アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の壱拾五

2013年08月31日 | 近世の歴史の裏側

 

◎忠治逃亡の経路 其の弐

 

十人ほどの徒党であるから、村人の目につかないはずはないわけで、

忠治の抜け道したのは、すぐ大戸関所から大笹関所に急報されて、

この地方の村人は厳重な見張りをした。大戸寄場からの通知はつぎのようなもので、

嬬恋村三原の区長の中に伝えられている。


  大戸寄場より廻状

右之通り、御取緒方様より被仰渡候間、写遺し申候、早々組合村々江

御通達可被成候、且自然右躰之者共、通行も間道も御座候ハヽ、

無油断御手当可披成候、此廻状昼夜刻付ヲ以御順達、留村より御返し可抜成候

     寅九月廿日 申上刻出ス

              大戸寄場  大惣代  市郎右衛門

                       同    丈   八

大柏水始干又留り

 

                 伊勢崎頷下植木村  無宿 浅太郎

                      八須村    同  七兵衛

                      堀口村    同  定 吉

                                壱拾七八

                      保墨村    同  字之吉

                               同  孫 蔵

                      国定村    同  忠次郎

                      日光       同  円 蔵

                              此者太り候者

 

右之者共、当月八日之夜、上州新田郡尾在村百姓勘助親子共、槍を以殺害いたし、

剰勘助首ヲ掻切待参り、其後所々江生首持押入、金子奪取候者共ニて、

召捕方被仰渡候間、何れ追々信越之方江逃去可中間、組合村々、

居酒屋其外商人屋は勿論、番等迄厳重中付置、通筋任者見張之者

当月晦日頃迄差出し、右ニ似寄候者ニても無油断差押へ、

手当之上早々其段中山道筋、我等并同役廻村先任注進可中候、以上、

 

                          関東御取締出役

                             石 井 多七郎

                             榎 山 近 平

右之外国越之抜道有之候ハヽ此書付相廻し可申候、以上、

 

これによって忠治一党が大戸関所を通り抜けたのは、九月二十五日で、

大戸から大笹関所に急報された。この情報によって大笹方面では、村方総動員で

手配したようで、六里ケ原から信州小諸に出る車坂で円蔵らを召捕っている。

書類の内容は下記の通りである。


  右之者共之内、無宿之者三人、外に名前無御座候者壱人、〆四人、

大笹村地内車坂ニて大笹人見付、九月廿五日差押へ搦取、同月廿六日差立相成、

縄附にて村役人弐人差添、人足差出し、草津村江送り申候、

 とある。日光円蔵らを召捕ったという知らせが大笹関所にも通知されている。

また十一月に伊勢崎にいた八州役人中山誠一郎からは、

       つぎのような廻状が出されている。   (利根郡白沢村平出文書)

  国定村無宿忠次郎、其外同類共召捕方二付、其筋手配申談置候処、

今以同人行衛不相知、尤同類之内無宿円蔵差押、明十九日差立候、

右二付最早出張いたし居候ニ者不及候間、出口々村方ニ而も此上精々心掛、

怪敷もの共差押置、早速可中越旨談置、

手配之もの者引払候様可被致候、自分共茂明日者伊勢崎町一卜先引払候、

此書付早々順達無洩落夫々可被申通候、以上、

     寅十一月十八日

                     伊勢崎町御用先

                        関東御取締出役

                           中 山 誠 一 郎

 大笹関所にもこれと同じような達しがあって、円蔵ほか一人を召捕ったとある。

その一人というのは赤堀村無宿相吉である。相吉は死罪になり、

円蔵は牢死してしまった。なぜ牢死したかわからないが、生きていれば

文蔵と同じ獄門首だっただろう。

                                つづく


なを、勘助殺しの一件については、後日改めて詳細に記載したい。


 

 

 


真説 国定忠治 其の壱拾四

2013年08月30日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治逃亡の経路 其の壱

 

