上記の埴輪と同じような遺物は,前橋街道の伊勢崎と,境町の間に位置するカミダクシ(以後,上武士)記す
村にあった。そして60~70年前にそこから出土した遺物類を,現在スズキキョウタイという名の
医者が所有している。彼は上武士の近くのホズミ(保泉)に住んでいる。
なを、出土した埴輪は現在は所在不明であるが、現当主の話では昭和始頃に納屋を解体する際に
大工が手順を誤って埴輪は、潰されたとの事であるが、現在もその所に埋まっていると考えられる。
なを、スズキキョウタイは、鈴木巌恭「すずきげんきょう」の事である。
鈴木巌恭は保泉村の蘭方医で、名は巌恭、宇を寅郷、真齊と号した。
父を良琢といい、代々医業した家柄であるが、それまで漢方医だったのであるが、
巌恭は江戸に出て二宮桃亭について蘭方を学んだのであるが、「その術大いに進み、
治療に独特する所有り」と記録にある。
修業して村に帰り、父のあとをついで医業にたずさわった。
当時の知識人はいずれも文藻家として、
何らかの文芸をたしなみ、文人つき合いしたもので、巌恭もまた俳諧に、漢詩文に深い造詣があり、
この地方文苑の常連であった。
文政二年に木島村の俳人紫陌が、関西旅行に旅立つことになった時、
保泉村長洲寺僧卵童が催主になって、盛大な送別会が催された。
会するもの数十人、そして俳人は句を、詩人は作詩を為さなければならないとしたが、
当然、厳恭もこの席にあって、送別詩をおくっている。
送玄々齊西遊
暁発天涯遠色開(暁に発す天涯遠色開く)
伝聞岐路幾雀嵬(伝え聞く岐路幾雀嵬〈さいかい〉と)
待君行詠山川勝(君を待つ行詠山川の勝)
句々括嚢持贈来(句々嚢に括り持ちて贈り来れ)
厳恭は邸内に多くの竹を植えて楽しんだと記録にある。むかしから医者は竹をきらったもので、
それは藪医者と呼ばれたからである。それは竹の清節をよろこんだからと云われる。
また言う、貧民の治を請うものあれば、力を尽してこれに応じ、その費を受けなかったという。
撰文は、金井烏州である。
沖は,1871年10月に岩倉の随行員として訪欧しているので,それ以前であろう。
長谷川の案内で大室まで行ったと記している。大室では,地元の古老,根岸や産泰神社の
神主,置登のコレクションを見たあとで古墳を訪れている。
その後は,宿に戻って夕食をとったと記しており,前橋の油屋旅館まで
わざわざ戻っているのか,あるいは現地で宿を探したのか明らかでない。
翌日も引き続き,大室の出土遺物類を見学,実側したりスケッチしたりして一日を、
過ごしたらしい。鰹登のコレクションも再び見に行っている。
9日は、保泉(現伊勢崎市境保泉)に向かって,鈴木のコレクションを見学する。
すでに保泉の資料に関しても,宮内省提出の際に公になっていたもので、
恐らく、サトウは当初から寄る計画でいたのではなかろうか?
この日は熊谷の近くにある,きさらぎ茶屋で遅い昼飯を食べたあと、
鴻巣の塚本旅館に泊まっている。
3月10日は早朝に出発して,板橋で昼飯をとり,古墳があるとされる白山権現に寄って
江戸に戻っている。なお,最後の3日間は神経痛に悩まされたという。
この旅行でサトウの移動した距離は,初日85.7km,2日目が35.5km,4日目53.5km,
5日目52kmと,総距離226.7kmに及んでいる。初日はおそらく,
何かの交通機関を利用したと思われるものの,それ以外のほとんどを徒歩で移動している。
『日記』をみると当時まだ珍しかった異国人に対して,地元住民からは奇異な目で
見られたり,大に吠えられたりの珍道中が統いたようである。
つづく
アーネスト・サトウの調査経過
大室出土遺物以後の大室村では、毎日数百人の見物人が集まり大騒ぎになったらしい、
群馬県立文書館の根岸家文書にみえる「古墳神器拝礼人名誌」によれば、
1878年4月10日から1879年6月2日までの間に見学に訪れた人数はなんと
5179人に及び、県外では関東地方を中心として,遠くは滋賀県,愛知県,石川県からも見に来たことが記載されている。
さらに,天覧や宮内省提出ということが、拍車をかけ,ついには,東京に居たサトウの耳にも入ったものと
推定される。
出土遺物を実際に目の当たりにしたいと思い,1880年に前橋の大室を
訪れている。
「サトウ日記」では,3月6日に江戸を加藤竹斎という画家と、従者とともに発ち、
その日は熊谷の先で中山道から北に折れ,利根川畔の中瀬(現深谷市中瀬)で宿をとっている。
