八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
のんびり更新です。最新情報はSNSをご覧ください。

伊那佐山レポート 其の弐

2007年04月22日 | 伊那佐山
まずひとつ、ご報告。
前々回の内容で
「道標の立てられた年代」の件
がありましたが、
実は今日また上って見てきました。
結果、「慶應2年」。
「慶應」といったら江戸時代後期
といったところでしょうか。

さて、話のつづきですが
集落の道から、山の地道にはいると
まず急な上りになります。
道すがら、「十三丁」だの「十丁」だの
彫りのある小さな石碑があって
頂上までのカウントダウンをしてくれます。
それらには
ムラの人々に氏名もいっしょに刻まれていて
土地の方々の施行の心が偲ばれます。
道の辻には
おおむね石の道標が安置されているのですが
それを見るにつけ
頂のお宮さんの
呼び名の変遷も垣間見られ
興味深いものがあります。

頂のお宮さんの名称は
都賀那岐神社(ツガナキ ジンジャ)といいます。
延喜式にも記載されているという
いわゆる「式内社」のひとつで
たいへん由緒正しいお宮さんです。
しかし
山の頂上にあるという性質から
「嶽大明神」と呼ばれていた時代もあったようですね。

山の中の鳥居前の
辻の道標が、それを教えてくれました。

ここが参道の
ちょうど半分くらいのところです。
そら、もうひとがんばり。

伊那佐山レポート 其の壱

2007年04月20日 | 伊那佐山
八咫烏神社から
伊那佐山のお宮さんに
いたるまでの道すがら
栗谷春日神社と石田六柱神社が
鎮座されていますので
順番にご挨拶してまわりました。

どちらも土地の人々が大事にされている
ムラの氏神さんです。
不肖ながら
僕も年に数回のお祭りに
斎主としてご奉仕させていただいています。
でも、そのお話はまた別の機会に・・・。

さて、
道は集落のなかを通っているのですが
要所要所にある道標のおかげで
まず迷うことはありません。
道標は、
近年つくられたとおぼしき
あたらしいものが多いなか
ときどき写真のような
古くて味わい深いものがあるんです。
たぶん、
石の側面に年代とかが
彫られているんだろうけど
残念ながら、登山当日は
そこまで思いがいたりませんでした。

うーん、ぬかった。
今度来るときはメモ持参だな。

伊那佐山レポート 序

2007年04月18日 | 伊那佐山
海と山どっちがいい?
と聞かれたら
僕は、やっぱり山と答えます。
生まれ故郷の群馬も
今、縁あって住まいする奈良も
海なし県ですからねー。

桜井から宇陀に越してきて
うれしかったことのひとつに
端正な山のすがたを
毎朝拝めるということがありました。

考えてみたら
群馬の実家にいたころも
赤城山の長い裾野を
毎朝見ていたんだったなあ。

僕にとって
山のある風景は
ある種の原風景というか
心のよりどころというか
なくてはならないものだったんだなあ
と、思いの至るこの頃です。

さて、
話があちこちいきますが
今の住まいからの眺望の美しい、かの山
伊那佐山(イナサヤマ)の山頂のお宮さんで
先日、春の大祭がありました。

実はそれに先立つ1週間前に
下見の登山をしてきました。

そんなに高くない山ですが
なかなか、いい感じの山だったので
これから何回かにわけてレポートしてみます。

伊那佐山とお日さん

2007年03月24日 | 伊那佐山
神社から東を向くと伊那佐山が見えます。
僕はこれまで、
あの山のてっぺんから
朝日が出ないかなあ、と思い
朝の日供のときには
いつもなにげにチェックをしていました。
それで、ひそかに
「春分の日あたりは、どうだろう」と
一人そわそわしながらその日を迎えたのですが
残念。お日さんは山のてっぺんからは出てきませんでした。
ま、だからどうってことないんですけどね。

でも、その数日後
日供を終えて神社から自宅へ戻るときに
東の方を見上げると、鳥居のほぼ正面から
お日さんが出ていました。
おーっと。これはうれしい誤算。
もしかしたら、昔の人たちは、
その辺、ちゃんと計算して神社をつくったのかもしれません。

ちょっと考えすぎ?