天保五年七月二日に、子分の三ツ本文蔵(大見山)の恥をそそぐと、

云う事で、伊三郎を尾島町北米岡の原田で殺したことは前に述べたが、

身辺の危険をさけるために信州に逃亡し、松本のばくちの親分、

勝太という者のところに隠れた。そのころ、信州中野地方(現在の

中野市一帯)にばくちがはやり、さかんに行なわれていたので、

忠治は三ツ木文蔵を連れては、しばしば賭場荒しをやっていたようで

ある。すでにこの時に、伊三郎殺しで兇状持ちになっていて、

追究されていたことは、「赤城録」にある、中野の偽役人一喝の

逸話によってもわかる。それは、ある時、中野のやくざが、捕手に

化けて十人あまり、逮捕に向かったが、忠治は早くもこの偽役人を

見破り、「この犬ども、糞でも喰らえ」と叫んで、二十人の中に躍り

込み、刀をふるって追い散らした事件を伝えている。これは、

忠治の身辺に逮捕の手がまわっていたことを物語っている。

この信州行きのコースは、おそらく室田から三ノ倉、権田を経て

萩生峠を越し、大戸を経由して須賀尾-狩宿―六里ケ原―車坂―小諸と

いうコースであったと思える。現在六里ケ原(浅間山山麓の北東部に

広がる大平原、六里ヶ原(標高1116m)は、あまりに広大なので六里

(約24km)有るのでこの名が付いたとされる)の大笹(嬬恋村)区域に、

天明三年に噴出した溶岩の巨大なのがいくつかあるが、そのなかに、

忠という墨書かあるものが二、三残っている。地元の人達は、この

符号は、国定忠治が、信州へ逃げる時にあとから来る子分のために

記した道しるべであったと伝えている。あるいはそれは真実でだと思う。

大戸には、関所があり、そこにはすでに手配の人相書が届いていた

はずであるが、これを破って(通行手形という通行証明書を持たずに、

抜け道を通って)信州へ落ちたと推定される。

忠治が信州へ往来するのに利用したと思われる間道が、いま一つあった

ようである。車坂(標高1975m)越えは寒くなると通行できないので、

鹿沢温泉の角間峠を越え、角間山(標高1980m)の中腹を通り、北信地方へ

抜けたと思われる。というのは、角間峠(標高1590m)の古道の途中に

「三望(さんぼう)ヶ池」というところがあり、その近くに自然の岩窟か

あり、忠治が赤城山から浅間山伝いにきてこの岩屋で一夜を明かし、

信州へいったという話を、鹿沢温泉紅葉館の主人が伝えている。

信州から来るときここで一夜泊まり、大戸へ出、大戸の宿を通ったと

いう。岩窟は畳四畳半ぐらいで、奥の方は八畳敷ある広さだという。

山の傾斜面にあるあつらえ向きの岩屋である。野沢温泉村の妾のところを

アジトとしたとすれば、この話も全くの作りごとでもなさそうである。


服装について、忠治は逃亡者であり、常に逃走を前提に着衣も

考慮していたと私は思う。したがって冬場は防寒を考慮して

通常の、三度笠と、旅合羽ではなく、

蓑笠に、旅笠も強風と原生林を逃亡する為、表面積の少ない

風の抵抗が少なく防雨、防寒になり防刃にもなる蝋塗の

下記の様な旅笠を着用したと考えている。

それに加えて、防寒に下記の着用も考えられる。

脇差も、逃亡する際邪魔にならぬ様また、不意打ちを常に念頭にいれて、

 

全長を短くするために鞘の先端まで、刃の先端まで収まる様にし

なるべく全長を短くし竹藪などで邪魔にならぬ様にし又、

刃背つまり、棟は武士の棟と比べ、厚く折れに強く重く敵に打撃与える

脇差にしてなをかつ、己の命を守る為に思案したと考えると

鞘の外側を金属で覆い咄嗟の場合に抜かなくても防具として

使用出来る様に、全長で2尺5寸程度に造り替えたと考える。

白鞘は、用心の為、懐に忍ばせていて長さは全長で尺5寸以下で、

道中では滑り止めの為、布に包み着衣内側の背中に収めていたと、

思うそれは、走ったりしゃがむ際に邪魔になり不便でからである。



                        つづく

羽倉簡堂

 

羽倉簡堂は各地で代官を勤めた役人で、晩年は学者として生きた。

忠治と直接会った事は全くないが、国定忠治の時代を生きた人で、

同僚には係わった知人を多く持ち、裁判記録を入手できる立場にありそして、

国定忠治とは全く立場を逆にする人物ですが、国定忠治を題材にした。

『赤城録』著者として国定忠治研究の資料となっています。

忠治が救民活動を行ったとする話はこの『赤城録』に掲載されています。

国定忠治はただのごろつきだったと主張する人達には全く都合の悪いこの記録について、

後世の贋作であるという声もありますが、羽倉簡堂でなければ書けなかったであろうと

思われる記述も多々あり、忠治没後書かれたとしても全体として参考になる資料で

あるというのが一般的な評価ですが、忠治の地元及びその周辺には、私がこの十数年

丹念に、調べたが、その様な忠治が救民活動を行ったとする話はありません。

郷土史家と称する方が、その様な事を述べておりますが、その根拠は全て
『赤城録』を、元に推測してある部分を誇張している様です。

 


真説 国定忠治 其の壱拾参

2013年08月29日 | 近世の歴史の裏側

 

○刑の運用と実際について

 

普通、敲きの場合の敲き役と数え役、検分役人が立会うが、

敲き方にいろいろあって、無宿や博徒人などは十分に敲かれる。

百敲きでも、数役が九十九といい、つぎは百でおしまいであるが、

百度目を敲いても、数え役は九十九という

したがったまた敲くが、また九十九である。悪業を尽したやくざ者で

あると、死ぬまで敲かれたが、見ている人には、その罪を重さがよく

わかったわけである。(その場合は、病死となる)

 余談であるが、安政四年、下渕名村と花香塚村の水喧嘩があった。

旱り続きで、田水がなく早川を渕名で堰きとめでしまったからで、

下流の花香塚村が江戸に訴訟した。その結果天下の田畑用水は平等に

つかうべしとことになり、渕名村名主は重敲きに処せられたが、

奉行所の門前の敲き場で、数え役が一つといい、

つぎに五十、三度目は百であった。

つまり村の犠牲者だったので、三つ軽く敲かれただけであった。

百敲きにもいろいろあったわけである。

 いままで前後を通じて、無宿者、博突打などの様子を示したが、

旧佐波郡境町周辺では、死罪などの極刑になったものはなかった。

召捕り、放免ばかりで、一部の入牢である。この地方の無宿者などの、

江戸送りの記録はあまりない。

小此木の無宿者が捕まり、佐渡送りの例があるが、この男は勤め方精出

したとされ、十年目に金十両を与えられて放免され、村に帰って百姓に

なっている。お上にはお情けというのがあった。

だが必ず、国定忠治一党は、召捕られるとたちまち死罪であった。

 

                       つづく

 


真説 国定忠治 其の壱拾弐

2013年08月28日 | 近世の歴史の裏側

 

○江戸後期の刑罰について

 

○死 罪

 殺人や十両以上の金を盗んだものは打首であるが、多くは犯行のあった所

で処刑するので、よく村の方に首切場とか首切地蔵などいうものがあり、

昔処刑のあった名残りをとどめている。境、八木沼などにある。首切場は

土を盛って少しの土座を築き、土足の前に穴を振る。土壇にはムシフを敷いて

罪人をここへ坐らせるが、罪人は後手に縛り、半紙二つ折にして眼隠しとし

藁で後に結ぶ。後手に縛った罪人を土壇場(の語源は此処からで昭和になるまで

一般庶民は使わなかった引用である)に坐らせると二人が後から押え、

首切役人が斬り落すと、後のが足を引っ張って流れ出る血を穴へ落し穴。

もし罪人が首をつぼめていると良く斬れないので、

このときはが足を引いて寝かせ、そこを斬ったのである。

○下手人

 死罪に同じく斬首するが、この罪人は試し斬をしなかった。

下手人は盗みをしない殺人刑である。

○火 罪

 放火犯人だけの刑で、太い柱に縛り付け、縛った繩の上に泥土を塗った。

その上にかまど造りといって罪人が見えなくなるまで薪と茅を積んで囲み、

火を付けるのである。黒焼になった死骸は三日二夜そのままにして吊した。

○傑(はりつけ)

