浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

臺灣

2012-11-05 20:34:18 | 資料

 台湾財界の「独裁者」と呼ばれる辜一族の始祖・辜顕栄(ゴケンエイ)は、台湾中部の鹿港と呼ばれる地方の豪商・豪族の出身であった。辜顕栄は、青年時代から働く気がなく、生まれ故郷を捨て、台北へホームレスとして流れ込み、港でコメ輸出の人足等の仕事で、その日暮らしを行っていたが、やがて人足を、まとめ上げ船会社に派遣する「手配師」、つまりヤクザのボスとなる。中国大陸向けのコメ輸出が台湾・台北の重要産業となっていた19世紀末の事である。

 当時、台湾では中国本土の清王朝の政治家・官僚達が本国の眼の届かない事を利用し、盗賊化し、台湾市民の財産を強奪し、子女を強姦する等、犯罪組織化し、それが「公式の権力・政府機関」となっていた。「辜」は「罪・罪人」を意味する。「無辜」で「無垢」つまり犯罪者ではない事を意味する。辜の名前は犯罪歴のある人間、という意味であり、辜顕栄は、こうした清王朝の無法に反逆し、犯罪者のレッテルを貼られた罪人であった。中国では、辜という氏名は、ほとんど存在しない。「あいつは犯罪者だ」という意味のニックネームが、そのまま辜顕栄という氏名になってしまったのが、この一族の始まりであった。

辜顕栄は、清王朝への謀反心から、コメ輸出でも台湾で強い勢力を持っていたフランス系船舶会社に「拾われ」、その配下のヤクザとなり、清王朝系の輸出事業には関わりを拒否していた。この英仏の貿易船、それを護衛し「アジアへ侵略者として姿を現していた」この時代の英仏海軍に燃料・石炭を供給していたのが、日本の九州の麻生炭鉱(麻生グループ)であり、元首相・麻生太郎の一族であった。麻生グループの親会社は、現在、フランスのタンカー・船舶会社ラファルジュである。

フランス系船舶会社に拾われ、その実働部隊のヤクザとなった辜一族と、麻生一族の接点は、この時代に始まる。

 19世紀末、日本軍が台湾へ軍事侵略を開始すると、辜顕栄は自分に犯罪者のレッテルを貼った清王朝打倒のため、この日本軍を利用し、日本軍上陸の道案内役を果たす。

 1895年、戦争に勝利した日本軍が下関条約で台湾を支配下に置き、清王朝を台湾から追放すると、辜顕栄は、その「働き」を高く評価され、台湾と中国本土への塩、砂糖の輸出専売権を日本政府から与えられる。

 塩の専売事業は中国大陸では、青幇、赤幇と呼ばれる中国マフィアの独占事業であり、塩の販売ルートは、そのまま麻薬の販売ルートであった。辜顕栄は日本政府公認の台湾の地下マフィアのボス、中国本土のマフィアへの地下ルート・パイプを握る「日本政府公認のヤクザのボス」の地位を得た事になる。

注意すべきは、当時の台湾の支配者である日本政府の総督・後藤新平は、中国支配の資金捻出を麻薬売買で行うべき、と主張する「日本政府を代表する麻薬専売事業」の推進者であった。後藤は内務省で薬物を扱う部署の局長(現在の厚生労働省に該当する)出身であった。

 辜顕栄は、日本政府から中国侵略資金の調達係、つまり麻薬販売係を任命された事になる。それだけ中国本土の麻薬組織とのパイプを辜顕栄が持っていた事を意味する。この中国本土の麻薬ビジネスの実働部隊=担当者であったのが後の首相・吉田茂、つまり麻生太郎元首相の祖父である。

既に、この時代、辜一族と麻生一族の「ビジネス・ネットワーク」は出来上がっていた。

1934年、辜顕栄は日本軍支配下の台湾政府で、貴族院議員になっている。

第二次世界大戦後、日本軍が敗北し台湾から撤退すると、辜振甫は日本軍への協力者として、蒋介石により投獄され全財産を没収されるが、出所後、香港に亡命し、そこで再び財産を形成し、台湾に戻る。

 辜顕栄、その息子・辜振甫(庶子)は、親子二代に渡り華僑持ち前の商才を発揮し、現在、台湾・中国本土の両者で、和信電話、和信メディア、中国国際信託銀行、中信証券、中国人寿保険等、大手企業100社を超える一族経営の巨大コングロマリットを形成している。

