小学校の四年生ぐらいのころだったろうか。村の会所(集会場)の前の道で、近所の悪友と「缶けり」をしていた。そろそろ飽きてきたので次の遊びをしようと、道の真ん中で輪になって話し合っていた。日陰に入るとまだ寒い春休みだった。
そのとき、春やんが、日向を選んでいるかのように、ひょっこりひょっこりと歩いて来た。
村の中で「棟上げ」があり、それに呼ばれて、祝いの酒を飲んでの帰りだったのだろう。作業ズボンの上によれよれの背広を着て、てぬぐいでホッカムリをした春やんが、昼さがりの陽を背に受けて、我々の輪の中に酒臭い真っ赤な顔をつっこみ、「おい、おまえら……」と突然話し始めた。
「おまえら住んでいるここを、何で『喜志』というか知っとるか?」
大阪は、昔は海だったという話を学校で先生から何度も聞いていた。海岸の近くに出来た村々だから「きし(岸)」なのだと、誰もが信じていた。学校の先生の言うことは全て正しいのことなのだと、誰もが信じていた時代だった。
悪友の一人が、「おっちゃん、それはな……」と、先生が言ったことをそのままに説明した。すると春やんが、「あほんだら、ちゃうがな」と、おだやかな声で話しだした。
「海あったんは、大和川の向こうあたりまでや。言うてもわからんやろ。近鉄電車の駅で言うたら、河内松原くらいまでや、と言うてもわからんやろ……」
電車に乗るなど年に二、三回ほどという時代だった。「大和川」や「河内松原」という名前は知っていても、それが我々の住んでいる喜志からどれほどの所にるのかなど誰も知らなかった。それどころか、酒に酔って、ぐてんぐでんのオッサンに、我々の神聖なる学校で教わった常識をくつがえされることはあってはならないことだった。たまりかねて、悪友の誰かがぼそりと言った。
「ほな、なんで『きし』と、言うねん?」
春やん何かを言おうとしたが、言葉につまって黙ってしまった。春やんの眼が完全にすわっている。
嫌な間がしばらく続いた後、えらく落ち着いた声で、目をしくしくさせながら春やんが言った。
「この喜志はなあ、人が住みだした一万五千年の昔からりっぱな陸地や。ここが海あったら、何でワイらの住んでる川面をウミヅラと言わんとカワヅラと言うんじゃ?。どうのこうの言うてらら、頭からストロー突っ込んで血を吸うたるで!」
「てなもんや三度笠」の「あんかけの時次郎」のセリフをそのまんま言い残して、春やんは来た時と同じように、日向を選んで、ふらりふらりと横丁の角を曲がって行った。
近所のおっちゃんを怒らしてしまったという後味の悪さがあったのだろう。誰かが、「そや、俺、用事があったんや」と言い出すと、「そやそや、俺もや」と、みんな散り散りに帰って行った。
おそらくその晩は、私だけではなく、皆がビクビクとした夜を送ったのではないだろうか。
春やんから喜志という地名のいわれを聞いたのは、それからずっと後のことだった。
【補説】
今から1万1500年前から2400年前の間を指して縄文時代と言います。氷河期か終わって温暖な気候となり、我々の祖先が生活を営みだした時代です。当時の大坂は、上町台地が半島のように突き出して、その東側は「河内潟」という湾でした。縄文中期と呼ばれる五千年前までも同じように、大和川と石川が合流する辺りまでは海でした(その後、河内湖)。したがって、春やんの言ったとおり、富田林は陸地で、「海岸にあったから喜志(きし)という地名がついたというのは誤りです。
だからといって、当時の先生たちを責めることはしません。「海の岸にあったから喜志なのだ」というのは説得力があったし、ロマンが感じられたからです。
縄文時代の遺跡の多くは東日本にあります。大阪府の縄文遺跡は他と比べれば数は少なく、その多くは生駒山の麓、河口や川岸に集中しています。その中でも藤井寺市の国府遺跡は、あのモースさんによって、近代考古学が始まったころから注目されていました。縄文時代が始まる前、何万年もかけて石川が土地を階段状に削り落として河岸段丘を形成します。その中で、川から10メートルほど高い中位段丘と、3メートルほどの低位段丘のある国府に、我々の祖先が生活を始めました。今から五千年前です。
国府遺跡とほぼ同じ縄文中期の遺跡が羽曳野市の城山、そして富田林の錦織にあります。私が住んでいた喜志村の川面はその中間に位置するのですが、国府・城山・錦織と同様に、低位段丘と中位段丘とを合わせ持った村です。
石川の氾濫原(増水の時は水につかる)中にある離れ島のような国府や城山から、縄文人が石川をさか上り、安全で広く狩猟のしやすい中位段丘のある喜志村に、あるいは川面にたどり着き、そしてある者は川上の錦織にたどり着いたのだと春やんは言っていました。
春やんが井戸から発見した土器、植木鉢に使っていた土器は、国府遺跡や錦織遺跡から発見された白川型とよばれる、爪でひっかいたような模様があったことからも、縄文時代中期のものであったことは明白です。川面や他の石川谷の中位・低位段丘上の家々の下を掘れば、本当に五千年前の遺物が出てくるかもしれません。
川面で家の建て替えるがあると、こんな話をよく聞きました(過去の話です)。
「おい、(工事も)だいぶんと進んどるな」
「いやあ、それがな、またえらいもん(遺跡)が出てきよったんや」
「そらあかんで、早ようコンクリート入れてしまわんと(発掘調査で工事が遅れるぞ)」
遺跡の発掘の多くは、バブルがはじける前の景気のよかった時だそうです。消費経済が進み、農業だけでは生活ができなくなって田や畑が売られ、住宅の分譲やマンションの建築が頻繁に行われました。そのおかげで、それまで発掘されたことのない土地にブルトーザが入り、古代の遺跡がいくつも発見されました。しかし、その多くは「調査発掘」という名目で簡単な調査がなされただけで、再び地の中に埋め戻され、その上にビルが建ち、もはや日の目を見ることはなくなりました。
古代の土器や遺跡が発見されようが、邪馬台国が近畿や九州であろうが、我々の日々の生活に何の影響もありません。しかし、土地の所有者に負担がかからない発掘調査ができる法整備をして、祖先の遺物を残しておくことも必要です。
爪型の入った土器を貼り合わせて、春やんのおっちゃんはそんな思いで植木鉢にしていたのだろうと思います。
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