傑はよく話に聞いて知っていると思うが、柱の上に大の字にし縛りつけ、

二人のが左右のわきの下から肩先へ槍で突きあげる。国定忠治は

十四本突かれて死んだというが、普通は槍の血を藁で拭いながら

二十本位突いたそうである。傑もそのままにして三日二夜吊した。

○獄 門

 これは死罪の附加刑で、斬首した首を人通りのある場所に吊して。

境では慶応四年に吊し首の記録があるが、獄門台の足の高さは1.40メートル、

それに横に板を渡すから丁度大人の他の位置になる。釘を二本立てて首をこれに

据え、三日二夜吊すのである。三ツ本文蔵は江戸小塚原でこの刑に処せられた。

江戸から西で罪を犯した庶民は鈴ケ森に、江戸の東の者は小塚原で処刑された。

○遠 島

 関東のものは伊豆七島へ流された。

○追 放

 追放には軽中重と三種の仕方があり、追放される範囲が定められていた。

これは幕府の刑であるが、境町の私領村々にはこの記録がない。追放になると、

故郷や御構場所には決して入ることが出来ないが、ただ墓参だと故郷に来る

ことが出来たが、家の中にいても旅支度で笠を冠っていなければ墓参に

ならなかった。大学者寺門静軒は江戸繁昌記を著した為、江戸追放となり、

長い間伊与久、境、辺りにいて、妻沼村で没したが、とうとう、死ぬまで

江戸へ帰ることが出来なかった。


○敲(たたき)

ただ敲というのは五十打つことで、百打つのを重敲きというが、

奉行所の門前で、衆人の前で行いムシロの上に罪人の

着ている衣類を脱がせて敷き、裸の罪人を腹ばいさせ、手足に四人のが

乗って押えつける。これで、肩背尻を打ち、背中を避ける

箒尻は弓を半分にしたようなかたちで長さがが六〇センチほどで、

割竹二本を麻苧で包み、その上をコョリで巻いたもので、

巡りが、約九センチほどあった。


女や十五歳未満の子供には敲をしないが、そのかわり五十日か百日の

過怠牢舎というのがあった。

○押 込

  十日以上百日以下で、自分の家に押込むわけである。

○呵責(しかり)       

 ただ叱りと急度叱りの二種あった。いまの戒告説論のようなもので、

 叱りを受けると、確かに叱られましたという証文を差し出した。

 ○手鎖(てくさり)

 手鎖は両手に鎖をかけることで、三十日、五十日、百日の三通りある。

自分の家に押込みとなり。名主が隔日(四、五)に見巡った。

○閉 戸

 戸を閉して営業を停止する。二十日、三十日、百日の三種。

○過 料

 罰金で銭三貫以上五貫文以下、銭十貫文または財産相応の場合もある。

過料銭が納めら ないときは手鎖りになった。そのほか女に科した奴とか、

いろいろな属刑があった。奴は女を髪を剃って丸功主にし、

入墨は盗人に料したもので手とか額に入墨した。欠所は財産を没収するもの、

あるいは手下というのがあり、大した罪のない無宿などは佐渡へ送られて、

佐渡金山の水替人足に流された、何百メートルの鉱底にたまる水を手繰りで

汲みあげたもので、一日中、陽の目も見ずに水桶を下から上へ担ぎ上げる

過酷な労働人足である。

 

次回は、実際の刑罰の執行方法について、面白いので説明をしたい。

 

                        つづく

 


真説 国定忠治 其の壱拾壱

2013年08月28日 | 近世の歴史の裏側

 

○伊三郎の闇討ち、弐

 

大変な傷害事件であるから、境村名主が領主方に、この一件を報告した

書類が伝えられているが、これは忠治の行状を伝える数少ない

実在資料なので、つぎにあげておきたい。

 

    乍恐以始末書奉中上候

御領分上州新田郡境村名主源次郎奉中上候、当月二日夜、

当村地内ニ手負人相倒罷在、其段御訴奉中上候始末御尋二御座候、

此段当村宇高岡前と唱候山地、前々より酒井市郎右衛門様御知行所、

同郡高岡村与頭藤七所持ノ地所ニ御座候処、当三日ノ朝山主藤七儀地所

見廻り候処、立木生茂り候内ニ、手負人相倒居候旨、同人より

当村役人方注為知参り、驚人不取其堀江罷越、一同立会得と面躰見届ケ、

疵処相改候処、肩先より背注掛ケ壱尺七八寸程、腰の廻り二弐三寸程ノ

疵五ケ所程有之、何レ茂深手ニ而、子細相尋候得共更二請答無之、

九死一生ノ躰二有之、身元取調候処、前言藤七兼面見知り候ものに面、

山本大膳様御代宿所向州佐位郡島村伊三郎ノ由中ニ付、早速先方注為

知遣し候処、同人親類松之助、次郎八と寸輩 両人罷越候間、手負人

見分為致御検使可奉願上と中談候処、左候而ハ却而迷惑いたし候間、

巳後何様ノ儀出来いたし候共、当村江脚難儀掛ケ中間敷候間、

速而引渡呉候様中ニ付、無是非右次第一札取置

引渡遣し候儀ニ御座候処、其後風聞承り候得者、無程相果候建ニ有之、

然処当十三日ニ至り、関東御取締御出役様方より御使ノ由申、

木崎宿問屋軍蔵外弐人罷越中聞候者、右伊三郎殺害致候もの共者、

新田郡国定村無宿忠次郎、同郡三ツ木村無宿文蔵、外ニ同類八人程有之、

右ノもの共儀万一当村江立廻り候義も有之候ハヽ搦捕、御出没先江

御訴可申上、御出役様より当村江可中通皆被仰渡ノ趣ヲ以軍蔵外弐人

より達し有之候ニ付、則別紙写ノ通使中迄請書差出し、昼夜無油断心附

罷在候儀ニ御座候、昼夜無油断心附罷在候儀二御座候前書中上候通、

                少茂相違無御座候、以上、

    天保五午年七月十九日

                 御 領 分

                   新田郡境村

                        名主  源  次  郎

 