財閥と共に、台湾マフィアのボスの地位を継承した辜振甫は、現在、台湾財界の総理大臣・独裁者と呼ばれている。

 過去、成長著しい中国経済の資金需要の中枢を担って来た台湾財界。そのボス中のボスが、この辜一族である。蒋介石によって投獄された辜が、出所後に起死回生を図ったのが香港であり、香港は辜一族の第二の故郷である。その香港財界と台湾財界を一体化し、台湾=香港=中国全土へと資金を流し込み、中国経済成長の原動力となって来た辜一族の活動のエネルギー源は、父のホームレス時代、犯罪者のレッテルを貼った「中国本土権力への、リベンジ」であった。台湾から香港・中国への資金の流れ、「企業支配の流れ」は、このリベンジの流れであった。

そのリベンジは中国の市場開放において、現在「果たされつつ」ある。

 このリベンジの「パイプ」、台湾と中国を結ぶ地下水脈は、旧日本帝国軍の与えた台湾と中国を結ぶ、マフィアの塩専売権(麻薬の専売権)のパイプの転用であり、その拡大生産版であった。辜一族が、その出自から「生粋の日本支持者」である理由が、ここから生まれてくる。

また創業者をホームレス時代、「拾い、育ててくれた」フランス系貿易商社との「連携」こそ、この一族の成功の秘訣であった。一族にとって香港が第二の故郷であれば、欧州フランス系企業は、第三の故郷である。

 現在、この辜(クー)財閥は、辜振甫の3男ジェフリー・クーが財閥全体を仕切っている。APECなどにはジェフリー・クーが台湾代表として参加している。そしてジェフリーの父=台湾財界の総理大臣と呼ばれた辜振甫の甥・辜寛敏は中国共産党への敵対心を激しく燃やし台湾独立の闘士として終生、戦い続けた政治運動家であった。その息子が、元日本首相・麻生太郎の「政策ブレーン」リチャード・クーである。麻生・クー共に、欧州フランス・ロスチャイルドの船舶会社ラファルジュの「子分連合」である。

 2008年、リーマン・ブラザースが崩壊した。長年、野村證券・野村総研の上級研究員として対中国ビジネスを指揮して来た「親日派」リチャード・クーは、一族の第三の故郷=ヨーロッパ企業=リーマン・ブラザース欧州支部買収に「指揮権を発動」した。リーマンの中国ビジネスを「継承」する目算である(最終的にリーマンのアジア部門買収で妥結した)。

「日本・フランスと協力し中国王朝を打倒せよ」。犯罪者のレッテルを貼られた創業者以来の、クー一族の「血が騒いだ」のであろう。

 1930年代、クー一族と麻生一族の中国上陸の野望は、1945年の敗戦を持って失敗に終わった。2008年、麻生首相のブレーンとなった、クー一族は、再び過去の失敗を繰り返すのだろうか。

野村総研で、クーと同僚であった経済学者・植草一秀は小泉の郵政民営化を厳しく批判したため、「口封じ」のために強制ワイセツ罪を警察によって「デッチアゲ」られ、職を失い名誉も失い、葬り去られた。文字通り、「社会的リンチ・魔女刈り裁判」であった。この郵政民営化でロスチャイルドのゴールドマンサックスは郵便局の資金を入手し、その資金で中国の「開発」を行い、核兵器製造を開始しようとしている。その核は日本をターゲットにしている。植草は日本の国益のために殉死した。この部下の「殉死」に報いる、弔い合戦を野村は決意しなければならない。部下を見捨てる会社は、やがて全ての部下に会社そのものが、見捨てられる。

ロスチャイルドと一体化した現在の中国「王朝」=共産党政府。「中国王朝打倒」を家訓とする、リチャード・クーは同僚の「殉死」を眼にし、また、かつて反権力を掲げ、中国政府の権力と終生戦い死んで行った、自分の父親の墓に「顔向け出来ない」行動を取る事は許されない。「投資とは、リベンジである」。これが一族の家訓である。

TVなどで顔を売るだけが彼の使命ではない。

リチャード・クー

中華民国 (臺灣)

 オランダ統治時代、鄭氏政権時代、清朝統治時代、日本統治時代を経て、1945年10月25日以後は中華民国政府が実効支配している。

 1945年10月15日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が発した一般命令第1号に基いて台湾へ進駐した中華民国政府が実効支配しており、1949年10月1日の中華人民共和国成立に伴い瓦解した国民党が政府機能を台湾に移転し同年12月7日に台湾に政府が設置される.。

 しかし、台湾を理解するためには、昔からの住民(内省人)と国民党軍と一緒にやって来た外省人を区別して考える必要がある。

  台湾では外省人を除き、日本統治時代をすごした福建系、客家系、先住民族の人々に、今でも(日本統治時代を懐かしく思い)『何日君再来(いつの日に、君ふたたび来る)」』を歌い続けている人がいる。日本の軍人や警察官を神とした廟で、ぬかづく人もいる。過去の日本人を崇拝する民衆の記憶は、今も存在する。

