門に徳は、人生を掛けた。
続く
渡辺三右衛門とは、徳が玉村宿の旅籠屋大坂度弥平次に収監され、種々取り調べを受けていた
嘉永三年(一八五〇)十月九日、十両の貸金取り立てを三両の礼金で仲介して貰ったのが、
馴初めであった。
江戸に送られ、公事宿坂野屋平五郎預けとなった十月末から十一月初め、訴訟で出府した
三右衛門と再会し両国廻りで二度も酒食をともにし、五目牛村の菊池本家に緊急の書簡を、
託したりもしている。
忠治一件か落着した翌嘉永四年に入ると、交際は加速する。飛脚や親類、知己を介しての
付き合いあったのが、四月十三日には三右衛門の方から五目牛村の徳を訪ね、
一泊している。
五月二十九日昼過ぎから翌月の六月一日まで滞在して、組頭伝兵衛を紹介されている。
徳は意図して玉村宿の顔役渡辺三右衛門に近付いたに違いない。普通の付きいなのか、
単に男女関係なのか、転んでもただでは起きない徳のことだから、何か大きな狙いがあるので
ないだろうか、 おそらく狙いは三右衛門の顔を頼りに、蚕景気に賑わう玉村宿で
一旗挙げようということを考えて行動したのだろう
ところで徳が目を付けた三右衛門(どのような人物なのか、三右衛門は天保十三年(一八四二)
十二月から、「御用私用掛合答外日日記」と題して、公私にわたり、その日の出来事を詳しく
日記書き留めていた。
渡辺三右衛門の日記から、徳のその後があぶり出されて来る。
続く
忠治磔刑後、公儀の眼を盗んで埋葬と供養に奔走した徳は、首は養寿寺法印貞然和尚に託し、
自らも情深墳を建立して遺体を葬送したことで、やるべきことが一段落した。
良きにつけ悪きにつけ、生き甲斐となりでいた忠治という後ろ盾を失い、自らも押込の罪を蒙った今、
本来は忠治の悪逆を滅罪するためにも、五目牛村一農家の寡婦として、残った生涯を平穏に、
終わるべきであった。徳は板橋宿での忠治との永別に臨んで、必ず尋常に御公儀様の御用に
立つように、と要求したからには尚更である。
ところがそれはそれ、また新たな生きがいを求めて行動を起こすのか、徳の生き様である。
忠治傑刑のほとぼりの醒めない頃から、徳は玉村宿を寄場とする改革組合総代渡辺三右衛門に
接近していく。
続く