この書付によれば、伊三郎の重傷しているのを、翌日朝に地主が見付けたと

しているが、それは死体を引き渡してしまったからである。

忠治一党十人にめった切りにされて、九死一生はないわけで、お上も斬殺され

たのは間違いないと見たようで、この後天保九年、三ツ本文蔵が召捕られた時、

境村と高岡村名主に、再び伊三郎殺害の様子書を糾しているが、その時もこの

同文を差出している。殺人事件か、傷害事件であったかの分かれ目である。

役人の検死をうけないと、死体を動かすことは出来ない。そのため

伊三郎の死体を引き渡したとき、まだ生きているとして境村名主は、

後日の証拠のために伊三郎方から引取り証文を受けとっている。

 

    差出中引請一札之事

一、当二日夜伊三郎義、其御地内ニ而、相手何方之ものニ御座候哉、

手負に相成候処、疵口相改候得者、療治等差加へ申候ハヽ快気茂可有之

と存候ニ付、御村役人衆江此段御願中、同人身分之儀者親類方へ引請、

成丈療治仕度候、尤御村方ニ而者御検使願上度旨被仰聞候得共、

再応御願中上引請ニ相成候上者、巳来何様之御尋御座候共、親類引清之

もの共一同罷出中訳ケ仕、其御村方江御苦難相掛ケ中間敷候、

為後日親類一同引請一札差出申処而如件、

天保五午年七月三日             

               佐位郡島村

                    伊三郎親類  松 之 助 

                      同     次 郎 八 

 境  村

      御役人衆中

 

 

 この伊三郎殺害一件については、すぐさま関八州様が木崎宿に来て、

忠治一党の急手配状が出されており、つぎのような請書が伝えられる。

 

    差上申請書之事

 

  一、当七月二日夜村方地内ニ而、島村無宿伊三郎を及殺害迯去候、

                 上州新田郡国定村

                   無 宿   忠 次 郎

                 同州同郡三ツ木村

                   無 宿   文   蔵

                   外同類   八人程之内

  

 

右之もの当村方並最寄村方ニ立廻り候ハヽ召捕、御廻村先江可訴出旨

被仰渡之趣、御達し被下承知仕候、依而請書差上申候処相違無御座候、以上

   天保五午年七月

              林肥後守領分

                上州新田郡境村

                   百姓代   惣   助

                   与 頭   伴   吉

                   名 主   源 次 郎

 

     関東向御取締御出役

       吉 岡 左五郎 様

       河 野 啓 助 様

       太 田 平 助 様

       小 池 三 助 様

 

この手配書はわざわざ木崎宿の問屋軍蔵、名主与市右衛門、与頭孝兵衛の

三人が境村に持って来ている。

関八州様が忠治の行状に、常に注意していたことが知られ、

此の度は大手配に御座候とある。今日の特別指名手配である。

普通やくざ者同士の争いには、お上は殆ど手を出さない。

大前田や清水次郎長など、随分やくざ同士で喧嘩をしているが、

お上は決して手を出していないが、無宿者忠治一党にだけは、

断固たる処置を取っている事が判る。

 

                         つづく


真説 国定忠治 其の壱拾

2013年08月27日 | 近世の歴史の裏側

 


関東取締出役の新設


話は前後するが、盗難があったとき盗賊の逮捕に向うのは近所の

百姓で、それを指揮するのは名主である。五人組帖前言にもある

通り、盗難火災の場合は村中が出合わなくてはならなかった。

当時は広範な自治制度で、名主が警察署長の位置にあった。

名主の指揮によって小前百姓が総出で犯人を追いかけても、

犯人が隣村に逃げ込かともうこちらの名主にはどうにも手が出せない。

例えば、境から小路一つ隔てた東町に逃げこむと、当時東町は

新田郡境村で、郡が違う上に、境村は千葉貝淵林肥後守の

領分であるから、伊勢綺領の境町の方では手示出ないわけである。

 こういうことは同じ世良田村でもこの例がある。世良田は

大部分天領代官支配御料所であるが、長楽寺門前が長楽寺領で

寺社奉行の支配御神領と呼んだ地であった。

この一角は今も舛形と呼んで区別しているが、文化八年に

御料所の地で無宿ものが博奕をやろうとしたが、御法度ゆえに

源之丞という百姓が差し止めてしまった。これを遺恨に思った

無宿は翌日原之丞を斬殺すといって乗り込んだが、近所の者に

騒がれ、村中出合って無宿ものを追いかけたが、逃げ場を失った

無宿は御神領の舛形に逃げ込んだ。 さあ困ったのは村中の捕方

たちで、殺人未遂犯人を眼の前にして踏み込むことが出来ない。

止むなく御料所の名主が御神領の名主へ掛け合い、双方の名主が

立合って無宿が逃げ込んだ藤吉の家を探したがすでに逃亡した跡、

このように支配違いだと、隣家でも踏み込んで犯人を捕らえることが

出来なかったし、みすみす犯人逮捕の機を逸してしまうわけである。

とくに文化、文政ごろから無宿ものが横行して博奕が一層盛んになり、

村方の風儀が宜しくない。また治安維持の上からも

不合理であるというので、文化二年、石川左近将監が勘定奉行の時に、

関東の代官四人に命じて手付手代二人ずつを出させ新設したのが、

これを関東取締出役であるが陣容は、二人一組にして関八州を

巡行させた。つまり四組の取締出没が一年中廻村し、天領、私領、

寺社領の区別なく踏み込んで宜しいということで無宿どもの召捕を

行った、俗にこれを八州様と呼んだ。

先に記載した通り、八州様の身分上は足軽格という比較的下層な

身分であるにも関わらずかなりな権勢を誇っていたようで、

本来は上級武士にしか許されない駕籠を乗りを許されていた。

 

