太田市の大光院I飢饉救済金を奪う
天保の飢饉の時に 飢えに苦しむ人4を救つたという忠治伝説は、
講談の中にも取りあげられている。
天保七年に忠治は子分を引き連れて太田市の大光院に押し入って三千両の大金を
盗み出して米を買って飢えた人たちに分け与えたのだと伝えられている
天保の飢饉の七 八年の頃 米の相場はどの位で有るとというと
米三升が約二百文位であったという
一般に 飢饉の時の布施米は 一人あたり 二合か三合ぐらいが相場であった
三千両も盗み出すと 何人ぐらいの人が救えるかというと、約三万七千人ほどの人が、
教えることになる、たいへんな金額である。
講談の世界の事とはいっても 大光院に三千両もの大金が常に有るとは考えられないのである。
講釈師は、話が大きいほど面白い訳である。
続く
天保七年の大飢饉の時に、忠治が財産を投げ売って飢えに苦しむ人々を救つたという
話が伝えられている。
そのとき布施米用に使つたという米箱が 伊勢崎市の旧家に残されている。
縦横七十七ゼンチほどの杉で作った箱である ふたには三本の棧が付いている。
米二俵分が入るという。
伊勢崎市波志江町(旧三郷村)の方に、お聞きした時
「この辺りは 国定村との関係が深いのですか?」
「ここは 昔は佐波郡の三郷村といつたんです 昭和三十年に 伊勢崎市に合併されたのです。
三郷村 束村 赤堀村は たいへん交流があり 婚姻関係も多かつたのです。」l
どなたが、嫁に来た方がいるのですか?
「実はおばあさんが 国定村からここへ嫁に来たのです おばあさんの実家は名主をやっていたのです」
家は国定忠治の生家のすぐ裏にあったんです。
この家が明治二十年代に火事になったときに、おばあさんの実家から火事見舞いとして
この米箱に米を一杯入れて送られてきたんです」
天保の大飢饉のときに忠治が難民救済に使った米箱が、今に伝えられていることは
忠治伝説の証として たいへん興味深いものがある。
続く
天保七年は 江戸時代の三大飢饉にかぞえられる大凶作であった。
春ごろから冷害になり 田植えの時期には雨続きになり 稲は水腐れになってしまったという
その後 日照りが何日も続いて早魅に見舞われて大飢饉になってしまった。
忠治は 全てのものを売り払って金に変え、飢えに苦しむ人たちを教つたという話が
残っているが、天保八年に田部井村向原に大賭博場を作り
その寺銭で磯沼の掘り直しを行い水を溜め水に困っている農民を救ったのであるという。
この磯沼は その後「忠治沼」と人々の間に言われるようになり、今に伝わっているので
この磯沼が 田部井の向原にあるというので、一度訪ねてみた、
伊勢崎市東田部井町で車を止めて道を歩いているお年寄りに尋ねてみた。
田部井町の向原というのは この辺りですか?
近くの方が「そうですよ、昔はこの辺りの磯沼が忠治の沼です。野球場の照明が見えるでしょう あの辺りが磯沼のあつた所ですよ」
忠治さんの沼ですと、さん付けで教えてくれたのには 少しびっくりしたが 教えられた場所に来てみると、伊勢崎市営野球場あずまスタジアムという野球場であったが、
ファンスの横が磯沼があった所だという
加えて「畑にするには小石が多く大変だったという」が、忠治の農民救済の言伝えとしては
任侠忠治の話としては、大変民衆に受ける話であるが疑問が残るのである。
続く
天保の大飢饉の時に 忠治が飢えに苦しむ人たちを救つたという話が 広く人々の問に、
今なお語り継がれている
「赤城録」iの中には 次のように記されている
天保七年は日照りが続いて 関東は大飢饉となった 忠治は私財を投げうって 飢えに苦しむ
人今を救った このため 赤城付近では餓死する者が一人もいなかつたという事が記載されている。
忠治が飢饉に苦しむ人身を助けたという話のいくつかが、今も伝わっている
その一つは 田部井村のかんがい用の沼が埋まってしまって用をなさなくなってしまった
そこで忠治は 埋まってしまった沼を掘り返して水をため 早勉を防いだと伝えられている
今でも忠治沼と地元の人たちは呼んでおり 私が訪ねた時にも
「ああ 忠治さんの、沼ですかと「いって親切に教えてくれたのである」
もう一つは 米百俵を飢えた人心に配ったというのである
自宅の前に米俵を並べて人4に振る舞ったともいわれているし
鎮守社の前に千両箱を並べて銭を振る舞ったとも伝えられている
また 子分を引き連れて 太田の大光院に押し入ってE千両ほど
を強奪して 飢えた人々に分け与えた話や中山道で江戸の飛脚を
待ち受けて 千五百両ほどを奪って農民を救った話などは講談の
中に出てくるのである
天保の飢饉に米や銭を振る舞って 農民を救けたという話は
多くは講談の中におもしろおかしく書かれている
しかし 羽倉筒堂のi赤城録lの中に i忠治は私財を投げうって困窮した人身を救った
そして赤城付近からは一人も飢え死をするものを出さなっかつたにと記されてあるのは
そうした事実が多少なりともあってのことだろうと考えられるが、
つづく