いよいよ春が真っ盛りで、待ちに待った5月の連休もあと少しである。といっても何も休みが待ち遠しいのではない、私は無職の年金生活者だから、年中有給なので休みは腐るほどある。では何故待ち遠しいかというと、花粉の飛散が終わるからである。皆が花見だなんだと浮かれているこの時期は、私は人知れず部屋に閉じこもってティッシュペーパーを一枚また一枚と鼻をかみ、ゴミ箱に捨てるという無意味な動作を繰り返しているのだ(残念ながら、もう悔しいという気持ちはなくなった)。神はどうしてこんな試練を与えたもうたのか?と恨めしく思った時期もあったが、必ず5月の連休がくる前には治っているのだから、我慢も2ヵ月程度で済むと辛抱することにした。世の中には治らない苦痛に苦しみ、ひたすら耐えつづけている希望の無い病人もいるのだから、花粉症など痛くも痒くもないのである。つまり私は幸せ者だ、と思うことにした。もし花粉症をまだ発症していない人が目の前にいたら、病気という不幸がやってこないくらいの「余程の幸薄い人なんだなぁ」って考える事にしたのである。何故なら人間の幸不幸はバランスが取れていて、大きい小さいはあってもプラマイはゼロになっている。このところ亡くなった有名人を見ていると渡瀬恒彦・松方弘樹・今井雅之・川島なお美と続き、つくづく最後は結局同じだと思う(余談だが、「かまやつひろし」も死んでいた、驚き)。楽あれば苦あり、だから人生は重い荷物を背負って山道を行くようだと言った家康の言葉を思い出す。健康維持に人一倍気をつかっていた家康も、最後は胃腸の病気で亡くなったらしいからそれほど天寿全うという訳でもなさそうだ。そういえば平清盛も最後は高熱で相当苦しんだという。今度、歴史上の人物の最後を調べて見るのも、暇つぶしとしては面白そうではある。
閑話休題、季節が夏に向かって活動的になるに従って、女性の服装も明るい色が増えてくる。冬は黒い色が多かったのが、ピンクや若草色の軽やかな色合いが心を浮き立たせる。しかし春というと何故若い女性は「トレンチコート」を着るのだろうか?春コートと言うのだそうだが、右も左も皆同じようなコートで「また春コートだよ、趣味悪いなぁ」と、私などはセンスの悪さを可哀想に思ってしまう。ドレスは着る人の「こんな人間だと見てほしい」という自己顕示欲の表れだから、人と同じではないのが基本である。もちろん制服を着ていれば差別化することは出来ないが、まさか皆同じようなトレンチコートを着ることによって「服以外の顔や足といったパーツ」に注目させようという魂胆でもあるまい。とすれば、この風潮はメーカーが仕掛けた「春には春コートを着よう」というキャンペーンが定着して、もはや季節感の部類に入っているのかも知れない。しかし同じコートと言っても色もあるし形もあるだろうに、何でもかんでも判で押したようにベージュのトレンチと言うのは如何なものであろうか。まるで「春にはトレンチを着る事」と決まっていて、疑問に思わないかのようである。
先日駅の階段を登る三人連れの女性が、三人ともベージュのトレンチに身を包んでいるのを見た時には、ようやく春になって着たい物をいくらでも着れる季節になったというのに何て感性が鈍感なのだ!と、呆れると同時に悲しくなってしまった。お金が無くても工夫してオシャレをするのが女性には必要な愛らしい欲望である(と私は思う)はずだが。ついでに言わせてもらうと「カーディガンのロングバージョン」が大流行していたが、どうも似合っている女性を見たことがない。これも大体似たり寄ったりで、いずれもだらしなく前をバランと開けて風に靡かせているスタイルが定番のようであるがチャームポイントが何処にあるのか全く男には理解出来ない代物である。それに着ている女性が失礼ながら大抵見てくれの「ちょと落ちる」、オシャレに慣れていない十人並みの人が殆どだというのも、ひねりも工夫もなくただ着ているレベルになっているというのは頷ける。