八州様の手付というのは侍であるが、手代は百姓町人の気の利いたのを

代官が召抱えたもので、手付と同じ格であり、大小を差す事が出来た。。

島村伊三郎殺害一件に出てくる大田平助は代官山本大信の手付で、

吉田左五郎は代官山田茂左衛門の手代である。

手付手代の二人一組の出役には小者二人が付くが、巡村しているうちに

目明しとか岡っ引というのがついてくる。お上の威光を笠に着た仕末の

悪いい奴だが、役人にすれば情報が得られて調法であるから連れて歩く。

それに題材するときには先々へ道案内を出せという通知があって、

目はしの利く村役人などが一緒に歩いた。それにいいかげんな輩が

勝手にくっついて歩いたもので、出没の一行はたちまち十散人の同勢に

なったものである。 板割の浅に殺された三室の勘助も博徒の親分で

あったが、兇状をもたなかったので十手をもらった岡っ引で、八州様の

あとをくっついて歩いた手合いである。岡っ引とか目明しとも呼んだが、

十手をあずかった、岡っ引ともなれば大変威張れたもので、大勢の子分が

いるから、隅から隅まで情報が得られるので、八州様には調法だった

訳だ。小説にある銭形平沢は岡っ引、昔むっつり右門といったのは八丁堀

の同心で、足軽級の侍である。同心の上に与力という捕方役人がいたが、

与力も同心も実際の捕物に自分で手を出すことは絶対にない。

犯人を向うに廻してヤアヤアやっているのは、三室の勘助など岡っ引以下

の番太や百姓などである。 八州様の前に立って歩いた道案内は、

はじめ村役人などの実直なものが出たが、幕末にはいい加減な手合いが

自分から道案内を買って出るようになった。この連中はお上の威光を

ふり題すので、だんだん弊害をともなうようになったので、文久三年に、

八州様から厳重な達しがあった。つまり、各村々で風俗の宜しくないもの

を出すが、これからは名目だけの道家内で、手代りの者を出しては、

いけないということであった。

関東取締出役は、当初四組であったが後には八組になり、役所は江戸に、

あった。 かねて指名手配中の国定忠治は名題の悪党で境町附近にも

毎日のように出没したが、八州様が召捕りに向ってもなかなか捕らな

かった。それは役人が動くと直ちに情報が向うに入ってしまうからで、

当時はこれを「風」といった。

いつも忠治は風をくらって逃げてしまうわけである。

そして忠治が捕ったのは風をくらっても逃げることが出来ない中気に

なって、半身不随なり動けなくなってからである。

八州様が、天保水滸伝で有名な勢力佐肪(本名)別名は、勢力富五郎

【せいりき・とみごろう】をつぶすには十六年かかったといわれ、其の頃の

暴力団もなかなか手に負えなかった。

天保八年は三ツ木の文蔵が召捕られた年である。文蔵が捕まったのは

世良田であるが、このとき八州さまは木崎宿にいて差図し、

とうとう世良田に来なかった。

文蔵召捕は世良田の名主に命令され、名主は村中の番太や百姓に

八坂の鐘を、打ったら出合うようにいい付けた。さて文蔵が現われ、

この謀りごとに感づいて逃げ出すとあわてて半鐘を鳴らし、百姓達は

寄ってたかってハシゴ捕りに押え、木崎の八州さまへ差し出した。

テレビや映画にあるように、侍分の八州様が自分で手を出す様な事は、

殆どなかったのである。なお伊勢崎領分では文政年間から、領内の百姓を

選んで御領分取締役を設け、無宿の取締りを行った。

                       つづく

 


真説 国定忠治 其の九

2013年08月26日 | 近世の歴史の裏側

 

○無宿 三ツ木文蔵

 

三ツ木文蔵はやくざ者であったが、国定忠治の有力な子分だったので、

広くその名が知られている。いま文蔵の事積をあげるならば、

当然悪事の数々であるが、名を知られた郷土人として此処に

あえて留めておきたいと思う。

 従来、三ツ木の文蔵について資料的なものはほとんど残されていない。

文蔵の死後暫くの間は、手に負えないやくざ者として放置されたである。

明治初年ごろまで文蔵を顧みる人などなかったのである。

ところが、明治十三年に国定忠治義名の高島という本が出て、

忠治の名が全国的に売り出されると、文蔵の名もようやく

知られる様になったのであるが、今回、私の拙い力では忠治本人の

関係資料は全く得られないし、文蔵の生年、死歿の年月、享年を

定めることが出来ない。その為此処ではその年月の推定をし、

その仮定によって実績を叙したい。文蔵は文化三年に生れ、

天保九年六月二十九日死、享年三十二才だったと思われる。

忠治より四才長じたわけである。

 三ツ木文蔵は上州新田郡三ツ木村に生れた。本姓大見山文蔵である。

水呑百姓の子であるが、早く父に死なれたらしく、文蔵の成年時には母と

妹の三人暮しであった。文政末年頃からやくざの群れに入ったであろう。

その頃、前にも記載したがこの地方は養蚕や織物がさかんで、

農村経済は非常に豊であった。女性はよく慟いたが、男共はよく遊んで

しまうのである。益して三ツ木村は例幣使街道が通じて、上下の往来が

盛んだったから、つい遊びに出てしまう機会はある。

丁度其の頃、国定忠治は近くの百々(どうどう)村の親分紋次の子分になった。

いわば文蔵の弟分になったわけである。 文政十三年ごろ、百々紋次が死ぬ時、

紋次は忠治に駒札を与えて百々一家の親分をゆずった。なぜ兄貴分の文蔵では、

なく、忠治に跡目をゆずったか。それは文蔵が無学で文盲だったからだと思う。

この時から年令は上であったが文蔵は忠治の子分ということになり、数多い

忠治子分中で、一番早い有力な子分とされた。

しかし忠治、文蔵一党は札付きのやくざ集団で、日常不法暴行を働く事が多く、

 