 大陸で一般的に言われているように、日本統治下の台湾が「支配民族と被支配民族の対立」という構図だけでは理解できないだろう。

 確かに大陸では日本軍と国民党軍とは戦火を交えてはいるが、中国共産党軍はその当時は山奥に潜むだけで、日本軍と戦った当事者ではない。憶測で言うしかない馬賊の類であった。

 それがまるで共産党軍が日本と戦ったような妄想で包まれて、自己暗示をかけているような有様である。当然台湾に逃げた国民党軍であれば、日本を悪く言う人が居ても仕方が無いと思う。

 それが戦争というものであろう。しかしもともとの台湾住民からは、日本を非難する言葉すら聞いたことがない。

 大阪人の私はよく台湾の方々から、「もっと綺麗な日本語をしゃべらないと駄目だ。お前の大阪弁まじりの日本語は聞いていて非常に汚い。」とよく叱られたものである。

 「我々は日本人と呼ばれた事に今でも誇りを持っている。」ともよく聞かされた。

 NHKの台湾が反日であるかのようなドキュメントには、偏向した悪意のプロパガンダさえ感じさせられる。

   台湾で台湾籍日本兵の問題を議論できるようになったのは、戒厳が解かれてからだ。そして、日本による統治が終わってから大陸から来た外省人も、日本兵になったことを責める必要はないことを、おおむね受け入れた。それまでは、戦死者に参拝しようと思ったら、台湾での人目を避けて、東京の靖国神社まで行く必要があった。現在は、島内の新竹にある済化宮に参拝することができる。

 それは、外省人が台湾を征服して統治していたと言う、歴史的事実から来る戒厳令下での状況である。

外省人と内省人という事を理解せずには台湾を語れない所以である。

 蒋介石が国民党初代総統に就任した当時「動員戡乱時期臨時条款」という、臨時に憲法に優越する法律が制定された。

(1948年5月)これは反乱団体である中国共産党を平定(戡乱)するまでの国家騒動員の時期を指し、2年間の時限立法とされた。国民党が台湾に移った後の1950年5月に満了となったが、「反乱」の平定が実現していないことを口実に延長され、1991年5月まで43年間にわたり施行されることとなった。

つまり、国民党政権は、米国の保護下の台湾を非常時の「国民戡乱時期」体制に置き、「動員戡乱時期臨時条款」で統治したのである。「動員戡乱時期臨時条款」を補強するのが戒厳令だったり、「動員戡乱時期臨時条款」のもとに制定された160もの法律である。国民党政権は中国共産党の「反乱」を口実に台湾での強権政治を正当化した。これにより、蒋介石総統、また後の蒋経国総統を頂点とした一党独裁体制が築かれて行った。

 「二・二八事件」後、台湾に監視と摘発の網を張り巡らせた国民党政権は、改革要求や強権政治の批判、反体制運動に対し、「中国共産党に通じた」「中共のスパイをかくまった」「政府転覆を陰謀した」などの罪名で、容赦無く弾圧した。それだけでなく、批判や抵抗をする異議分子抹殺のために、罪の捏造も行った。

1953年5月の「呉国アメリカ亡命」がその最も古い代表的な例だ。外省人である呉国はアメリカの信任が篤く、1949年12月に台湾省政府主席に起用されたが、蒋経国とうまくいかず、暗殺の危機を察知して台湾省政府主席を1953年3月に離任、5月にアメリカへ亡命した。亡命後は国民党政権の強権政治を強く批判した。

 1955年8月「孫立人事件」。外省人である孫立人もまたアメリカの信任篤い将軍で、戦前はビルマ戦線で日本軍と戦い、成果をあげたが、戦後は国民党軍の司令官を歴任したが蒋経国とうまくいかず、総統府参軍長在任中に、部下の中国共産党スパイ事件で解任され、軟禁された。1988年になって33年ぶりに軟禁を解かれた。

 1960年9月、雑誌で「反抗大陸無謀論」を展開し、スパイ庇護容疑で逮捕された「雷震事件」、1961年9月、台湾独立首謀容疑で200名の支持者と共に逮捕された「蘇東啓事件」、1962年1月、台湾共和国臨時大統領廖文毅を支持したとして200人が逮捕された「廖文毅台湾独立事件」、1964年9月、「一つの中国、一つの台湾」論をいち早く展開した台湾大学教授と弟子2名が逮捕された「彭明敏事件」、1968年8月、反国民党の激論を常々展開していたため、270人の支持者とともに逮捕された「林水泉事件」などが発生している。

