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幕末から明治期にわたって長く日本に滞在し,外交官としても活躍した英国人,アーネスト・メイスン・サトウ〔Sir Ernest Mason Satow〕が行ったー述の日本研究については,近年にわかに脚光を浴びてきている。
サトウは1843年6月30日にロンドンで生まれ,ユニパーシテイ-カレッジを卒業後,1861年に通訳生としてイギリス外務省に入っている。1862年に初来日して以後,江戸幕府の倒幕から,維新政府の誕生という転換期を目の当たりにしている。その間に日本語書記官へと昇進し,1869年に一時帰国。1870年に再び来日して,以後1883年に帰国するまでの13年間に,横浜に活動拠点をもつ,日本アジア協会(The Aiatic Sodety of Japan)を中心として多くの著作を発表している。
イギリスに再帰国後は。シャム総領事,同国公使等を経て,1895年から1900年までの釣5年間は,
駐日公使として日本に滞在し,日英同盟締結の戴の立役者とも言われている。こうした功績から
Sirの称号を与えられ,枢密履問官,ハーグ国際裁判所英国代表評定員等を歴任。1929年8月26日に86歳で没している。
彼の著作は多方面に及んでおり,特に1861年から1927年まで書き綴られた.
「サトウ日記」は、部分翻訳されて、多くの書籍として刊行されている。
歴史関係の胎文としては,蝦夷や琉球,八丈島,朝鮮といった特定地域の研究と、
伊勢神宮を中心とした神道や神話,仏教,古来の祭式等に関する論考に代表される。
こうした中で唯一,考古学関遠の著作として評価されるのが1880年に、ニ等書記宮当時に発表された「上野池方の古墳群」,原題は,「Ancient Sepulchral Mounds in
Kaudzuke」である。本論は,「Transaction of the Asiatic Society of Japan 」Jvo8 part3に掲載されている全文英文による論文で,その存在は多くの研究者によって文献を引用されているものの、いままでに完全な翻訳はなされていなかった。
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