以下、其の五と重複

「一般市民は大いに迷惑することが多かったらしい。

 そして数年後、天保五年春、境町の下町桐屋金次郎と云う呑屋で文蔵は

無銭飲食を働き、その上家内で大いに乱暴した。主人の金次郎は香具師

不流一家の身内であったが、何分相手が名代の乱暴者で、長脇差を帯びている

為手が出せ無い。そこへ丁度島村伊三郎が通りかかり、この乱暴を見ると、

文蔵を捕えて大道へ引き出した。そこで十分に打擲したのである。

     このため文蔵は大いに伊三郎を恨み、忠治に伝えたのである」

 これによって伊三郎は殺害されたのである。


 伊三郎に打たれた文蔵は百々村に逃げ帰る、と忠治に此の事を告げた。

やくざ者の集団、忠治らにとって島村一家の存在は目の上のコブである。

そして衆人環視の大道で恥をかかされた文蔵の遺恨を果すべく、

ひそかに伊三郎殺害をはかったのである。天保五年七月二日、

忠治、文蔵ら十人は伊三郎の不意を襲って闇討ちしたのである。

そのため文蔵は八州役人の特別指命手配を受けた。

村の伝えによれば、これからの文蔵や忠治は決して昼間出歩く事がなく、

三ツ木の母や妹に会いに来るのも夜分で、表に呼び出して話をし、

決して家に入ることがなかった。桐生百話によれば、天保七年暮に

桐生の豪商佐羽清右衛門を夜更けにたたき起した文蔵は、

主人から五十両を強奪してその借用証文が残されているというが、

それは偽物ではないかと思う。文蔵は文字が書けなかったはずである。

 暫くして伊三郎殺しの詮儀もやヽしずまった天保九年三月二十六日、

世良田村八坂神社大門の料亭朝日屋の二階に賭場が聞かれた。

もと島村一家の縄張りは文蔵の手中にあったので、テラ銭をあげるため

文蔵はこの賭場に出かけた。賭場は刃物禁制であるから階下で

脇差を渡し、丸腰で二階に上ったが、朝日屋のお内儀が差し出した

茶を見てびっくりした。お内儀はおそろしさのためふるえ、盆にのせた

茶碗がガタガタ震えていたことから、

文蔵は突瑳に茶碗をお内儀に投げつけると「騙したなっ」と怒鳴り、

いきなり階下へ下りた。これを見た村人は八坂神社の半鐘を打ちならし、

半鐘を合図に村人総出で文蔵を追いかけた。文蔵は東に逃げ出したが、

大勢の村人のため路上で梯子捕りにあってしまった。

文蔵は手裏剣の名人と云われ、何度も捕方をかわしたのであるが、

このときは手裏剣も脇差もなかったので逃れるすべが無かった。

召捕られた文蔵は木崎宿に待ちうけた八州役人のもとに出され、

 江戸に送られたのである。そしてお仕置になったのは、、

その六月二十九日だったと思われるし。獄門であった。

いま三ツ木、真福寺墓地に妹のおやすが建てた墓碑がある。

戒名を三明通達居士、そして「俗名大見山文蔵、享年三十二才、

天保十一年六月二十九日、施主やす」と刻されている。

この年号は没年で無く、死後三年忌で建碑した時の年月と考えられる。

文蔵の死んだのは従来天保八年とされているが、

これは羽合簡堂の赤城録に拠ったのである。

ところが地元人の日記である大谷光陰録に天保九年三月に

召捕られた記事があるので、死没をこの年とも考えられる。

妹のおやすはやはり忠治の子分だった上田中の清蔵の女房になったが、

文蔵お仕置の時、ついに江戸に行かず、白の帷子だけをおくっている。

おやすは文蔵の位牌をまもっていたが、

明治になってから三ツ木に、持ってきて今も残されているが、

 上野人物志によれば、文蔵は召捕られた時、伊三郎を殺害したのは

自分だと白状して忠治を庇ったとある。たしかに第一刀を下したのは

文蔵だったと思うが、この時の届け書に伊三郎は虫の息で発見された

ことになっている。殺人と殺人未遂では罪の軽重があったので、

文蔵召捕りの後又この事につき八州役人からお糾しがあった。

しかし文蔵が無頼のやくざ者で、日常一般市民に暴行を働いていたので

情状は認められなかったのである。


但し私自身は、殺人で獄門になった、人物を恰もヒーローの様に扱い

観光などに利用され事自体が誤りと感じてならない。

現代の殺人死刑囚が、一〇〇年後、称賛されるのだろうか?