 1971年11月、台湾キリスト教長老派教会の「国是声明」は、「台湾の民主化」と「台湾の将来は台湾人が決める」を主旨とし、また、1977年には「人権宣言」を発表、国民党政権を強く刺激し、その後のキリスト教関係者の弾圧と逮捕に結びついた。1975年10月、立法委員の補充選挙に出馬するにあたり、29か条の蒋経国への公開質問状を印刷したところで反乱罪で逮捕された「白雅燦事件」。この事件では質問状の印刷業者も逮捕されている。

 1979年12月、「美麗島事件」。12月10日の国際人権デー記念集会が無許可であることを理由に規制に遭い、官憲と衝突して流血騒ぎとなった。反国民党指導者が一斉に反乱罪に遭い、12年から14年の懲役刑となった。

 1980年2月、「林義雄家族虐殺事件」。前年の「美麗島事件」で反乱罪により留置中の林義雄だったが、2月28日正午に彼の自宅に何者かが押し入り、実母と双子の娘の3人が惨殺された。林義雄は「美麗島事件」の重要容疑者で、自宅も監視下にあっての犯行なので、政府関連の特務機関の関与がささやかれている。林義雄は後の民進党の主席である。

 1981年7月、「陳文成博士虐殺事件」。陳文成は米国カーネギーメロン大学の教授だったが、在米中より国民党政権を批判していた。一時帰国していた際、警備総司令部から呼び出されたまま行方が判らなくなり、翌日、台湾大学構内で死体で発見された。数々の暴行の跡が残っていたという。

 1984年10月、「江南殺害事件」。外省人だが、米国籍を持つ米国で活躍していた作家で、国民党政権の内情を暴露した『蒋経国伝』の出版問題をめぐり、蒋経国次男の蒋孝武の命令で国防軍軍事情報局が派遣したヤクザ組織によりサンフランシスコ郊外の自宅で惨殺された。

 この事件を受け、当時のアメリカ大統領で「親台湾」と言われていたレーガン大統領が国民党に民主化推進の圧力をかけた。これがきっかけとなり、1986年の野党・民進党の結党や、1987年の戒厳令解除につながっていった。

 ◆米台関係法

 http://www.taiwandocuments.org/tra01.htm


中国を支配した華麗なる一族 宋姉妹

金を愛した長女、宋藹齢。
国を愛した次女、宋慶齢。
権力を愛した三女、宋美齢

 

長女は孔祥熙=当時の中国一の金持ち。孔子の末裔。

次女は孫文=言わずと知れた中国の国父。(台湾の国父でもある。)

 三女は蒋介石=国民党総裁、第二次大戦時の中国ナンバーワン。

 戦前戦中の中国はこの3姉妹に代表される宋家一族によって牛耳られていた。
宋王朝とも呼ばれている。

 特に美齢は蒋介石の妻=ファーストレディとして得意の英語を駆使し
アメリカの援蒋抗日政策にも大きく寄与した。

当時中国への援助を訴えるためアメリカにわたった美齢は現地で大フィーバーを巻き起こし
アメリカ世論を中国援助に向かわせた。

その時にはタイム誌の表紙も飾った。

 いずれにしてもアメリカの援助を引き出し戦争に勝った。
その後国民党は腐敗が酷すぎて共産党に負けるけど。

その後次女慶齢の時代へ。
慶齢は共産党員ではないにも関わらず国家副主席になる。
ただ慶齢は権力にまったく興味がなく尊敬できる事績を残している。

この姉妹は戦後もハワイで毎年一緒に過ごしていた。

 中華民国と中華人民共和国と全く体制が違い敵味方にあっても、裏では全く普通の姉妹関係が続いていたのである。まあ当然と言えば当然のことだが、立前と面子の国でも個人では一族が最優先される民族である。

 

 台湾で一番高いビル101付近

中国の富裕層や華僑が台湾にどんどん移住してきているが、それは何を意味しているのだろうか。

 生活者レベルでの場合、台湾は日本よりもITのインフラは整っている。

 台北であれば街中どこにいても、無料wi-fiが飛んでいる。

 facebookやスマートフォンの普及率も高い。

次の2件のURLは、このブログでは不正ワードとして掲載できない。 

①台北駐日經濟文化代表處 

②中央廣播電台(Radio Taiwan)日本語 

《本文に不正な書式が含まれています: .(o・r・g).(t・w)》だそうである。その文字は不正なのだそうだ。しかし、上記に記した◆米台関係法のURLは問題なく入る。明らかに台湾の公式URLをマークしていることがこれで分かる。そこまで支那になぜ気を使う。それとも、支那の工作員が検閲しているというのであろうか。

各種メディア

http://jp.newsconc.com/world/asia/taiwan.html


【震災より1年】 話題の「感謝台湾」CMに寄せられた台湾人のコメントが涙が出るほど温かい

 2012年3月12日

http://rocketnews24.com/2012/03/12/191921/