忠治が、郷里上州から逃れて逃亡先を、特定する事は困難であるが、羽倉外記によると松本周辺に隠れていたことは確かであるが、信州での潜伏先は、長時間潜伏すには山奥で人目につかない場所が適している。今まで、群馬県では知られていない須坂市の奥の野沢温泉村にあった忠治の石像である。大東亜戦争後須坂市在住の方が購入して自宅に於いて置いたが、敷地が狭いので、現在の須坂市上町の寿泉院に移して屋根と柵を作って安置したと伝えられている。
須坂市教育委員会の報告書によると、以前は須坂市横町に畦上(くろかみ)姓があったと云うが、
忠治との関係を示す証拠はないが、上州から逃亡して信州に隠れた際の庇護者である可能性が高いと思われる。
それが、長野県須坂市上町の寿泉院境内の国定忠治石像であろう
寿泉院の石像は、今まで群馬県では知られていなかったものであるが、これが確認されたことによって国定村-大戸の関所―浅間山麓六里ケ原―車坂峠―信州という忠治の「通り道」が、単なる推定でなく事実忠治の生涯に大きな役割を演じていたことがわかつてきた。この石像は高さ一尺五寸ほどで、仏像型をしており法衣を着けて合掌している立像である。型に入れれば地蔵菩薩である。頭は冠や螺髪などを付けていないで、全体がズングリしており怒り肩で
猪首であって、地蔵にしてはいかにもぶざまな形である。衣紋の前膝のところに「嘉永三年十二月二十四日、国定忠治像にと三行に刻まれている。
後の袖のところには、扇形に一段低く彫りこんだ区劃に「世話人 畔上っ未(ま)石工飯田実」とある代弁と
仰弁(伏せ花とかえり花)の二段の蓮台がありその下に四角の基壇ある蓮台と蓮台の間にある敷ナスの表面に
単純な狭間が彫られそこに卍字が陽刻されているから忠治の供養のための石像と思われるがありふれた
供養石仏ではなく忠治の姿を写した像としての要素の方が強いというのは、足利の画家田崎草雲が描いた
忠治像といかにもよく似ているからである。
忠治は短躯で太った体格をしており顔は円く首は短くて中風にかかり易い脳血管障害型である。