アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の七

2016年08月31日 | 近世の歴史の裏側

仙岳 下仁田戦争戦死者を祀る 其の一

 水戸浪士が去った下仁田戦場の惨状は言語に絶するものであった。

 死屍累冷 至るところに白兵戦の凄まじさを物語る太刀や槍、武具が散乱していて、

 重傷を負い息絶えた者や負傷した者か取り残され、浪士により処新された藩士の首や遺体  は、放置されたままであり 敗北の悲劇をまざまざと見せつけていた 

下仁田戦場に家族関係者ともども真つ先に駆け付けて、戦死者の遺体を探し出し

弔ったのは田村伯岳である。

                                       つづく


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の六

2016年08月30日 | 近世の歴史の裏側

下仁田戦争の敗北

 筑波山に挙兵した水戸浪士は 幕府追討軍に反撃しながら 大義である尊王攘夷を 京都にあっ 禁裏守衛総督を務める一橋(徳川)慶喜(水戸藩主斉昭の長子)に直訴し朝廷に言上しよう、と決意する                    

 十一月一日 武田耕雲斎を総大将に 田丸稲之右衛門 山国兵部(喜八啓)藤田小四郎の幹部

に率いられた水戸浪士は 三隊編制で京都へ向けて進軍を開始した。 

世に言う 水戸天狗党である。

高崎藩は北関東有数の譜代大名でありながら、水戸浪士とは下妻で戦闘して敗走し「右京様は卑怯様」にと嘲笑されていた 高崎藩では 天狗党との闘いを回避した諸藩と違い 雪辱を期して一戦交えるべきとの藩論に傾いていた。藩は十一月十一日 急濾六百人の藩士を四隊に編制し三隊をもって迎撃することに決した 

十一月十五日夕刻 東山道を避けて下仁田に水戸浪士の先遣隊二百人が宿陣した。

 翌十六日払暁から戦いは始まった。戦さ慣れと火勢に優れた水戸浪士に包囲され 高崎藩士は次々と討死 負傷し 敗北する。

                                  つづく


群馬の森に行きました。其の3 博物館

2016年08月24日 | Weblog

戦争コナーで、木製のプロペラが有りました。

 伝単(ビラ)もありました。

米軍は、殆どの空襲の際、事前に伝単(ビラ)を配り

日本の市民に伝えていたのですが、

当時の軍隊が回収した様です。

 

