先日『この世界の片隅に』を見ました。
すぐに原作も買って読み終わりました。
原作もすばらしいですし、原作とはまた違ったアニメの力のようなものも感じました。
終盤の時限爆弾のところでは、しばらく息ができませんでした。映画を見て息ができなくなるという経験は初めてです。
そして、この映画から人が生きていく意味について、強烈なメッセージを受け取りました。
すばらしい作品に出会えてとても幸せです。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
『この世界の片隅に』
この映画を見て...、
自分の過去を投影できるエピソードがほとんどないにも関わらず、
すべてが自分のことの様に思える。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
(以下ネタバレあります。見てない人は読まないでください。)
ぼうっとしたところが少し似ているくらいで、主人公のすずさんに感情移入する場面も少なく...、
少しお姉さんが人間らしく共感できる対象として描かれていますが、
その他の人々も含め登場人物に特に肩入れするような場面もありません。
終戦の日泣き崩れる主人公の涙は、それまでのすずさんの穏やかさとの対比で意外なものであり、それだからこそ深遠なものを含んでいますが、直感的に理解できるものではないかもしれません。
この場面は、静かな感情の表現が多いこの映画の中で数少ない激しい感情があふれるところですが、この場面にカタルシスを感じることはできませんでした。
それなのに、序盤を経て映画に完全に引き込まれてしまった私は、映画の中のできごとをすべて私自身の経験としてとらえていました。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
この映画のいろいろな感想の中に、リアルな日常を描いていることや、日常の延長線上に非日常としか思えない戦争の悲惨を描いたことを評価している文章を見ました。
まったく同感です。
でも、私が一番心動かされたのは、そこではない気がします。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
この作品は、ファンタジーとリアルな日常生活の現実との境界線を取り除き、行き来することで、ファンタジーが現実であり、現実が実はファンタジーかもしれないことに思い至らせてくれます。
怪物にさらわれるのはファンタジーですが、夢見がちな幼い心にとって、それは現実に起こった何かの事実を表しているのかもしれません。
座敷ざしきわらしが天井裏から現れるのはファンタジーですが、主人公が将来出会う 娼館の女の人がその座敷わらしであることは現実として描かれています。
妻にとって自分がベストの選択でなく、妻がかつて恋した男性と結ばれることが妻の幸せだと思う夫の考えは、夫にとって極めて厳しく、悲しい現実として現れていますが、本当はファンタジーです。
逆に妻が持つ夫の昔の恋人に対する思いはファンタジーかもしれないし、現実かもしれない。
(映画を離れて私の話ですが)今まで仕えた上司の多くは、自分のことを疎(うと)んじていると思う私にとって強烈な事実も、ファンタジー。
気になる相手のちょっとした仕草が好意の現れに違いないという身近なファンタジーも実は事実かもしれない。
細々(こまごま)とディテイル(細かいところ)にこだわったリアルな日常も主人公:すずさんのふわふわしたキャラクターでまるでおとぎ話のようにも思えます。
この映画では、現実にはあり得ないようなファンタジーが日常の延長にあり、リアリティーにあふれる日常世界が実はファンタジーかもしれないものとして描かれています。
この手法により、『日常としてのファンタジー』と『ファンタジーとしての日常』が共存する世界が現れます。
同時にファンタジーとしての映画と観客である私の現実の境界もあやしくなり、スクリーンの中に広がる世界のどこかに自分がいるという感覚になり始めます。
そして反対に、この私の現実の世界のどこかに、主人公のすずさんがいるような気がしてきます。
この世界の片隅にすずさんがいて、そこにあるスクリーンの中、その世界の片隅に、私がいる。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
感情移入という手法でも、カタルシスという手法でもなく、この映画は観客を映画の世界に誘(いざな)い、映画の世界を観客のいる現実の世界へ重ね合わせ、一つのものとすることに成功しています。
この映画の芸術としての価値はここにあると思います。
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すぐに原作も買って読み終わりました。
