1938年の日本統治時代の朝鮮で設立されたサムスン電子の親会社であるサムスングループは、食品と衣服が主力事業であった。
1969年1月にサムスン電子工業株式会社が設立され、12月には三星三洋電機が設立、 電子産業に進出した。これは、当時急速に拡大していた韓国国内の需要市場をターゲットにした決定であった。
1970年1月には三星NECが設立され、白物家電やAV機器の生産が行われた。1977年には韓国半導体を買収して半導体事業に参入し、1980年3月に韓国電子通信を買収した。1980年頃からは海外に次々と現地販売法人が設立され、ポルトガルやアメリカには工場が設立された。
1986年、東芝半導体事業本部長の川西剛(後の代表取締役副社長)は、東芝の国際担当専務の仲介でサムスン電子からの訪韓の誘いを受け、李秉会長や幹部総出のVIP歓迎を受けた。同業他社の歓待を受けるということの意味を理解していたか否かは定かではないが、川西はサムスンの建設途中の半導体工場を見せられた見返りに、最新鋭の東芝の大分工場を見せなければいけない結果となった。
1986年、その前年に当時世界最大容量の1M(メガバイト)DRAMを開発していた東芝の半導体部長がサムスンを訪問し、その後サムスン側が東芝の当時最新鋭の工場であった大分工場を訪問した。
すると同1986年にサムスン電子も1MDRAMの開発に成功し、その後、東芝の大分工場の生産ラインを統括する製造部長がサムスンにスカウトされ、大分工場と同じ設備を持つ製造工場がサムスンに建設されることになった。
また、サムスンは1987年5月にアメリカと日本に研究所を設立し、1988年に半導体事業の売上高が905百万ドルに達し半導体メーカー売上高ランキングでは18位に躍り出た。
1988年には半導体企業トップ10社のうち6社が日本企業だったが、1991年のバブル崩壊の直撃を受けて日本の半導体企業は資金繰りが悪化、メモリー事業撤退や工場閉鎖など大掛かりなリストラが行われた。ここで韓国政府のバックアップもあり、サムスン電子はリストラされた日本の半導体企業の技術者たちを技術顧問として高給でヘッドハンティングすることで最新技術を獲得していった。
バブル崩壊後、サムスン電子には東芝のほかにも、松下電器(現パナソニック)、三洋電機、シャープ、NECなどの77人の日本人が技術顧問で在籍しており、サムスン電子の外国人技術者の殆どは日本人だった。
こうした中、東芝は1992年にサムスン電子との間でフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約を締結した。翌1993年に、サムスン電子は韓国初の6Mフラッシュメモリを開発、1995年には、バブル崩壊の余波で資金難に陥った東芝はやむなくサムスン電子と64Mフラッシュメモリ技術の共同開発で提携をした。
日本から技術者を獲得をすることによって驚異的な早さでサムスン電子のDRAM技術が発展し、1991年に半導体メーカー売上高ランキングでサムスン電子は売上高が1473百万ドルで12位だったが、1995年には売上高が8329百万ドルで6位と急上昇をした。
このようにしてサムスン電子は、半導体売上高ランキングで米国のインテルに次ぐ2位の地位を2002年から2012年まで維持するようになっている。
1990年代までの韓国国内におけるサムスン電子の位置づけは、主要企業の中の一社に過ぎなったが、上述の半導体事業での躍進などもあって2000年代以降は韓国国内の事業規模や韓国経済に与える影響面などは圧倒的な物を持つようになり、また、世界の電機メーカーの中でも有数の大企業に成長した。
特に1997年のアジア通貨危機は、国家経済の危機とは裏腹にサムスン電子を強力な企業に成長させるきっかけとなった。
通貨危機で韓国の大企業30社のうち16社が破綻し、サムスン電子も韓国政府から公的資金が注入される事態となり、倒産寸前にまで追い込まれたが、破綻を避けるために広範な構造改革の断行や効率的な経営計画の実行などにより、サムスン電子は半官半民の韓国の将来をかけた企業として、グローバル企業への成長を加速させた。
インターネット・バブル崩壊後の2000~2003年にもサムスン電子は純益伸び率5%を記録した。
また、サムスン電子は、90年代から半導体で得た莫大な利益を、2000年代前半当時としては次世代産業であったLCD事業や携帯電話事業に大規模に投資を行い、様々な製品の世界市場でシェアを伸ばした。
またマーケティング活動とコマーシャル活動を大規模に行っている。例としては、1996年には「TOPスポンサー計画」を通じてオリンピックの公式パートナーになり、1998年には長野冬季五輪の公式スポンサーとなり、2000年代以降は継続してオリンピックのスポンサーを務めている。
