学生時代に習った芥川龍之介の『羅生門』の冒頭の一文である。
平叙文(普通の文)で書かれているが、読者はこの一行で疑問を持つ。
ある日の暮れ方の事である。一人の下人が羅生門の下で雨やみを待っていた。
雨が降る夕暮れの羅生門の下で、下働きの下人が、一人で、なぜいるのか?
読者が心の中で「なんでやねん?」「ほんでどないなるねん?」とツッコミをいれたくなる仕掛けになっている。
ミステリー小説はいうまでもなく、すべての小説は読者の「なんでやねん?」のツッコミで展開していく。
日常生活において、「なんでやねん?」のツッコミをいれるような事態は出来るだけ避けたい。
しかし、痛さをこらえて伸びた鼻毛を抜いた時の快感のような、少しばかりの刺激を求め、「なんでやねん?」のツッコミをいれるために、小説の非日常の世界へ入り込む。
あるいは、「なんでやねん?」という辛い恋をした自分に共感してほしくて恋愛小説を読む。
枯枝に烏のとまりけり秋の暮 /松尾芭蕉
「秋の夕方の枯れ枝に、なんでカラスがとまってるねん? なんでやねん?」と、俳句にツッコミをいれると何の味わいもない。
俳句は一つの情景を十七文字に閉じ込めて、読者に「そやそや。あるある。なるほとなあ」という共感を求める文学だからだ。
ところが、「なんでやねん」のツッコミに挑戦した俳句がある。
坪内稔典という現代俳人の俳句である。
「なんでやねん」のツッコミをいれてもわからない謎の俳句。
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ
三月の甘納豆のうふふふふ
春の風ルンルンけんけんあんぽんたん
水中の河馬が燃えます牡丹雪
多分だが磯巾着は義理堅い
影踏みは男女の遊び神無月
人の心。見方、考え方、感情、心理は、かくも「なんでやねん?」に満たされている。
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