その後の足取りは不明であるが,おそらく境町から伊勢崎あたりに出る行程をとり,3月7日の12時20分前に前橋に到着。油屋旅館で休憩している。そこで沖と長谷川に会っている。
「日記」では,沖とは9年前に知り合ったと記していることから,サトウが再来日した1870年の翌年に,東京の公使館勤務をしていた当時に初めて知り合ったものと思われる。
つづく
上記の画像は、サトウが訪れた頃の、前橋市の産泰神社「1879年」前後の様子です、
その後、1879年9月に印刷局長大蔵大書記官得能良介から調査報告を編集するので,
古墳略説,古墳図,遺物図等をおくってほしい旨の依頼があった。
その公文書は1879年10月16日付け印刷局長,得能良介より群馬県令,揖取素彦あてに「古墳及び古器物の細密絵図の調整依頼」が群馬県立文書館に残されている。
得能良介による文章は諸田(1927)で記しているように「印刷した否や余は之を聞知しない。」とされ
諸田が掲載している図はこの際に得能良介に 提出したものであるという。
一方,大黒塚古墳出土品については,文政年間に地元の石工,山口豊威勢によって発掘されたものを当時の童姿神社神主が社宝として保存したものである。
サトウが60年位前に発掘されたと記していることとも適合する。
このときの発掘に関与した人の最後の生き残りか3年前即ち1877年に死んでいる。
かつて産奏神社か発行していた『産秦神社の景』によれば,サトウの紹介以後,
明治年間にウィリアム・ゴーランドが調査にきているらしい。
その後,1888年の「上野国郡村誌」でスケッチ図か紹介されているがサトウの
精度には劣る。
上武士(現群馬県伊勢崎市境上武士)の出土遺物については、
どの古墳から出土したものかは同定できない。
但し、文政年間に、上武士天神山古墳群の円環が数十基開墾され、
「土偶人土馬を得たりという記述がある。
サトウの60~70年前の出土という記述と適合することから,おそらく、
天神山古墳群の出土品と推定される。どのような経緯で保泉(現伊勢崎市境保泉)の鈴本家へ
遺物が入ったのか詳細は不明である。また遺物類の所在も現在は不明となっている。
つづく
アーネスト・サトウ著「上野地方の古墳群」より
現地調査から論文に至るまで
1、遺物出土に経過について
サトウがこの文章で報告している前橋大室古墳群は、1878年に石室が開口して遺物が、
出土している。「群馬県史」等では、狐、狢の類を捕獲するために掘った穴か偶然に、
石室に当たったと表向きは語られているが,『古制徴証』に紹介
されている井上真弓の書簡によると,「村吏県の許可を得て2月の下旬より開墾を始め,
古墳に参集した人員は毎日数百人」と記していることから,一応,公式に行われ,
且つ相当大規模であったようである。前二子,後二子両古墳の石室部分の発掘には,
3月21日から4月1日までかかっているらしい。
後二子古墳が開口したのが1878年3月21日で,22日,23日の両日をかけて遺物を調
査して取り上げている。引き続き,3月24日に前二子古墳か開口して,翌25日より4月1日まで
かっかって出土遺物と内部の調査が行われたようである。
地元区長の根岸重次郎より「室内出品言上簿』が県令揖取素彦に報告されたのか3月31日で,
その報告を受けて4月13日には,揖取から徳大寺實則宮内卿へ上申されている。
一方,井上真弓は4月4日に遺物図を作成して4月14日付 けで菅政友に書簡を送っている。県令の報告を受けて,10月22日に宮内省より2名派遣の達示があり,11月25日に大沢情臣,大久保忠保か実査している。
この年は明治天皇の北陸東海巡幸があった年で,宮内省の調査に先立つ9月4日に群馬県庁内にて,
これらの遺物(前二子,後二子,大黒塚古墳等出土品)は天覧に供したという。
そのことから岩倉宮内大臣より提出の口達があり,
1878年12月5日に御巡幸掛大政宮少書記宮谷森翼男に照会,その回答を受けて,
1879年2月3日に宮内省に提出したとされる。群馬県立文書館に残る公文書では、
1878年12月14日に大室出土遺物並びに,上武士出土遺物を宮内省に転送した行政文書があることから、
日数に若干の誤差があるものの,提出の事実は裏付けかとれる。
1879年3月17日に宮内書記官から,「献納したのは県か又は所有者か,買い上げてもよいのなら,
いかほどの代価がよいか。」という様な照会があったので,
3月19日にいままでの経緯を説明した回答をおこなったところ,3月27日に遺物は全て戻ってきたようである。