2009年に、サムスン電子は売上高基準でドイツのシーメンスと米国のヒューレット・パッカードを超え、世界最大のIT・家電メーカーとなった。
2009年のサムスンのシェアは、薄型テレビと半導体メモリで世界第1位、携帯電話が世界第2位、白物家電でも上位を占めている。
また、同年には、2020年の目標として売上高4,000億ドル達成を目指すビジョン2020を掲げた。これを実現するために、既存のセット・部品中心の情報、通信、AV事業(Infotainment)に、ソフトウェアとソリューションを中心とした医療/バイオ、環境/エネルギー、利便性/癒しなど暮らしの質を向上させるライフケア(Lifecare)を新たな事業領域に盛り込み、「21世紀型のビジネス構造」への変身を図っている。
ソニーとサムスン電子は、合弁で液晶パネルを製造するS-LCDを韓国の忠清南道に設立していたが、2011年、ソニー側が、合弁会社の株式を全てをサムスンに売却する形で合弁を解消した。(ウィキペディア)
日本の企業の終身雇用は日本の産業の根幹を成し、高い技術力と人材を豊富に育成してきた。しかし近年、米国のグローバリズムが世界の最先端の企業形態というムードに乗り、欧米で教育を受けた高学歴がもてはやされるようになり、加えて小泉・竹中の「世界の潮流に乗り遅れるな」という政策にコロリと日本独自の経営形態を捨て去った。
しかし、その当時ですら、欧米の労働形態は富める者と貧者の格差がどんどん広がる、まさに、投資家とグローバル企業だけの時代と変化していた。
米国とグローバル企業の傀儡政権に、鉄壁の日本企業の城壁を、戦わずして開放してしまったのである。
企業の利益を高い技術力と高付加価値の製品で得ることよりも、一番安易な人件費を削ることで、あたかも経費削減が企業の価値を高めると錯覚させられたのである。
日本の企業は人材の豊富さが他国に例を見ない高い技術力と斬新なアイデアを生み出してきた。それ故に、苦しいときも歯を食いしばり、企業=人材と世界をリードしてきた。
操業調整と雇用調整で凌いできた、日本の貴重な財産を、小泉・竹中の派遣労働者の促進という甘言に乗り、欧米に影響を受けた経営者があっさりと変遷を遂げた。
企業の技術者までがリストラの対象になり、次々と競争相手企業に移って行ってしまった。若い人材に道を譲れという理由で、それまで企業を導いてきた技術者や有能なスタッフが抜けた企業が現在の家電業界の姿を物語っている。
日本は欧米に無い雇用形態が、日本の有能な人材を育成し、欧米に無い安定した技術力とアイデアで、世界をリードして来た。
それを放棄したことは、当然世界と同じ二流三流国に準じることは自明の理である。リストラは再度のリストラを生み、立ち直ることは無い。
人材の放出は即ち競争相手に利する行為である。
安易に競合企業に移った人材も、持てる技術やノウハウを披露したところでお役ご免となる。現在、サムスンやLG、韓国企業にハンティングされた人材が次々に解雇されている。
小泉・竹中の役割は立派に果たされた。
竹中平蔵は、自分で成立させた人材派遣業育成政策で急成長させたパソナグループの会長に納まり、今をときめく政治集団「日本維新の会」の次期衆院選の公募委員会委員長となっている。
TPP参加の強い意志を持つ者だけが候補者に選定されるという。
道半ばのTPP参加とそれに伴う郵貯や簡保の350兆円を米国投資に向けること。それが彼に課された役目である。
産み続ける金の卵を待っていられなくなり、殺してその卵を一度に得ようと言うのである。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。」とはよく言ったものである。時代が変わり世の中が変化して、今まで経験してきたことが全く役に立たなくなっていることに気づかない経営者は、容易に彼らの甘言になびく。
ソニー、シャープ、パナソニックの経営者を見れば、その意味を如実に物語っている。今は新しいアイデアもなく、高度な部品と資材で維持できても、その次に来るべき開発は無い。めまぐるしく移る流れに若手の成長を待つだけの余裕なども既にない。貴重な人材はリストラで企業から去った後だ。
日本は日本独自の知恵と努力で「日本」と成り得たのである。
頭脳と技術が使い捨てでは、企業も国も育たない。
欧米諸国の現在の姿を見れば、グローバリズムのたどり着く本当の姿が見えて来よう。国家は破綻するが、ごく一部の国に縛られない「国を超越した」グローバル企業とその投資家だけが潤う姿だ。それがTPPの行き着く先である。