最近は、はやっているのが超太いパンツスタイルで、ちょっと外に出れば必ず2、3人は見かける流行り物である。これも御多分に漏れず似合っているというより「私は流行に敏感なの」というメッセージを発信しているだけの、女性の間にだけ通用するお約束みたいなものなのだろうと思った。考えてみればこの手の流行は男には関係なく、女性の同性を見る厳しい目にどう対処すればいいかという「身だしなみの一つ」と捉えるべきであろうとの結論に達した。であれば何も個性を強調する必要はさらさら無く、しっかりと流行のツボを押さえていれば評価されるのではないか。つまり、誰も彼も似たり寄ったりのスタイルになるのは当然の結果である。
私も含めて、男が見る「女性の服装センス」というものは、現実に存在しているものと実態は大きく違っているかもしれない、というか誤解しているかもしれないと思うようになってきた。というのは、女性が服を選ぶ基準となるのは「男にモテようとして」選ぶというよりも、「女性から素敵ねー」と言われるような選び方が基本なのだ。となれば個性よりも生活レベルだったり仲間意識だったりの方が重要だ、というのは当然ではないか。男同士であれば身分や権威に相応しい身なりという基準が通用するわけで、女も男と同じ考えで服を選んで何の問題もないし、むしろ当然である。考えてみれば男の性衝動を意識した服装というものは娼婦か商売女しか着ない職業服であるから、普通の女性のおしゃれとして「センスの良さ」をアピールするという目的には、男というより「同性の目」を強く意識した形にならざるを得ないのであろう。女が同性を見る目の「にべも無い評価」を考えれば、流行というのは女性にとって「最も安全なファッション」と言えるものであるようだ。
これからは、私も街中で流行のスタイルを颯爽と着こなしている女性を見る時は、「あなたもそうやって同性の目から身を守っているわけですね?」と考えることにしよう。ハッと目を引くような個性的な服装は、余程の勇気と向こうみずな自信が無ければできないことであろう。だから私は勇気を持ってチャレンジしているごく少数の「個性派」にこそ、ついつい心を奪われてしまうのである。女性雑誌のグラビアから抜け出てくるような美女は流行の服装でもバッチリ決めることが出来る。それだけ素材が良いのである。でも、それ程の素材では無い「一般の女性」こそは流行を追うのではなく、個性で勝負する姿勢が欲しいと思う。私はそんな女性が増えてきて、フランスの女性のように日本の女性も「個性を大事にするよう」になれば、日本人男性の人生も「もっと豊かになるのになぁ」と願っている今日この頃であります。
今回は柄にもなくファッションの流行について書いてしまいましたが、お恥ずかしい次第です。そろそろ花粉も終わりということなので、これから外に出る機会もどんどん増えることと思います。出来れば世の女性達がファッションの流行に惑わされず自由に個性を発揮し、私達男性の目を楽しませてくれる事を期待して、拙い筆を置く事にします。(私のブログにも女性の読者がいると良いのですがねぇ)
閑話休題、季節が夏に向かって活動的になるに従って、女性の服装も明るい色が増えてくる。冬は黒い色が多かったのが、ピンクや若草色の軽やかな色合いが心を浮き立たせる。しかし春というと何故若い女性は「トレンチコート」を着るのだろうか?春コートと言うのだそうだが、右も左も皆同じようなコートで「また春コートだよ、趣味悪いなぁ」と、私などはセンスの悪さを可哀想に思ってしまう。ドレスは着る人の「こんな人間だと見てほしい」という自己顕示欲の表れだから、人と同じではないのが基本である。もちろん制服を着ていれば差別化することは出来ないが、まさか皆同じようなトレンチコートを着ることによって「服以外の顔や足といったパーツ」に注目させようという魂胆でもあるまい。とすれば、この風潮はメーカーが仕掛けた「春には春コートを着よう」というキャンペーンが定着して、もはや季節感の部類に入っているのかも知れない。しかし同じコートと言っても色もあるし形もあるだろうに、何でもかんでも判で押したようにベージュのトレンチと言うのは如何なものであろうか。まるで「春にはトレンチを着る事」と決まっていて、疑問に思わないかのようである。
