水無月より

つれづれなるままにブログというものを書き綴ってみます。

「上杉治憲敬師郊迎跡」を訪ねる

2023-07-21 14:11:03 | 神社・仏閣

 今日21日(金)は晴れのお天気です。最高気温27度、最低気温21度ですが、

過ごしやすいのは朝のうちだけですね。午後になると室内の気温は30度超えで、

エアコンのお世話になっています。

 さて、紅花を見に米沢まで出かけたときのことです。

前を走行する車が、なんか変?

若葉マークと高齢者マーク、どちらも付いています。

これはなぜだろうと…頭の中でいろいろ想像してみました。

 

 車を駐めた山上コミュニティセンターのすぐ近くに羽黒神社があり、

立ち寄ってきました。

 羽黒神社の創建は大同元年(806)に大窪沢山頂に出羽三山の羽黒山から羽黒神の分霊を

勧請したのが始まりとされ、古くから神仏習合し当初は羽黒堂と称していました。

暦仁元年(1238)に現在地に米沢市関根に遷宮され、延元年間(1336~1338年)に社殿

が再建されています。元亀元年(1570)の伊達家と芦名家との兵火(横檀原の合戦)に

より社殿が焼失した事で衰微しましたが、慶長3(1598)年に米沢城の城主となった

直江兼続により社殿が再建されています。

 元文3(1738)年に火災により社殿が焼失し、天明8(1788)年に再建されたのが現在の

本殿で、入母屋、茅葺、正面千鳥破風、桁行3間、梁間3間、正面3間軒唐破風向拝付、

笹野観音と比べると細かな彫刻は少ないものの、茅葺屋根の建物としては規模も大きく

かなり存在感があります。

 明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され明治5(1872)年に

「羽黒大明神」から社号を「大物忌神社」に改称し、郷社に列し、昭和7(1932)年に

「羽黒神社」とさらに改称しています。

随身門(茅葺、切妻、三間一戸、八脚単層門)

往時は仁王像が安置されていたと思われる遺構で神仏習合時代の名残が見られます。

 

寛政8(1796)年9月6日、上杉鷹山(治憲)は恩師細井平洲の米沢訪問に際し、自ら郊外

の羽黒神社まで出迎え、普門院に案内し労を慰めたとされ、普門院と共に「上杉治憲敬師

郊迎跡」として昭和10年(1935)年6月7日に国指定史跡になっています。

祭神:倉稲魂命(大物忌神)。

コメント (2)
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