明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私のプチ哲学(7)私が幸せになるための方法・・・ ③ 欲望の分析1=物欲

2021-08-27 16:51:57 | 今日の話題

幸せになるためには、当たり前のことだが、「欲望」を満足させる必要がある。自明のことである。ならば、その前提となる慾望を「分析する」ことが必要となるのではないか。何故なら幸せとは、直接的には「欲望の結果」なのである。そこで順序として、まず「欲望を分析」してみたい。

人生には大きく分けて欲望が3つある。言わずもがなの「金、地位、名誉」だ(勿論、反論は有ると思うが、これ以外のものを知らないので一応これで進めていくこととしたい)。これをもう少し噛み砕いて、自分なりに解析してみた。・・・但し、人と人との「つながり」の中に幸せを感じることは、十分有り得ることだと思う。だがこの「他人との共感」については、また別の機会にする。つまり、誰か「友達」がいないと幸せを維持するのが難しくなる状態は、取り敢えず今回の考察からは除外しておくことにした。まず「自分ひとり」で完結する幸せから始めることとする。

① 所有する喜び
最初に挙げるのは、欲しいものは何でも全部「手に入れたい」という物欲で、それを端的に表現すれば「金」ということになる。まあ、この手の物欲満載の人にありがちなのが、「金で買えないものは無い」という、ある意味摩訶不思議な考えであろう。中にはひたすら貯めてるだけの人もいるが、これは「守銭奴」という別モノで、欲しい物が金そのものという「ちょっと変態的」な物欲の一つだと考えられる。まあこれも広い意味での物欲の一種だろうが、金というのは言ってみれば物々交換の価値を「定量化・数値化」した単なる数字である。何かを買わない限りはただの交換価値を表した数字に過ぎなくて、「金そのものには意味がない」というのが常識だ。実際、財産が「何億もある」という人は、その事自体で「幸せになっている」とは言えないのじゃないか。だから対象から除外した。私が人生の目標にあげる「物欲」というのを定義するならば、何かの現物・品物を「自分のものにしたい」という欲望と定義したい。これを所謂「所有欲」という。

これには大概の場合、「他人の持ち物を欲しがる」という、ちょっといやらしい「比較・勝利の法則」が含まれている。つまり、あの人より「広い家」だとか、皆んなより「大きい宝石」だとか、誰よリ「速い車」といった具合だ。当然、良いものになればなる程、または希少価値が高くなればなる程、価格も鰻登りに高額になっていく。最初は良い生活をしたいと頑張っているうちに、もっと便利なものとか豪華なものに変化していくのが普通だ。それで一般の人がたどり着く高額商品と言えば、「家・車・フランス料理」となる(人によって勿論違いはあるだろう)。とにかく人並みに成りたいと思い、成ればなったで「今度は人よりも上」が欲しくなるのが「欲望」というものの本質なのだ。物そのものではなく「人と比べて」自分はどうなのか、という「競争欲」が欲望の根本原理にある。これでは自分より裕福な人が「大勢居る間」は、本当の幸せはやってこない理屈だ。結局「ひと握りの富裕層」にしか、「勝った」という感覚は得られないことになってしまう。

人間、一通りのものを持つまでは、純粋に「あれが欲しい」的な、単純な物欲状態だが、人並みに揃ってしまうと「それから上を目指す原動力」は、物ではなく「ステイタス」に変化する。つまり物欲は、「必要な物が無い状態」で成立する限定的な幸せとも言えるわけだ。例えば水道がなくて、いつも家から5kmも離れた沼からバケツで組み上げて来ている後進国の人々にしてみれば、水道の蛇口をひねるだけで水が出る生活は「幸せそのもの」だろう。また、生まれつき手が不自由な人にとって、精密な義手を付けることによって自分の手で服が着られるとしたら、それは本当に幸せであると思う。そういう「現実的な幸せ」は世の中にはたくさんある筈なのだ(今やっているパラリンピックが、いいお手本である)。人並みに生活出来るというのは、確実に「幸せ」である。だがこれらは「不足している」ことが幸せの条件になっている。これでは日本人の中でも「やや良い生活」をしている人達にとっては、一生の間に「幸せの限界」に到達してしまうことになる。そうなるとその上の「競争欲」に火が点くのだ。これを箇条書きにすると

a. 必要なものを一通り揃える段階・・・揃うと幸せ
b. 人並みに良い物が欲しくなる段階・・・手に入れると幸せ
c. 周りの人より高額な物が欲しくなる段階・・・希少な物であればある程幸せ

という幸せへの階段を一歩々々登っていくことになる。人間が幸せになったと自覚するためには、現在より「もっと心地よい何か」を所有したと思うこと、が必要なのだと言える。

しかし国民全員が、ある程度の生活レベルに達しているならば(戦前から戦後の困窮時を除けば、日本人は相当高いレベルに達していると思うが)、幸せレベルはすでに頭打ちの段階に入っているのではないか。そして物にこだわって、どっちが上か競争しているだけの単純な人は、結局は「所有している人間自体」は競争の対象にはなってないわけだから、競争はあくまで「物の希少さ」の勝負になる。タワーマンションとか豪華ヨットとかはとても買えないから、せめてお小遣いの範囲で買えるものということで、例えば鉄道グッズを集めたり、珍しい昆虫の標本を集めたりと、どんどんマニアックな方向に突き進んでいく。こうなると、いくら「幸せだ」と本人が主張したところで、社会的には「変わり者」の部類に入ってしまうだろう。普通の趣味の人で幸せを追求すれば、・・・つまり、物質的に幸せになるためには、「ひと握りの富裕層」になるしか道はないということだ。

それで物欲が究極に進んでくると、それを満足させる手段として
d. 資産がトップ10%のグループに入りたい、
となるわけだ。つまり、① 必要なものを持つ → ② 人並みになる → ③ 人より上になる → ④ 富裕層になる、である。

これは長い長い努力が必要である。そして達成したとしても「大勢の中の一人」でしかなく、必ず「上には上」がいる。もし少しばかり幸せを感じるとすれば、自分より資産が少ない人を眺めている瞬間だけだろう。結局は自分より下の人間を見て「自分を慰めて」いる、情けない人になってしまったわけである。

結論1:物欲は、欲しいものを手に入れようと努力して、とうとう手に入れた瞬間が「一番幸せ」ということ。

で、「私が幸せになる方法」ということで言えば、もうそれほどの物欲は持ち合わせていないので、この方法は却下だ。これは結果で言えば、単に「物に興味が無くなった」のである。これは先程の例で言えば、「a. 」の段階で「終わっている」。衣食住すべてに、私は殆ど興味が無くなってしまった。これを「枯れた」というべきか。・・・時折、生活上「必要な物」が出てきて欲しくなる時がある。大抵は台所の排水口の「ぬめり取り」みたいな日用品の類だが、果たしてこれを物欲というかどうかは疑問(まあ、それでも買った時は「プチ幸せ」が訪れるけど)。

一部の人にとっては「物から脱却」して、目標が「ステイタス」へと変化する。物欲が昂じてステイタスを求めるようになった人は、すぐさま「身分の違い」を求めるように変質するようである。これは欲望分析においては「第二段階」に入る。

(続く)


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