 

                           つづく


真説 国定忠治 其の八

2013年08月25日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治の風貌と性格

 

 伝えられる 忠治についての「利喜松聴書」によると体重は、

二十三貫(約86㎏)もあり、身長は五尺五分(152㎝)位の

短身、いねばズンダリ型であった。但(ひげ)が濃く、胸毛なども

垂れるように伸びており、ある利喜松が抱かれて寝て、

胸毛を引っ張ったところ、「痛え、痛え」といったという。

眉は太く濃く、眼玉はギョロ。として大きく、色の白い

無口な男であったという。

 羽倉外記の「赤城録」には、「忠肥晢、言貌把稿、平生不殺虫蟻、

然忍於殺人、睚眦之怨、不報不已」と述べている。

忠治は肥ってして色白で、言葉はおだやかで、平生は虫や蟻も

殺さなかったが、人を殺すことには残忍性をもっており、

一たん、これとにらんだ怨みは報復しなければやまない執念を

もっていたという意味である。足利の有名な画家田崎草雲は、

唯一忠治の生前を実際に見ており、その時の印象を次ぎのように

書いている(原漢文)。

 実に神 出鬼没の侠夫なり。余甞て上毛に遊び、途に遇う。

方面修眉、気勢凛然、人をして寒ならずして慓せしむ、真に

一箇之侠漢なり、今此の伝(註、羽倉外記の赤城録)を読む、其の声と

容(かたち)さながら目前にあり、因ってその像を繡し以て巻端に

標すと云う。

     辛亥(慶応四年)仲冬      草雲田芸誌

 

とある。神出鬼没の行動の素早い男であって、顔は四角い顔を

しており、眉は長く、その気勢はピクリとしており、

人をして寒くないのに震え上がらせる。誠に一箇の侠漢である。

 

珍らしい忠治の人相書には、 上州の南毛地区、埼玉県よりの

多野郡新町や藤岡、吉井、富岡地方にも、伊勢崎の町にとどまって

指揮していた関東取締出没の富田錠之助と中山誠一郎から、

下仁田の名主に宛てて、国定忠治らの人相書が廻わされたらしく、

「群馬文化」昭和三十六年元号本多夏彦氏稿「反故の中の忠治」)に、

 国定村無宿忠次郎其外之もの共捕方手配レたし侯ニ付、品ニ寄其村方

罷越候儀も可有之渓間則人相書差遣候。右者御下知物ニ付、怪敷散見受候

ハバ、差押早々廻村先伊勢崎町江可披申越候。

 

 国定村無宿 忠次郎 寅三十才余

  一、中丈(註中位の丈け)、殊之外ふとり、顔丸ク鼻筋通り

色白き方、髪大たぶさ、眉毛こく、其外常躰角力取体

    二相見候。

 赤堀村無宿  松吉 寅二十四五才

  一、此もの人相不相知候。    

 右之外四五人も同類可有之渓間、怪敷見受候ものは、右ニ不拘差押、

早々可披申越候。比書付迫付可彼相返候。以上

  寅十一月十一目

                関東取締出役

                    富田錠之前

                    中山誠一郎

 

という珍しいもので、忠治の人相が田崎草雲筆の像とよく似ていることが

わかり、常躰が角力取りのようであるという表現も適確である。

 

彼の肖像画は、足利藩の画家である田崎草雲の手になるもの。

茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。

忠治は、嘉永2年7月21日夜に妾、お町宅で脳溢血を発症している

嘉永3824日(1850929日)には田部井村名主家において

関東取締出役によって捕縛されているので、この像画は、

嘉永四年(1857)冬と記載有、田崎草雲が実際に忠治を見たのは、

没年より算すると、3年前、前後と推測されるので、

               したがって、30代後半と思われる。

 なを、当時は原画を写した物多くあり、私自身その数の多さに驚く

下の画像二点は、写した物であるが、クリックしてご覧頂くと

目の表情と左足の指が違うのがお判りになると思います。

 

田崎草雲

 (18151898

 幕末から明治の南画家。名は芸(うん)。初め字(あざな)を草雲としたが、

32歳以後はこれを号とする。足利(あしかが)藩江戸藩邸に下級武士の

長男として生まれる。父から南画の手ほどきを受け、8歳のころ

谷文晁(たにぶんちょう)門下で姻戚(いんせき)にあたる金井烏洲

(かないうしゅう)につき、のち加藤梅翁のもとで和歌や四条派の画風を習得。

春木南溟(なんめい)にも学んだ。39歳のとき足利藩に絵師として仕えたが、

幕末には藩校の設立、また勤皇家として民兵誠心隊を組織するなど国事に奔走、

維新後は足利に住んで画業に専念し、第1回内国勧業博覧会ほかの展覧会に出品

して賞牌(しょうはい)を受け、1890年(明治23)には第1回帝室技芸員と

なっている。代表作に『秋山晩暉(しゅうざんばんき)図』などがある。

司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデルでもある。

幼少より絵と同様に武術も好み、6尺(約180cm)近い草雲は剣術や

柔術に巧みであったという。書画会においては、

己の絵を貶す相手には拳骨で殴りつけて「あばれ梅渓」のあだ名を

貰ったとされる。 郡司信夫の「ボクシング100年」や加来耕三

「日本格闘技おもしろ史話」の記述によれば1854年、

横浜に遊んだときにボクシングを使う米軍水兵と喧嘩になり体落としで相手を

倒しているが、記録に残っている限りで、これが近代日本における。

異種格闘技戦の第1号とされる。実に変化に富、充実した人生を全うしている。

現代の画家は、スポーツや肉体労働をすると、指先が固くなり

微妙な表現が出来なくなると言われているが、

田崎草雲に限り例外なのかも知れない。


 なを、下記の足利市のホームページも参考になります。

http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/soun/soun-jinbutsu.html

                        つづく


真説 国定忠治 其の七

2013年08月24日 | 近世の歴史の裏側

 