                         続く


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の五

2016年08月23日 | 近世の歴史の裏側

水戸浪士反乱と高崎藩の出兵

元治元年(1864)二月二十七日 内紛に揺れる水戸藩では田丸稲之衛門を総帥に、

藤田小四郎ら脱藩百数十人の浪士が筑波山中腹の護持院に挙兵した 

六月十一日 幕府は高崎藩に水戸浪士を追討するよう出兵を命じた 

藩は止もなく六月二十三日、八百七十人の一番隊 二十五日に二百十人の二番隊が

野州(栃木県)に向かって出撃した。

藩主松平輝照を迎えて高崎城中で行われた部隊編制と結団式に高崎藩主祈願寺の

清水寺現職田村仙岳は「武運長久 勝利祈願」の守護札を用意 持参して出陣藩士

一人一人に配布した。 

ところが七月八日下野国下妻田町雲充寺に宿営していた高崎藩兵は、

藤田小四郎指揮下の浪士の急襲を受けて あわてふためき武器、弾薬等装備の荷物を

置き去りにしたまま遁走した。

この不様な敗走ぶりを見た人々は 「右京様(高崎藩主)は卑怯者」」と皮肉った。 

下妻雲充寺に残して来た武器、弾薬は高崎藩にとって敵の手にでも渡ったら

恥の上塗りである。

これを何とか取り返し 高崎まで持ち帰りたいと考えた。

武装した藩士では水戸浪士に見破られるということで、名乗りを上げたのが清水寺住職

田村仙岳と城下書肆店主沢本某である。

人足を引き連れて、非戦闘員を称して野州下妻まで行き、武器i弾薬その他を収容し

高崎まで運搬した。

高崎藩内における伯岳の覚えはますます高くなり 藩主輝馨の厚い信任を得る事と為った

のである。

                   つづく


群馬の森に行きました。其の2

2016年08月23日 | Weblog

群馬の森「県立歴史博物館」の中に、スバルコーナーが有りました。

上の画像は、懐かしいラビットのスクターですが、

当時の富士重工は、2輪車の生産を中止してた為に、現在は生産をして居ません。

隣にスバル360の後期型が展示して有りました。

360の第1号の購入者は、パナソニックの創業者「松下幸之助」翁でした。

360は、トーションンバーサスペションで悪路では

最高の乗りごごちで悪路では、当時最高の走破性でした。

 

 


昨日は、群馬の森に行きました。其の1

2016年08月22日 | Weblog

昨日は、朝開園と同時に

群馬県立歴史博物館の展示品を観ました。

話題になった、金井東裏遺跡の甲着装古墳人の内部です。

上の画像は、女性の古墳人の内部です。

男性は、推定身長約164cmと思われます。

上の画像は、左が男性で渡来人で右は女性で鼻と頭かい骨の特徴から

関東、東北古墳人と考えられれいます。

 

                   続く


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の四

2016年08月19日 | 近世の歴史の裏側

通常は 他家の女婿になって百姓になるか いっそ蚕で潤う商家の奉公人になるかであるが、

伯岳は、いずれの途も採らなかった 出家して僧侶になる途を選んだのであった 

いつどの寺で得度し、どこで修行し、一人前の僧侶となったのか 仙岳の修行時代は全く

不明である 

群馬郡福島村(高崎市)真言宗豊山派金剛寺住職より高崎華蔵山弘誓院清水寺への

転住の記事によって 僧仙岳が現れて来るのは 嘉永三年(一八五〇)十二月三十日である。

高崎城下はじめ周辺村々の人々から観音山と親しまれ信仰を集めた名刹清水寺の住職となった。

その九日前 姉徳が精魂傾けた国定忠治が大戸で傑刑に処せられていたのである。 

忠治の死出の行列は 高崎城下を華々しく通過しており仙岳は人知れず姉徳との因縁を思いっつ

観衆の中から手を合わせていたであろう 

お上の御定法を破ってまで忠治に賭ける姉を戒めるのでなく

むしろ支援するところに仙岳の出家

らしからぬ豪胆さがある。この時まだ二十六歳の青年僧であった こんな若僧に高崎の名刹清水

寺か任されたのには 清水寺自体が寺格か落ちるほど衰微していたか? あるいは荒廃した由緒ある

寺を やる気のある青年僧に委ね復興を期待したかである いずれにせよ 伯岳には通常の出家人には

ない手腕、力量を感じさせるものがあつたのであろうか、徳に共通するものである 

仙岳の特異な力量は 幕末の変革に直面して右往左往する大檀越高崎藩の救済に向けて発揮される

しばらくは仙岳の活躍とその背景に目を向けてみよう。

                           続く


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の参

2016年08月17日 | 近世の歴史の裏側

徳の弟 田村仙岳の登場

嘉永三年(一八五〇年)の忠治刑死後 渡辺三右衛門を後見にして玉村宿有馬県佐波郡玉村宿へ

仙岳は観音信仰で知られた高崎清水寺の僧である 徳の後見人の渡辺三右衛門を観音参詣に誘ったり 高崎城下で馳走したり 火札の騒ぎの後には 自らも真言修験で大礼調伏に自信か有ったのか 三右衛門を訪れている。

徳の弟か僧侶であったことは すでに他の実家佐兵衛家の于孫一倉義秋家の「過去帖」に有る。

他の子孫である菊池範家の「過去帖」にも仙岳の記載がある。 

 

清水寺中興初代    明治三二年十二月二三日

中僧都仙岳大和尚  享年七十四才

 

