八咫烏神社 ときどき社務の備忘録

旧大和國宇陀郡伊那佐村鎮座・八咫烏神社から発信。
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こころの風景

2008年02月29日 | 雑感
昨日も今日も、
これまでの寒さから一転。小春日和でした。
こういう気候になると決まって
ある風景が目に浮かんできます。
それは浪人時代の風景です。

その頃は受ける大学を次から次に落ち、
絶望の真っ只中にありました。
ところがある日。
浪人生活で初めて、分厚い封筒が送られて来ました。
大阪にある某芸術系大学からでした。
高校時代、オチコボレだった僕は
卒業と同時に全寮制の予備校に通っていました。
寮は当時、千葉県市川市にあり、
実家から比べたら、だいぶ都会だったのですが
その日はとてもよく晴れた小春日和で、
そよぐ風に春のにおいを深く吸いました。

寮のある場所は、
どちらかというと季節感の薄い環境で、
強く「春」を感じたことに大きな感動を覚えました。

ましてや、浪人時代というある種の荒んだ精神状態のなか、
時には寮のある街そのものさえ疎ましく思うことがあったのに
この日に至って、そんなふうに思えたことがなんだか不思議で
それ故に、しみじみ感じ入ったものです。
もしかしたら
あの時ようやく僕の人生が始まったのかもしれない、
と今になって思うばかりです。

まったく今日や昨日みたいな日は
一気にあの浪人時代がフラッシュバックして、
あの頃の空気や想いや、とにかく全てが思い出され、
どうしようもなくなってしまいます。

考えてみると、
人生のなかにはそういう心象風景というものが、
たくさんありますよね。
今、ここにいても、すぐに蘇らせることの出来る風景。あるいは人、想い…。

僕は仮に、それを「永遠」と呼ぶことにしました。

都祁水分神社

2008年02月26日 | つれづれ
普段は会社員の僕ですが
営業の車のなかでは
ときどき神社のことを考えています。
ふと目に映ったお宮さんに
ふらりとお参りしてしまうことも、たまにあります。

先日は配達の最中に
ちょうどお昼時だったのをいいことに
(若干計画的にですが…)
ずっと気になっていた神社をお参りしてきました。
都祁水分神社です。
地図上からの判断で「きっと小規模のお宮さんに違いない」と
タカをくくっていたのですが
どうしてどうして、
とても立派なお宮さんでした。
神楽殿や回廊もあり、重厚な本殿がどっしりと鎮座していました。

お参りに行きしなは、ひとりだったのですが
お参り終わって帰りしなには年配のご夫婦がいらっしゃっていました。
その方々も立派な境内に感心して
「これは立派なお宮さんやなあ」と、ひとこと。

なぜか妙に嬉しくなりました。

遅ればせながら、節分について。

2008年02月11日 | つれづれ
たいへん遅ればせながら
今年の節分について、ちょっと書きます。
それぞれお住まいの地域で
それぞれの節分の風習があるようですね。

我がお宮では節分の日、
ご神前に煎り豆を大皿にお供えしています。
ムラの氏子さんたちは、
それぞれに半紙に包んだ煎り豆を持参して奉納し
今度はご神前の煎り豆をひと掴み持って帰られ
家族で数え年の分だけお召し上がりになるのだとか。

ムラの習慣で「なぜ、そうするのか」ということについて
明確に答えられるものは必ずしも多くありません。
でも、おそらく
節分といえば「季節の分かれ目」であり
また、旧正月にもあたりますので
年頭に当たり、厄払いと家族の健康を祈念するものだったのでしょう。
お祖父さんのお祖父さんの、そぼまたお祖父さんの代から
受け継がれてきたものがある、ということは
何ものにも代えがたい大切なものだと
ひしひしと感じる今日この頃です。

そういえばこ、このムラで
「鬼は外、福は内」の掛け声をするのかどうか
については聞きそびれてしまいました。

ところで
何故か我が家では、「鬼は外、福は内」は
今までやったことがない
とヨメさんとお義母さんはいいますが
よそから嫁いできたお義母さんは
実は節分の夜、一人でこっそりやっていたのだとか。

それを聞いたヨメさん、俄然やる気を出して
「やりたいやりたい」というので
僕がお手本に我が地元・上州風にデカい声でやりだしたら
「なんか、はずかしい」とすぐに家にすっこんでしまいました。
「何をゆうとんねん。節分と言えばこうじゃい。
 恥ずかしがって、鬼が去(い)ぬかい。福が来るかい」
…と、奈良弁で鼻息荒くまくしたてる僕は
いったいどこ出身の人なんだろう、と思ってしまいましたとさ。


未明のお参り

2008年02月09日 | つれづれ
以前から
まだ夜も明けやらぬ早朝に
散歩がてらにお参りする方がいらっしゃると
お義母さんから聞いていたのですが
ついにその痕跡発見!
その人の足跡は迷うことなく一直線に延びていました。
が、境内入り口前で止立。
姿を見たわけではありませんが
ふかぶかと一礼されたことが想像されます。

ああ、そうか。
何も賽銭箱の前でシャンシャン鳴らして
柏手を打つばかりが「お参り」じゃなかった。

大事なのは、そこに「気持ち」が入っているかどうか、
ですよね。