道徳は相対的である。ゆえに人を導くにあたって、自分をその人の立場に置いて彼を導くべきである。公式によらず、実際によりて、彼の能力の範囲内において神の律法を実現すべく、彼を助くべきである。
われらはパリサイ人のごとくに高きに坐して命令を下してはならない。自ら低きに下り、救わんとする人の立場に立ち、その手を取り、その足を運びて、彼を理想へと導くべきである。
そうして、これ、我らの救い主イエス・キリストの取りたまいし道である。彼はサマリヤの女を導くにあたって、彼女の不倫を責めて彼女に不可能を強いたまわなかった。彼は彼女の能力に応じて、彼女を生命の泉へと誘いたもうた。
イエスは最大の道徳家であった。ゆえに、人に応じて道徳を教えて誤らなかった。道徳は、より低きより、より高きに導く道である。これを伝うるに、父の威厳と母の慈悲とを要する。われらは道徳を父の厳命とのみ解してはならない。 (内村鑑三)
「律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育係となったのである」(ガラテヤ書3:24)
Therefore the law was our tutor to bring us to Christ, that we might be justified by faith. (Galatians 3:24)
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(今日のお弁当)
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