平塚の赤城神社拝殿
弥勒寺音次郎・音八父子は境町下淵名の人である。
したがって、境町を中心に各地に多くの名作を残したが、地元の人に
はほとんどその名が知られず、わずかに古老によって社寺の彫刻家として
音次郎・音八父子の存在したことが語り伝えられている程度である、
対外的に、特に音八は幕末から明治にかげての時代、日本一の名彫刻家として
全国に名を響かせ、宮中に召されて皇居や賢所の
造営にもあたったことがあったが、このような偉大な業績を有する人物が、
町民に知られてないことは、かえすがえすも残念なことである.
父音次郎は寛政九年(1797)に長沼付 (旧豊受付の一字)の渡辺源蔵の子に生れ、
下淵名の棟梁小林新七の養子となって、宮大工としての一歩をふみ出すことになるが、
おそらく弟子入りした以後、比類ない抜群の技倆が親万の目にとまって、
娘の婿となったと思われるが、名を音次郎、字を照房、弥勒寺河内守藤原照房
はじめ、小林姓を名のったが、天保以降母方の弥勒寺の姓を名のるようになった。
音次郎の最初の仕事は下刻名の妙真寺の本堂須弥壇であるが、
これは銘文によって文政七年(1824)に造営したことをうがい知ることが
できるが、続いて同十二年には三ツ本の稲荷神社を造営している。
以後、天保年問に下渕名村の大国神社拝殿、保泉村の勝山神社拝殿を
手がけ、天保十四年には音八を伴って上京、京都の白河白王殿に、
謁棟梁の允可と河内守の名を賜った。
音次郎は明治初年伊勢崎神社の修復を最後に没し、
父のあとを継いだ音八は、
笠間稲荷の造営に従事したが、特に本殿三壁七面の蘭亭曲水の
彫刻は抜群で県重要文化財になっている、 家紋は新田氏の一族渋沢氏が
設立した神社で新田氏の家紋を社紋としている
平塚の赤城神社全景![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/9a/9e24d419fc8b10fefc5a06edc959543d.jpg)
特に本殿の彫刻は稀に見る傑作である。 今の本殿の建立は嘉永六年(1854)であるが、
本殿左側勾欄親柱の擬宝珠に永禄十二巳年再建立、寛文四辰
年中興再建立嘉永六丑年九月吉日と、本殿の歴史が刻まれて嘉禾六年の財建は、
名工の名の高い下渕名村の彫工弥勒寺音次郎、音八父子で、
建物は一間社流造り銅葺とよばれているものである、 この本殿を価値づけるものは、
周囲に施こされた彫刻の妙で、音次郎、音八父子の本領が遺憾なく発揮されている
特に本殿正面前虹梁に八方睨みの竜があるが、音八は好んで竜刻をしており、
八方睨みとは前後左右どこから仰いでも見ている人を、
睨みつけているように刻まれている。
周囲の三壁に天の岩戸、高砂、三韓征伐の彫列があるが、これは本殿の圧巻であって、
平塚の赤城神社内部の彫刻
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ありふれた題材であるが力量に富んだ見事さである。
その下の腰組三壁を六つに汁切って唐見彫が施されているが、
唐兒内見が琴媒童遊に、たわむれるさまがよくあらわされている。
墓は、音次郎が「棟梁院立大柱宮居士」。音八が「雪松院梅翁彫刻声居士」の戒名で、
故郷の下渕名弥勒寺家墓地に「音次郎・音八父子の墓」として建立され、
父子の偉業を今日に伝えている。
神事に関して大変権威のある京都の吉田家から「河内守藤原照房」
という名誉ある名を授かっている。
建築様式は荘重な八ツ棟造りで、周囲に極彩色の丸彫彫刻を配した
日光東照宮を思わせる華麗な神殿だ。さかのぼれば、
日光東照宮に名を残す名工左甚五郎の流れをつぎ、
名門花輪彫工に列する名工である。