徳の婚家である菊池家では 仙岳を徳の弟として命日を「過去帖」に留め 祀っていたのである 

また残された戸籍謄本から徳の養子左之吉(徳と仙岳の兄一倉佐兵衛の二男吉之亟)の娘みきが

仙岳の養女になっていたことが判明する(ただし徳の死から二か月後の明治二十二年四月十五日に離縁となって 菊池家に戻った)徳 仙岳の九歳違いの姉弟は 生家の有馬村一倉佐兵衛家とのつながりを、重視していた。 

ところで 仙岳は 何故に出家し 姓が生家の「一倉」でなくして田村になのか 謎を解く手がかりは目下ない。

ただ推測をすぎないが、i他がそうであったように 母親の生家の影響が垣間見える。というのは 伯岳の宗派は 有馬村一倉家の菩提樹が神宮寺の天台宗ではなく 

中里村の母の生家岸家の檀那寺徳蔵寺の真言宗なのである。恐らく

後妻の男子であった仙岳には、零細な田畑で茶屋を営む父母から

分家させて貰うことは出来ない事である。

                                                     続く

 


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の弐

2016年08月17日 | 近世の歴史の裏側

金の切れ目は、縁の切れ目か?

三右衛門は後見の縁を切る一札を徳に渡してからも未練あり気な振舞いが目につく 

一札から五日後の四月十六日事態の急変が耳に人ったのか忠治の子分重兵衛が三右衛門方に飛んで来た、どうなったのか事情を聴取と考えられる。 

 「こんな筈ではなかった」と、責められた三右衛門は 翌日に言葉足らずを悔いたのか

子分伊勢松に申し付け 帰村したばかりの重兵衛に手紙を届けさせた。

他方 縁切の一札以来 他から三右衛門への働きかけはなくなり 徳の足は玉村宿から遠くなった。 

 三右衛門は四月二十四日 五目牛村の徳を訪ね 重兵衛と再び会っている 弁明に努めたので有。

もう徳の心中には三右衛門への関心はなくなったにもかかわらず三右衛門は 五月二十三日に、

出張先の前橋の宿から他に飛脚を出して 馳走するから来るよう誘っているしかし、徳が行った形跡はない 

それにも懲りず翌月の六月十一日には またまた飛脚を出して 十二日には徳のところへ押しかけ

一泊しているよりを戻そうとしたのか?

二十三日には 今度は書状(飛脚かは不明)を送った 翌日返信が来て

来月入湯に来るとの報に喜んでいる。

そして二十九日 徳から来信と同時に国定村安五郎(忠治子分)iが来訪する 詰めの縁切りの

話でもされたと考えられる。

八月二十二日 伊勢崎町(現伊勢崎市)へ出張中の三右衛門は矢原村(高崎市箕郷町矢原)五太夫を

連れて「五目牛村徳殿」に泊まっている これを最後として徳の名は三右衛門の日記から消えた。

呼び方も出会いの頃の、徳殿に戻ったのが、印象的である 

何かとふっ切れない未練がましい三右衛門をよそに 徳は冷徹に三右衛門に対峙した 出店出来

なかったことが全てであって 甲斐性のない男は たとえ大惣代であっても駄目ということである。

忠治に対しては 刑死後も忠治を祀り 後世にその名を留めるべく献身した徳である。

最後は寄場組合大惣代の権益を保守する三右衛門には 魅力を感じ無くなったのである。

 


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の壱

2016年08月16日 | 近世の歴史の裏側

忠治の妾徳の玉村宿出店を拒んだのは誰か?