先日駅の階段を登る三人連れの女性が、三人ともベージュのトレンチに身を包んでいるのを見た時には、ようやく春になって着たい物をいくらでも着れる季節になったというのに何て感性が鈍感なのだ!と、呆れると同時に悲しくなってしまった。お金が無くても工夫してオシャレをするのが女性には必要な愛らしい欲望である(と私は思う)はずだが。ついでに言わせてもらうと「カーディガンのロングバージョン」が大流行していたが、どうも似合っている女性を見たことがない。これも大体似たり寄ったりで、いずれもだらしなく前をバランと開けて風に靡かせているスタイルが定番のようであるがチャームポイントが何処にあるのか全く男には理解出来ない代物である。それに着ている女性が失礼ながら大抵見てくれの「ちょと落ちる」、オシャレに慣れていない十人並みの人が殆どだというのも、ひねりも工夫もなくただ着ているレベルになっているというのは頷ける。
最近は、はやっているのが超太いパンツスタイルで、ちょっと外に出れば必ず2、3人は見かける流行り物である。これも御多分に漏れず似合っているというより「私は流行に敏感なの」というメッセージを発信しているだけの、女性の間にだけ通用するお約束みたいなものなのだろうと思った。考えてみればこの手の流行は男には関係なく、女性の同性を見る厳しい目にどう対処すればいいかという「身だしなみの一つ」と捉えるべきであろうとの結論に達した。であれば何も個性を強調する必要はさらさら無く、しっかりと流行のツボを押さえていれば評価されるのではないか。つまり、誰も彼も似たり寄ったりのスタイルになるのは当然の結果である。
私も含めて、男が見る「女性の服装センス」というものは、現実に存在しているものと実態は大きく違っているかもしれない、というか誤解しているかもしれないと思うようになってきた。というのは、女性が服を選ぶ基準となるのは「男にモテようとして」選ぶというよりも、「女性から素敵ねー」と言われるような選び方が基本なのだ。となれば個性よりも生活レベルだったり仲間意識だったりの方が重要だ、というのは当然ではないか。男同士であれば身分や権威に相応しい身なりという基準が通用するわけで、女も男と同じ考えで服を選んで何の問題もないし、むしろ当然である。考えてみれば男の性衝動を意識した服装というものは娼婦か商売女しか着ない職業服であるから、普通の女性のおしゃれとして「センスの良さ」をアピールするという目的には、男というより「同性の目」を強く意識した形にならざるを得ないのであろう。女が同性を見る目の「にべも無い評価」を考えれば、流行というのは女性にとって「最も安全なファッション」と言えるものであるようだ。
これからは、私も街中で流行のスタイルを颯爽と着こなしている女性を見る時は、「あなたもそうやって同性の目から身を守っているわけですね?」と考えることにしよう。ハッと目を引くような個性的な服装は、余程の勇気と向こうみずな自信が無ければできないことであろう。だから私は勇気を持ってチャレンジしているごく少数の「個性派」にこそ、ついつい心を奪われてしまうのである。女性雑誌のグラビアから抜け出てくるような美女は流行の服装でもバッチリ決めることが出来る。それだけ素材が良いのである。でも、それ程の素材では無い「一般の女性」こそは流行を追うのではなく、個性で勝負する姿勢が欲しいと思う。私はそんな女性が増えてきて、フランスの女性のように日本の女性も「個性を大事にするよう」になれば、日本人男性の人生も「もっと豊かになるのになぁ」と願っている今日この頃であります。
今回は柄にもなくファッションの流行について書いてしまいましたが、お恥ずかしい次第です。そろそろ花粉も終わりということなので、これから外に出る機会もどんどん増えることと思います。出来れば世の女性達がファッションの流行に惑わされず自由に個性を発揮し、私達男性の目を楽しませてくれる事を期待して、拙い筆を置く事にします。(私のブログにも女性の読者がいると良いのですがねぇ)
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