仕事で函館に行った。海栗(うに)とジャガイモのおいしい季節であり、4年振りの函館であった。再度、五稜郭にいくことが出来た。
五稜郭といえば云わずと知れた戊辰戦争の最後の戦いの場となったところであり、新選組の土方歳三の終焉の地でもあった。
案内の後、五稜郭に隣接する五稜郭タワーから眺めてふと気がついたことがある。それは以前このブログでも紹介した樟葉台場跡(砲台跡)の絵図面(京都府立総合資料館 蔵)の城郭形状がこの五稜郭の城郭と酷似していることである。
帰阪後、改めて枚方中央図書館に出向きいろんな資料を閲覧させて頂いた。お借りした本、枚方市教育委員会発行の「樟葉台場跡」の本編資料の中から、樟葉台場跡(砲台跡)の絵図面を今回お示しすることが出来た。この絵図面は前回のアップ後にいろんなところで尋ね、掲載されていた資料を偶然にみつけ、確認しておいたものである。
さて、樟葉台場は指揮監督に京都府守護職 松平容保、総裁に勝麒太郎(のちの勝海舟)、蘭学者 広瀬元恭等によって1864年9月に着工し、1865年夏に竣工している。
本格使用は1868年(慶応4年)1月3日の鳥羽伏見の戦いであり、その際に旧幕府軍の陣地として使用されたものであるが、新政府軍に追われた幕府軍はこれを放棄し、同月8日に大坂から闇夜にまぎれ軍艦「開陽丸」で江戸方面に脱出した。これが後に戊辰戦争の終結となる、函館五稜郭での函館戦争へとつながっていく。
今回尋ねた函館の五稜郭のほうも日米和親条約締結により箱館開港を余儀なくされ、これによって結果的に北海道の防衛力の強化等の為、幕府の徳川家定の命により築造されたものである。
設計を担当したのは樟葉台場とは異なり、洋式軍学者の武田斐三郎であった。まっ、いずれにせよ、どちらも幕府の設計、施行であり、大砲による戦闘が一般化した後のヨーロッパにおける稜堡式(判りやすく云えば星型の城郭)の築城様式となっている。設計施工が同じ幕府となれば双方が似ているのも当然のことといえば当然のことかも知れない。
樟葉台場と五稜郭はこのように生まれた時期、理由、施工者、利用者とも点と線でそれぞれつながっていたことになる。
しかし、函館五稜郭は特別史跡となっており、一方、樟葉台場跡は先人が残してくれた「戊辰役橋本砲台跡」の石柱のみが誰を迎えるでもなくひっそりと佇んでいるだけである。
追記
京阪電車 くずは駅から京都出町柳行きに乗ると、すぐに進行方向右手にこのくずは台場跡がある田園が広がっています。宅地開発は今のところ偶然というか昔のままで進んでいません。ただ、真ん中に大きなお寺と田園が広がっているのみです。
早く史跡として将来に残して欲しいと思うのは私だけではないでしょう。
「紅葉の 朝日きらめかせ キャノン砲」(柳子)
「夜明け前 轟音轟きて キャノン砲」(柳子)
※トップの動画は函館五稜郭、下の画像は「樟葉台場の絵図面」と函館の夜景、五稜郭内に据置かれていたキャノン砲である。