◎忠治逃亡の経路 其の弐
十人ほどの徒党であるから、村人の目につかないはずはないわけで、
忠治の抜け道したのは、すぐ大戸関所から大笹関所に急報されて、
この地方の村人は厳重な見張りをした。大戸寄場からの通知はつぎのようなもので、
嬬恋村三原の区長の中に伝えられている。
大戸寄場より廻状
右之通り、御取緒方様より被仰渡候間、写遺し申候、早々組合村々江
御通達可被成候、且自然右躰之者共、通行も間道も御座候ハヽ、
無油断御手当可披成候、此廻状昼夜刻付ヲ以御順達、留村より御返し可抜成候
寅九月廿日 申上刻出ス
大戸寄場 大惣代 市郎右衛門
同 丈 八
大柏水始干又留り
伊勢崎頷下植木村 無宿 浅太郎
八須村 同 七兵衛
堀口村 同 定 吉
壱拾七八
保墨村 同 字之吉
同 孫 蔵
国定村 同 忠次郎
日光 同 円 蔵
此者太り候者
右之者共、当月八日之夜、上州新田郡尾在村百姓勘助親子共、槍を以殺害いたし、
剰勘助首ヲ掻切待参り、其後所々江生首持押入、金子奪取候者共ニて、
召捕方被仰渡候間、何れ追々信越之方江逃去可中間、組合村々、
居酒屋其外商人屋は勿論、番等迄厳重中付置、通筋任者見張之者
当月晦日頃迄差出し、右ニ似寄候者ニても無油断差押へ、
手当之上早々其段中山道筋、我等并同役廻村先任注進可中候、以上、
関東御取締出役
石 井 多七郎
榎 山 近 平
右之外国越之抜道有之候ハヽ此書付相廻し可申候、以上、
これによって忠治一党が大戸関所を通り抜けたのは、九月二十五日で、
大戸から大笹関所に急報された。この情報によって大笹方面では、村方総動員で
手配したようで、六里ケ原から信州小諸に出る車坂で円蔵らを召捕っている。
書類の内容は下記の通りである。
右之者共之内、無宿之者三人、外に名前無御座候者壱人、〆四人、
大笹村地内車坂ニて大笹人見付、九月廿五日差押へ搦取、同月廿六日差立相成、
縄附にて村役人弐人差添、人足差出し、草津村江送り申候、
とある。日光円蔵らを召捕ったという知らせが大笹関所にも通知されている。
また十一月に伊勢崎にいた八州役人中山誠一郎からは、
つぎのような廻状が出されている。 (利根郡白沢村平出文書)
国定村無宿忠次郎、其外同類共召捕方二付、其筋手配申談置候処、
今以同人行衛不相知、尤同類之内無宿円蔵差押、明十九日差立候、
右二付最早出張いたし居候ニ者不及候間、出口々村方ニ而も此上精々心掛、
怪敷もの共差押置、早速可中越旨談置、
手配之もの者引払候様可被致候、自分共茂明日者伊勢崎町一卜先引払候、
此書付早々順達無洩落夫々可被申通候、以上、
寅十一月十八日
伊勢崎町御用先
関東御取締出役
中 山 誠 一 郎
大笹関所にもこれと同じような達しがあって、円蔵ほか一人を召捕ったとある。
その一人というのは赤堀村無宿相吉である。相吉は死罪になり、
円蔵は牢死してしまった。なぜ牢死したかわからないが、生きていれば
文蔵と同じ獄門首だっただろう。
つづく
なを、勘助殺しの一件については、後日改めて詳細に記載したい。