原作もすばらしいですし、原作とはまた違ったアニメの力のようなものも感じました。
終盤の時限爆弾のところでは、しばらく息ができませんでした。映画を見て息ができなくなるという経験は初めてです。
そして、この映画から人が生きていく意味について、強烈なメッセージを受け取りました。
すばらしい作品に出会えてとても幸せです。
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『この世界の片隅に』
この映画を見て...、
自分の過去を投影できるエピソードがほとんどないにも関わらず、
すべてが自分のことの様に思える。
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(以下ネタバレあります。見てない人は読まないでください。)
ぼうっとしたところが少し似ているくらいで、主人公のすずさんに感情移入する場面も少なく...、
少しお姉さんが人間らしく共感できる対象として描かれていますが、
その他の人々も含め登場人物に特に肩入れするような場面もありません。
終戦の日泣き崩れる主人公の涙は、それまでのすずさんの穏やかさとの対比で意外なものであり、それだからこそ深遠なものを含んでいますが、直感的に理解できるものではないかもしれません。
この場面は、静かな感情の表現が多いこの映画の中で数少ない激しい感情があふれるところですが、この場面にカタルシスを感じることはできませんでした。
それなのに、序盤を経て映画に完全に引き込まれてしまった私は、映画の中のできごとをすべて私自身の経験としてとらえていました。
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この映画のいろいろな感想の中に、リアルな日常を描いていることや、日常の延長線上に非日常としか思えない戦争の悲惨を描いたことを評価している文章を見ました。
まったく同感です。
でも、私が一番心動かされたのは、そこではない気がします。
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この作品は、ファンタジーとリアルな日常生活の現実との境界線を取り除き、行き来することで、ファンタジーが現実であり、現実が実はファンタジーかもしれないことに思い至らせてくれます。
怪物にさらわれるのはファンタジーですが、夢見がちな幼い心にとって、それは現実に起こった何かの事実を表しているのかもしれません。
座敷ざしきわらしが天井裏から現れるのはファンタジーですが、主人公が将来出会う 娼館の女の人がその座敷わらしであることは現実として描かれています。
妻にとって自分がベストの選択でなく、妻がかつて恋した男性と結ばれることが妻の幸せだと思う夫の考えは、夫にとって極めて厳しく、悲しい現実として現れていますが、本当はファンタジーです。
逆に妻が持つ夫の昔の恋人に対する思いはファンタジーかもしれないし、現実かもしれない。
(映画を離れて私の話ですが)今まで仕えた上司の多くは、自分のことを疎(うと)んじていると思う私にとって強烈な事実も、ファンタジー。
気になる相手のちょっとした仕草が好意の現れに違いないという身近なファンタジーも実は事実かもしれない。
細々(こまごま)とディテイル(細かいところ)にこだわったリアルな日常も主人公:すずさんのふわふわしたキャラクターでまるでおとぎ話のようにも思えます。
この映画では、現実にはあり得ないようなファンタジーが日常の延長にあり、リアリティーにあふれる日常世界が実はファンタジーかもしれないものとして描かれています。
この手法により、『日常としてのファンタジー』と『ファンタジーとしての日常』が共存する世界が現れます。
同時にファンタジーとしての映画と観客である私の現実の境界もあやしくなり、スクリーンの中に広がる世界のどこかに自分がいるという感覚になり始めます。
そして反対に、この私の現実の世界のどこかに、主人公のすずさんがいるような気がしてきます。
この世界の片隅にすずさんがいて、そこにあるスクリーンの中、その世界の片隅に、私がいる。
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感情移入という手法でも、カタルシスという手法でもなく、この映画は観客を映画の世界に誘(いざな)い、映画の世界を観客のいる現実の世界へ重ね合わせ、一つのものとすることに成功しています。
この映画の芸術としての価値はここにあると思います。
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