忠治をめぐる女たち


 ここで、忠治の本妻と妾について記しておく必要がある。

本妻はお鶴といい、佐波郡今井村(現伊勢崎市赤堀今井町)の

旧家の桐生という姓の家に生まれた。桐生家と長岡家は、

昔から血縁関係であったので、その縁で結ばれと考えられる。

所謂おとなし型の平凡な女であったらしく、忠治が処刑された

あとは暫く家にもよりつかなかったが、 そのために取調べの時も

お鶴だけは全然召喚されず、処分もされていなかった。

栃木県鳥山の山伏である右京と名乗る者と忠治の死後夫婦となり、

磐城の平で明治九年十一月二十一目に死んだということになっている。

後に、忠治の墓を立てる時には、一緒に名を刻んだが、

利喜松翁の聴き書きには。

 お鶴と云う人は右京の妻となっては居たが頗る実直の人で、

晩年は何でも矢張り修験(山伏)の様な事をして居たらしい。

明治の初年六十才許りの時分、忠治伯父の墓参にわざわざ

やって来ましたが、頭髪か奇麗に剃り毀(こぼ)ち、

 お比丘の姿でした。或ひは剃った髪の毛を伯父の墓地へ

              来て埋めたのかも知れません。

明治元年に死んだと言うことを、聞きましたが、

其後三年ばかりあとに父(友藏、忠治の弟)と共に磐城の平まで

墓参りに行って来ましたと、こんなふうに語っている。

 妾は二人あって、その中の一人お町というのは大分美人で

あったらしい。田部井村(現在の伊勢崎市田部井町)の

尾内一太夫という者の娘であったが、六才の時に母に死別し、

家の暮らしが苦しくなったので同族尾内小弥大の養女となり、

十六才の時に伊与久村(現伊勢崎市境伊与久町)の深町某のもとに

嫁いだが、二年くらいで出て来たので家にいた。

近郷切っての美人だったので忠治もこれを見染めて妾にしたと

いうことである。忠治は、お町には俗の言葉で惚れていたと

いわれている。

いま一人の妾は、お徳という女であった。お徳は前橋市の朝倉の旧家に

生まれたが、家運が傾いたので家を出てしまい、玉村町の女郎屋に

身売りをしていた。そこで五目牛村(現伊勢崎市五目牛町)の

農民千代松に請け出されて後妻となったが、五、六年で夫が死亡して

 遊んでいたので忠治が進んで妾にしたものという。

お町やお鶴とは比較にならない姐御(あねご)肌であった。

気性が短く荒く、とうてい常の女ではなかったようである。

同じ穴のむじなというか、妾であったが、気質のちがい

そのままに互いの仲はわるかったようである。

お町は、忠治の処刑のあと、新田町田中の田中秀之進という者の

妾となっていたが田中が尊王運動を唱えて捕えられてから

 東小保方村の高橋という者と夫婦となったという。

利喜松の話によると、お町とお徳は、互いに親分のために操?をてて、

二度と他人の妻になるまいと約束したが、お町が亭主持ちになったので、

お徳が怒り、お町の家へ怒鳴りこんで散々悪口のすえ、

頭の髪を切りとり忠治の仏前に供えたということである。

お徳の上州女らしい鉄火肌の姐御的存在がよくわかって面白い。

このお徳の五目牛村の家には、地下道の抜げ穴があり

忠治が忍んでいって、あぶなくなるとこの抜け道から

逃げたということである。忠治が、落ちぶれて五目牛の

お徳の家へ入るのを、介右衛門という目明かしがつきとめ、

踏みこんだところすでに忠治は姿がなかった。

お徳は、この介右衛門をつかまえて、

「てめえはむかしは泥棒だんべー、泥棒のくせに親分を捕えるとは

おかしくって話にもなんねー。馬鹿野郎―」

と罵った。それから、忠治の子分に狙われていると思いこみ、

私と同じで、気弱い介右衛門は自殺をしたという。

その時、忠治が抜げたのがこのお徳の家の地下道であった。

 

磐城の平

 

磐城平(いわきたいら)現在の福島県いわき市の中北部で、

夏井川流域に位置する

 

お比丘(おびく)

 

この場合女性の出家者である比丘尼(びくに)、尼僧である。

 

                         つづく


真説 国定忠治 無宿者の背景之弐

2013年08月23日 | 近世の歴史の裏側

境町の六斎市

 

境町の六斎市が立てられたのは正保二年で、この二・三年前に町中に

はじめて例幣使街道が通じて、だんだん町並をなすようになったからである。

開くには村作りに当った旧族の四人が伊勢崎藩の領主に願い出たもので、

市日は伊勢崎市の翌日にあたる二・七といわれて毎月六度の開市である。

町中の町内を三つに仕切り、上・中・下市とし、場所を替えて

順番に開市された。

開市のときはまだ境村と呼ばれたが、

間もなく町並がととのって境町と名が変った。

開市の二年後から例幣使の御通行がはじまったのである。

 後年になり近くに新規に六齋市が立てられるようになると、

当然従来の市場が不利益になると

ころから、既存の市場から大反対が起こっているが、

境町開市のとき早くから伊勢崎市があったが、

伊勢崎からは何の苦情もなかった。境町、伊勢崎は参里を隔てた。

境町六齋市が立てられた。

                      

 

 

 

真説 国定忠治  補足

 

知人より内容が解らないとの、助言有

 ここで、若干補足説明をしたい。

 

糸引き唄には

 

五十三八 一六よりも

    わたしや二七が まだつらい

 

 当時、境町地方にうたわれた糸引き唄で、五十は深谷市、

三八は太田市、一六は伊勢崎市であったが、

之は、五十は、五と、壱拾のつく日 五、十、十五、二十、

二十五を指す意味でつまり五、十日ある、

したがって、境町の六斎市場は、二七で、二日、七日、十二日、

十七日、 二十二日、二十七日で、計六日間 開かれた市

 

境町の六斎市場が、糸値は一ばん高く売れたのである。

それだけ糸の吟味をしたわけで、境市に出すときには、

よほど丁寧に糸引きし、良質の生糸を引いたのである。

境市に出された絹糸は「境下げ」と呼ばれ、それは良質を

意味したわけである。もちろん良質の糸引きには、

それだけの注意が必要だったので、こんな糸引き唄が

いまに伝えられている。

 

「太織縞(ふとりじま)」と呼ばれたもので、多くは江戸に

輸出された。

太織縞は、其の三で、記載の通り太織縞は縦に絹糸を、

横糸に屑糸を用いたもので、普通はただ「ふとり」と呼んでいた。

之が後の、伊勢崎銘仙につながる事になり、大正、昭和初期に

佐波伊勢崎地区に、莫大な富を齎事になった訳です。


                 
                          つづく