気がついてみれば、もう9月です。
2021年の夏は、異常な気候変動と無理筋で開催された「オリンピック」の虚栄とその後の残骸、そしてコロナ禍の蔓延であたふたした夏でした。
なんにも楽しめない、青空すら見上げる余裕もなく、たまに見上げてみるとゲリラ豪雨か意味のない戦闘機の空中ショーで染料が降ってくるような、気分の優れない日々でした。
そんななか政治を姑息な闘争だと思い込んでいた秋田出身の宰相が、安倍・麻生といったもっと姑息な手練手管に翻弄され、辞任することになりました。事の善悪正邪は置くとして、わたしの秋田での旧い友人と同姓である「菅」くんには、これからゆっくりパンケーキでも食べて、自らの過ぎ来し方をゆっくりと顧みていただけるといいかなと思っています。
そんなことを思いながら、わたしも自らの過ぎ来し方を振り返ってみていくと、高校生だったときに読んだジョージ・オーウェルのことが思い浮かんできました。
たしか最初に読んだのは評論集だったのか、『アニマルファーム』だったのか。とにかくわたしが高校生だったとき、ジョージ・オーウェルの本は、〝反共〟つまり反共産主義の本だとして、そのころの進歩的(?)とされる評論家からはほとんどキワモノ本程度の評価しかなく、日本語訳も秋田の書店で容易に入手できないものでした。
ところが、たまたま英語版はペーパーバックかなんかで書店には置かれていて、どうもそれは地元の大学で教材とされていたようですが、英語の受験勉強に役立つだろうなといった面白半分の軽い気持ちで買って、読み進めていきました。
一言で、『Animal Farm』は面白かったし、評論集にあった「A Hanging絞首刑」「Shooting an Elephant象を撃つ」も、むずむずとした不快感の底から植民地主義、当時はそんな言葉はわかりもしなかったのですが、なにか深い矛盾が見えてきて、ほかの勉強には手がつかず、とにかく先へ先へと読んでいったのを覚えています。
そして『1984』を買ったのは、ちょうど高校がおわるころだったでしょうか。
主人公ウィンストンの脳裏にくり返しくり返したたき込まれる真理省のスローガン。
戦争は平和なり 自由は隷従なり 無知は力なり
こんなふうにして人間は隷従と卑屈さのなかに沈んでいくんだという、驚きとひたひたと押しよせる怖さをぼんやりと思っていました。
そんな思い出話はどうでもいいのですが、そのジョージ・オーウェルが注目を浴びはじめたのは、ちょうど日本が〝バブル〟期に突入しようとしていた、まさに〝1984年〟ころだったように思います。ただし、それは近未来小説のカテゴリーのなかで、オーウェルの予言は外れているよね、といった文脈でのものでした。
しかし、バブルが崩壊し、オウム真理教のサリンテロや2001年の世界同時テロなどがおこると、世情がざわざわと音を立てて危機意識のなかに沈み、それと相伴するように日本を含め世界各地で〝ヘイトクライムhate crime〟や〝ショービニズムChauvinism〟が巻き起こってきます。
またさらに、肥大化するネットNetのなか、フェイクfakeが横行し、教養が蔑ろにされ、反知性主義が跋扈するなか、2009年にタイトルだけをイメージのみで切り取った小説が登場した影響もあったのでしょうか、にわかに、わたしたちのいま存在する現実と『1984』の近似性が取り沙汰されるようになってきました。
でも、はたしてそうした読み方は、ジョージ・オーウェルを本当に読んだことになるか。ただ現在のNIPPONのありようと似ているだけという浅い「読み」でいいのかなっていうのがわたしの疑念です。
ジョージ・オーウェルはエリート校であるパブリックスールに進んだものの、その後、ケンブリッジやオックスフォードには進まず、植民地での警察官の仕事を選び、その後の放浪生活を経て、ナチス台頭のなかスペイン市民戦争の参戦の経験もし、まさに裸足で現場を歩くようにして世界大戦中に思想の鍛錬を積んできた小説家であり思想家でした。
オーウェルのたどった足跡が、そのまま現代史であったとも言えるように思います。46歳で没したオーウェルの未来も含めて、まだまだその生きかたと思想は探究されてもいい。そんな印象です。