玉村宿は例幣使の一宿場であるが、実際の支配行政上新田村と下新田村のニか村に、分かれていた。上新田村は九百二十石余の村高で、岩鼻陣屋支配の御料 下新田村は六十三石余の大名大岡主膳正の領分、四百八十二石余の旗本井上左太夫の知行所で、百六十二石余の旗本山田十太夫の知行所の三つに分給されていた。従ってそれぞれに名主他村役人が置かれた。しかし玉村宿はこの二か村を一つとして宿駅を構成し「本陣を臨時に置く」問屋が任命されて人馬その他の交通運輸に当たった地方支配は二つの村とはいえ、実態は街道に沿った

人家が密集する両側町となって宿が発展した為、村とは表向きで実態は宿場町の機能の方が強くなっていった。                

宿が村の上位にあり宿役人が村役人を兼務するのが実情であった。

玉村宿を動かしていたのは何者なのか? 徳の送籍願いを受けた清兵衛は下新田村の名主で

上新田村を含めた玉村宿の役人に諮(はか)らねば決められない。

玉村宿役人の筆頭といえば 問屋と年寄を兼ね かつ上新田村村名主も務める井田金七である。

井田家は万治元年(一六五八年)に 上新田村に属する玉村宿四丁目の四十戸から問屋役を、十三両の祝金で譲渡されて以来 問屋、年寄、名主を世襲して来た玉村宿きっての名望家であった。

天保八年(一八七四年)の「上新田村宗門改帳」によれば名主、問屋兼年寄の役を務めて田畑十三町六反五畝十一歩を所持する超特大の地主である。

傍ら酒造業その他諸商いも営む豪農商とも言える。

金七の家は大家族から成っている 金七(四十歳)と弟【二十八歳】 叔父(五十二歳)叔父(四十四歳iの四家族で小計二十二人(男十二人)、(女十人)で構成されている。

他に下男二十人 下女六人を雇傭し馬五疋を所有している。十三町六反余の田畑と、四十八人の人的資源といい 玉村宿最大最強の顔役とみなしても間違いでは無い。 

徳へ向けられた火札の背後には、恐らく井田金七の意向が働いていたと考えられる。

金七にしてみれば 福島村の年寄に過ぎない渡辺三右衛門が改革組合大惣代に選任されてから、寄場玉村宿へ出入りし、関東取締出役の権威を笠に着て宿敵に口を出すことを苦々しく思っていたと思えられる。 

忠治一件を頂点に 玉村宿と組合村々との間には 負担の分担をめぐって根深い亀裂があった。

そこに忠治の妾であった五目牛村の徳が お上の仕置きに懲りずに、

大惣代渡辺三右衛門を色仕掛けで証し込んで玉村宿で一儲けしようと企んでいる。

金七の許に子飼いの者から次々と情報が人って来る。

金七には玉村宿の世襲の問屋年寄であるという自負がある。他所者と他村の新参者に玉村宿を攪乱を、させてなるものか 徳の店借は断固拒むべしと策を練つたに違いない。

誰か考えついたか?火札で先制攻撃をかけ 宿民の総意として宿役人が一致して他の人別送りを拒絶することで 結着をつける事にした。 

火札の第一発見者建其屋金、お為ごかしに注進した豆腐屋辺は金七の店子とも考えられる子飼いである 火札は実行され 宿内に他の店借の噂は広まり反対の気運は高まっていたである。

後は内諾した大津屋源助、立会人の日野屋代次郎 店受の沢屋助左衛門等、

三右衛門に近しい者たちである 彼らとて宿内で生きる以上、大札一件の推移に井田金七の影を見たでる。

宿役人合議の上の決定となれば致し方なしである。 

徳と三右衛門は敗れるべくして敗れたのである 他のマイナス条件をプラスに転換するにしては、三右衛門は玉村の宿政に直接干与出来る権限を有しておらず 所詮無理であった。

それにしても 徳の企業家として抜群の力量と それを実行する行動力は、幕末の一宿場の人間模様を見事に炙り出していた。 

この一件から四年後の安政三年(一八五六年)三右衛門と金七は関東取締出役関係の諸費用の負担をめぐって激突する。

この時、三右衛門は 仲介に上州の顔役中の顔役で、元は博徒の大親分の川俣村外三十九か村組合の大惣代大久保村名主高瀬仙右衛門を頼んで 他の店借を潰した井田金七と大黒屋清兵衛から、

一本取って仕返しを行ったのである。

                                                                                         つづく

 参考文献及び引用文献

平成9年発行 玉村町 町史別巻Ⅴ

三右衛門日記 (二)など