八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆☆☆「池ビズ」講座夏学季〝開講のお知らせ!〟のお知らせ☆☆☆

2020-02-22 11:43:39 | 思うこと、考えること!
  2020年度の講座についてお知らせいたします。

 今年度も昨年度同様に講座を開講します。
 今年度は京都商工会議所の「京都学」講座がオリンピックの都合等で回数が減ったため、その分を講座で補おうと、「二講座」を予定しています。

 概要は、下記のフライヤーflyerをご覧いただければと存じますが、一つは〝時代に杭を打つ partⅢ〟として、今回はおもに丸山眞男から高橋和巳、むのたけじ、鶴見俊輔など戦後の思想家・文学者の歴史意識やその哲学的立ち位置についてお話ししていきたいと思っております。
 「人はなぜ生きようとするのか?」という疑問から、すべての哲学は出発しています。ふつうその疑問は、人びとに意識的に止揚されることはありませんが、道を急ぐなかでのふとした光景や仕事に疲れた空隙のなかで、他者とのさりげない会話のなかから、あたかも井戸から水が漏れ出してくるように人びとの心に浸みてくることがあるかと思います。その意味で、世に称される哲学者や思想家といった人びとと市井を生きる生活人には、なんらの垣根はありません。その疑問に、知識的な処理もまた階級もありません。誰でも平等に、わたしたちはわたしたちの生きていることへの想いを持っているかと思います。
 そうした誰でもが抱く哲学や思想の姿を、歴史のなかでどのように彼ら思想家・文学者は発言し表現したのか。そのことについて、時代性をふくめて丹念にお話しできればと考えています。
 
 もう一つの講座は、〝哀しみの系譜〟という講座です。
 わたしはおもに現代史と日本人の精神史にいろいろアプローチを重ねてきましたが、とりわけ〝抒情〟について、それは日本人の好む情緒である〝侘び寂び幽玄〟のありようとも深く結びつくものですけど、その歴史的な変遷と意味について考えてきました。
 人はなぜ〝悲哀〟という感情を持つのか。それを西欧の哲学が説く〝catharsis〟として捉えきれるのか。また〝浄化〟という心情は、なぜ人びとに「哀しみ」を溢れさせるのか。そうしたことを世阿弥や兼好法師、松尾芭蕉や良寛の〝生き方〟とその芸術哲学から見届けていきたい。
 ほんらい、この講座はこれまで長いあいだ京都商工会議所の講座でお話ししてきましたが、先の事情から果たし得ず、今回はその集大成として真剣に取り組みたいと考えました。
 じつはこの企画は、書籍化の話しが進んでいたのですが、昨今の出版事情の劣化からお蔵入りになり、そこで講座を通じてお話しできればと考えたしだいです。夏学季に一部を秋学季には二部を予定しています。

 二つの講座とも、見栄えは悪く、また難しそうといった印象を持たれるかも知れませんが、文章にすれば難しいこともお話しとしてお聞きいただき、それぞれ疑問点や感想も含めて互いに対話していけば、難しいものにはならないかと思います。現代史も古典もいわばわたしたちの日ごろ思っていることや感情が現れ出たものに過ぎませんし、人びとのありようや生き方に深く通底するものがあるかと思います。

 日時は、おもに日曜日の午前中になっております。初夏に向かうもっともいい季節のなかで、知識を得るということだけではなく、思索のなかで自身を見いだす時間作りができればと思っているしだいです。

 まずは軽やかに、真剣に、そして満ち足りた時間を生きるために、と考えています。
 楽しい講座にしていきたいと思っています。


 

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