雷電神社の算額の一面は文化十四年に村内馬場の大津善右衛門と、明治二十八年やはり村内の大谷一之進が、
幸納したものである。一之進の算額は同社拝殿正面の、向って左にあり、善右衛門の算額初めは神楽殿の西側の
軒下にあげてあったが、文字の消滅や紛失を恐れて現在は拝殿内に掛けてある。
大津善右衛門の伝歴については殆ど解らないので、誰に数学を学んだのか、
また村内でどのような教授をしたか知ることが出来ないが、いずれにしても当時上州で盛んだった関流和算を学んでいる。
そして数学の師として伊勢崎藩に仕えた。孝経碑文中にある大津正之は善右衛門の長子である
善右衛門が奉額した文化十四年ごろは算学流行の時代で、各地に算額奉納という事が行われた。
神社などに算額を挙げる事は、第一に社前に祈願する意味も当然だが、自分の数学の力量を大勢に示そうと、
した事による。或は宣伝の意味もあったかも知れないが、学問を行う者にとって自分の力を問いたい気持は
良く判るのである。
善右衛門奉納の算額は、神楽殿の軒下にあって永年風雨に曝された為、殆ど文字や図表が消えかかっていて
普通には、なかなか読み取り難いが、拓本にして墨を打とようやく判読することが出来る。
風雨によって木地が洗われたが、文字のあった部分が出ているので拓本が取れるわけである。
この算額には前文に奉納した理由が記されている。
その理由は「夫以数者の一日用不可闕(かける)-」と漢文で認められている。
その漢文を訳すと大体[それ数は六芸の一にしで、日用欠くべからず、ゆえに余、若きより老に至るまで日夜数に
従ってやまず、然れども精神の衰耗して術のたがうを恐る。謹しんでこれを祠前に掲ぐ、以て四万の君子の
訂正を願うのみ」とある。
したがって善右衛門が晩年に奉納したものであり、最後に諸君子の訂正を頼んでいる。
算額をあげる人が請人に訂正を頼むなど、断り書を付ける事は珍らしいことで、如何にも遜って
慇(いん)懃な善右衛門の人柄が表れている。
さて、この算額には二つの問題と解答が出されているが、和算としてはそれほど難しい問題ではない。
第一問「今有如図三斜内容全円及大円一個中円二個小円二個
只云全円径三十五寸一分問大円径幾何」
そして問題文の上に三角線があり、その三角の中に大小六個の丸が図示してある。
丸は全円の特大のほか大中小と四通りの大きさの丸があるが、
問題はつまり特大の全円の直径が、三尺五寸一分であるが、大円の直径はいくらあるかという事である。
そしてその解き方として余白乗之云々「術日立天元一為大円径以減全円径」と記述があるが、
要するにその答えは二尺〇寸○分余ということである。
第二問はやはり図表があって、「円内に正三角形一個、甲円一個、乙円六個、丙円六個を内接させ、
甲円の直径を 知って丙円の直径を求めよ」、という問題である。
今日の学生にすればいとも簡単な問題であろうが、当時の読み書きも充分に出来なかった人たちには、
こんな和算の問題も難しかったのである。
つづく