百々の紋次の墓
伊勢崎市境百々にあるという経蔵寺に、百々の紋次の墓を訪ねてみた。
忠治に駒札を譲って縄張りを与えた親分として有名である。
百々に行ってみたが、経蔵寺らしい大きな家は見当たらない。
何人かの人に、
「この辺りに経蔵寺というお寺はありませんか」
「経蔵寺?聞いたことはありませんね。この辺にはお寺なんかありませんよ、お寺なら何カ所か
ありますがね」
そこで、道路脇のフレームの中で仕事をしているお年寄りに尋ねてみIたら、
「経蔵寺というお寺は知らないが、この近くに某地ならあるよ。あそこに火の見やぐらの
半鐘が見るだろう。そこを入ったところに墓地があるが、そこに経蔵寺というお寺でもあったんかね」
教えられた通りに、火の見やぐらの脇を入っていくと墓地があり、本堂はないが門柱に「経蔵寺」
いう文字が刻まれていた。
紋次の戒名「花輪昶光居士」を頼りに墓石を捜してみると、天保十三年の年号がある紋次の墓が見つかった。
忠治が建てたと伝えられている。
この紋次は、テレビでお馴染になった。木枯らし紋次郎‘のモデルになったともいわれて
さて、紋次と忠治とのかかわりであるが、『赤城録』には、次のように記されている。
「忠治は十七歳の時に人を殺し、武州川越の親分、大前田の英五郎のところへ逃げ込んだ。
そして、英五郎のところに一年ほど世話になった。ある日、英五郎は忠治に言った。
『おめえさんほどの才覚がありや、何故いつまでも生まれ故郷を遠く離れてくらす事もあるめぇ』といって、上州の百々村の紋次を紹介した。その三年後に紋次は亡くなった。つづく