そこで、この秋の講座では、まだお読みでない方、すでに読んでしまった方、それぞれのかたがたともに、〝精読!『1984』〟を試みてみたいと思い、講座を開設するしだいです。
じつは本は一人で読んでもいいのですが、複数のかたがたとともに読み進めるのが大事であることを、これまでのさまざまなゼミでわたし自身が実感してきました。
読書とは多様な「読み」と、自分が気づけなかった世界が交錯するところです。というわけで、下記に概要を掲載しますが、ぜひこの秋は、ジョージ・オーウェル『1984』を、わたしのお話しをひとつの起点として、みなさんとご一緒に読み進めていきたいと思っています。
講座へのご参加をよろしくお願いいたします。
*ところでこの秋から、わかりやすい日本の「近代・現代史」の連続講座を、わたしの自宅から発信する(zoomとGIGAファイル便を通じて)予定でおります。
〝近代そして現代のNIPPONのプロフィール〟といった内容で、いったいNIPPONとはこの150年ばかりのあいだ、どんな相貌で世界に対してきたのか、人びとの高揚と悲惨、厄災と歓喜、その織りなす「歴史の地勢模様」をお伝えできればと思っています。
なお詳細については、一週間後のblogでお伝えさせていただきます。
記
<NPO新人会・宏究学舎2021年秋学季講座>
◆時代に杭を打つ! partⅥ 〝精読『1984』〟◆
~わたしたちが存在する〝世界〟と
ジョージ・オーウェルが見た〝現実〟~
◇期間:2021年10月2日~11月20日<全4講>
◇日時:毎回土曜日<午後15時~17時>
~わたしたちが存在する〝世界〟と
ジョージ・オーウェルが見た〝現実〟~
◇期間:2021年10月2日~11月20日<全4講>
◇日時:毎回土曜日<午後15時~17時>
◇受講定員:30人程度
◇受講料:全講受講5000円
<一講毎1500円、ファイル便は6000円>
*1講毎、zoom・ファイル便(レジュメ送付)の受講可能!
◇会場:としま区民センター403会議室
◇会場:としま区民センター403会議室
*JR各線池袋駅東口下車・ビッグカメラ裏
【講座内容】〝現代〟という世紀にあって、わたしたちの視野は以前よりずっと狭くなり、網の目のように張られたネットの監視と制約のなかで息を殺しているかのように見えます。
一方、富を独占する権力者は、メディアを動員しフェイクニュースとゴシップで民衆を誘導し、民衆には〝パンとサーカス〟をあてがっておけと高をくくり、民衆もまた、金と享楽にしか価値を見いだせないままです。それはまさに1949年に発表されたジョージ・オーウェル最後の作品『1984』の世界そのものと言っていいでしょう。
しかも現代の深刻さは、そうした管理社会が、権力といった外部の圧力だけからではなく、コロナ禍と未来への〝ぼんやり〟とした不安も含め、わたしたちの内部の腐食から生み出されていることにあります。本講座で は『1984』をみなさんと精読し、「人間の崩壊」といかに対峙するかを論考します。
第1講(10月2日):そこには何が描かれているのか?
-『1984』を読み解く!
~[第一部]ジョージ・オーウェルが見つめた〝現代〟
第2講(10月16日):『1984』が描く管理社会と原理主義
~[第二部]〝恐怖と隷従、憎悪(ヘイト)〟が生む「鉄の檻」
講外講:10月23日(土)〝月日は百代の過客〟ツアー!
第3講(11月6日):〝傲慢な無知と羨望と卑屈〟の社会
~[第三部]〝未来〟を想像できない国〝NIPPON〟
~[第一部]ジョージ・オーウェルが見つめた〝現代〟
第2講(10月16日):『1984』が描く管理社会と原理主義
~[第二部]〝恐怖と隷従、憎悪(ヘイト)〟が生む「鉄の檻」
講外講:10月23日(土)〝月日は百代の過客〟ツアー!
第3講(11月6日):〝傲慢な無知と羨望と卑屈〟の社会
~[第三部]〝未来〟を想像できない国〝NIPPON〟
第4講(11月20日):対話としての『1984』
~[まとめ]〝困難に対峙する精神〟
*テキストはハヤカワ文庫版を使用し、3部構成を各1部づつ読み進めます。以下、Flyerです!(拡大してごらんください)