本年も、宜しくお願い致します。
まず、忠治と同時代の年齢の比較から、記載致しますが、お徳の
調査、参考資料の検討に時間を要しておりますので、昨年より
記載間隔が永くなりますがご容赦戴きたい。
まず、国定忠治の子分、保墨(泉)の卯之吉は上州保墨村(群馬県伊勢崎市境保泉)の
農家の次男に生まれ、壱五歳の頃、百々(どうどう)一家の三下奴(さんしたやっこ)に
なって、壱七歳の頃、子分に取り立てられます。卯之吉が子分になった頃、
国定村の忠治が大前田栄五郎の紹介状を持って、百々一家にやって来た。
忠治は卯之吉より一つ年上でした。久次郎は忠治を兄貴分として迎えます。
卯之吉が弐拾歳になった夏、親分の紋次が中風で倒れ、忠治が跡目を継ぐ事になります。
忠治の兄貴分だった三ツ木の文蔵も忠治の子分になり、久次郎も忠治の子分になります。
この時、客人として滞在していた日光の円蔵は若い忠治を助けるために軍師として残ります。
卯之吉が弐拾四歳の時、忠治は対立していた島村の伊三郎親分を殺し、文蔵を連れて旅にでた。
日光の円蔵を助けて、百々一家の留守を守っていたのが久次郎でした。
天保七年(1836年)、忠治は田部井村(国定村の隣村)に新居を構えて、
国定一家を名乗ります。その時、卯之吉は代貸(だいがし)となって、
保泉村に賭場を開帳した。
天保13年、忠治は下植木の浅次郎に命じて、三室の勘助父子を殺害、八州様と呼ばれる
関東取締出役の詮索も厳しくなって、その年の壱拾月、浅次郎、茂呂の茂八、富塚の角次郎らが
捕まり、久次郎も捕まってしまいます。壱拾壱月には日光の円蔵も捕まって、晒首の刑になった。
久次郎が晒首の刑されたのかどうかは不明ですが、処刑された事は事実で、参拾弐歳の短い生涯だった。
それから八年後、親分の忠治も捕まり、大戸で磔(はりつけ)刑に処せられた。
八州廻りとか八州様とか呼ばれる関東取締出役(しゅつやく)が設置されたのは文化弐年(1805年)
六月の事です。
関東の国々は幕府の直轄領(天領)、旗本領、藩領、寺社領がモザイクのように入り乱れていて、
支配者の違う他領に逃げ込んだ犯罪者を逮捕する事ができませんでした。
特に上州(群馬県)は細切れ状態になっていて、犯罪者が潜伏したり逃亡するのに都合がよく、
多くの農民が、かっあ天下で、小銭があり博徒が生まれるのも当然と考えられる。
そこで幕府が考えたのが、どこへでも踏み込んで行って犯罪者を逮捕できる権限を
持った関東取締出役を創設、
文政十年(1827年)の頃、関東取締出役は壱拾人いて、上州と武州を担当していたのは、
吉田左五郎、河野啓助、太田平助、脇屋武左衛門の4人、上総と下総を担当していたのは
武藤佐左衛門、森東平、松村小五郎の参人、野州担当は下山逢七が一人、そして、
江戸で待機していたのが田地門五郎、堀江与四郎の2人だったと記録に残っています。
彼らは江戸に住んでいるため、地方を巡回するには道案内を必要とし、道案内は原則として
村の名主たちが務めるやくでしたが、、取り締まりの対象が博奕打ちや
無宿者なので、そういう者たちを捕まえるには内情をよく知っている者が不可欠で
そこで、顔の売れている博奕打ちの親分を道案内に採用する事になって行きます。
これを『二足の草鞋』といって、国定忠治と対立して殺害された、島村の伊三郎もその典型した。
道案内は無報酬でしたが、八州様を後ろ盾にした役得は多く、博奕を見逃してやるからと言って
賄賂を貰ったり、払わない博徒は捕まえて江戸に送り、その縄張りを拡大していった。
飯盛女と呼ばれる宿場女郎は一軒に、二人までという決まりでしたが、
それを守っている旅籠屋はありませんので、見逃してやるからと言って賄賂を貰い、
払わない者は捕獲、料理屋や分限者(大尽)の所に顔を出して、何か問題が起きたら俺が
うまくやってやると言っては袖の下を受け取ったりしてた。十手をちらつかせて、
人の弱みに付け込んでは勢力を広げて行った。
大親分と呼ばれた大前田栄五郎は寛政五年(1793年)生まれですから、忠次より壱七歳年長です。
「天保水滸伝」で有名な笹川の繁蔵は文化7年(1810年)生まれで、忠次と同い年です。
八丈島送りになった津向の文吉も忠次と同い年です。
清水の次郎長は文政参年(1820年)生まれですので、忠治より壱拾歳も若く、
忠治との接点はなかった思われる。黒駒の勝蔵は天保参年(1832年)生まれで、
忠治より弐拾弐歳年下、吉良の仁吉は天保壱拾年(1839年)生まれで、忠次より29歳年下です。
竹居の吃安(どもやす)は文化八年(1811年)生まれで、忠次より1歳年下です。
記録には見当たりませんが、忠次と接点があったかもしれません。
忠治が磔刑になった嘉永三年(1850年)、吃安は捕まって新島に島送りになりますが、
八年後、島抜けに成功して、甲州に戻って来います。
上州館林の江戸屋虎五郎は文化十一年(1814年)生まれで、忠次より4歳年下、
忠治が世話になった藤久保の重五郎の子分なので、忠治とは面識が有った推測できる。
会津の小鉄は弘化二年(1845年)生まれで、忠次が処刑になった時、まだ五歳でした。
なを、忠治の年譜については、昨年の記載をご覧ください。