僕の生まれ故郷、上州の自宅の敷地の片隅に
「ウジガミさま」と呼んでいる小さな祠がある。
今までその存在は、ほとんど印象になく
おまつりする機会も正月と節分くらいだったと記憶している。
去年の夏だったか、帰省の際に
ふと「ウジガミさま」のことを思い出して
家の西北にある祠を見に行ってみた。
家の敷地内に祠をまつるということは
方位除けの意味合いが強いのだろう。
ということは
一般に凶方といえば鬼門という言葉が思い当たる。
そして鬼門といえば一般に方角として「東北」を指すはず。
でも、この祠は敷地の西北に位置する。
…これって一体どうなんだろう
と想像力を豊かにしていたら…。
おどろいた!
祠のとなりに「猿田彦大神」と刻まれた
小さい石碑も置いてあった。
今まで全然、気がつかなかった!
この「鬼門」と「祠」と「猿田彦」の関係が
今の今までずっと気になっていたのだが
最近になって、ようやくネットで調べてみる気になった。
家の敷地内に建てられた祠は、その家の守り神。
これについては疑いの余地はないのだが
この祠がいつ建てられたのかまでは、わからない。
この土地に家を建てのは
確か曾祖父だったと祖母に聞いたような気がする。
たぶんその頃からこの祠はあったのだろう。
では「家の敷地の西北になぜ祠」という問題については
ネット検索していたら、あっさりと見つかってしまった。
なんて便利な世の中!
以下、ネットより引用します。
---------------------------------------------------------------
支那では昔から鬼門と言って恐れていた方角は
丑寅(うしとら)の方すなわち東北であるが、
日本では戌亥(いぬい)の隅すなわち西北が怖ろしい方角であった。
支那の学問をした人は、今でも家を建築する時に、
鬼門に雪隠(せっちん)を拵えてはいかぬなどと、
東北ばかりをやかましく言うが、日本が昔から警戒していた方角
というものは、現在も同じことに西北である。
西北からはどうも昔から日本では恐ろしい風が吹いて来る。
東南風にも作物を害したりする風がるけれども、
西北風がいっそう怖ろしい。
その風の呼び方は西半分でアナジ東半分でタマカゼと言って、
両方とも十分警戒する意味を有(も)って古人が知っていた
らしく思われる。これは船乗りの側から見れば、
自分の航海の便利のために使われ覚えられた言葉ではなくして、
危険を警戒するために使っていた言葉である。
出典(ちくま文庫版『柳田國男全集2』、筑摩書房)
-------------------------------------------------------------
つまり
一般的にいわれている鬼門とは中国由来のものなのだが
それよりもずっと以前から
我が国で古来より伝えられし「鬼門」が西北だった、というわけ。
民俗学の権威・柳田國男の名前が出てくると
なんだか妙に説得力あるなあ。
しかし、なるほど勉強になった。
…ていうか、なんか偉そうにつらつらと書いてきたけれど
これってひょっとして「日本の常識」なんだろうか?
だとしたら失礼いたしました。これから精進します。
この件、もうちょっと掘り下げたい感はあるのだけれど
いったんここで打ち止め。
実はここからが僕の「こじつけ空想論」の始まりなのです。
「思い入れ」と「空想」コミの話となりますので、
どうぞ話半分でお読みください。
(思いがけず長文となりましたので、ぼちぼち読んでください)
まず猿田彦という神さまがどういった神格であるか、
という部分からですが…。
記紀神話でいうと、天照大御神の委任を受け日本を統治せんと、
いわゆる天孫降臨をする天津神(天神)ニニギ命の道先案内をしたのが
国津神(地祇)が猿田彦。
猿田彦をお祭りする神社は全国津々浦々にありますが有名なのは、やはり伊勢の内宮の近くに鎮座する猿田彦神社でしょう。
さて、
日本の神々は長い歴史の中でいろいろな性質を付加されてきました。
猿田彦においても例外ではありません。
そのなかでも本地垂迹説という考え方があります。
これは仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、
日本の八百万の神々は、
実は様々な仏(天部なども含む)が化身として日本の地に現れた
権現(ごんげん)である、とする考えです。
「権」とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味。
仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示すものです。
そして「垂迹」とは神仏が現れることを意味します。
ちなみに鎌倉時代になると、
逆に仏が神の権化であると考える神本仏迹説も現れたといいます。
(ややこしい!)
<参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>
これによると、例えば
天照大神 = 大日如来、観音菩薩
市杵島姫 = 弁才天
大国主 = 大黒天
…という図式が次々と生まれていったというわけです。
猿田彦という神格は本地垂迹説においては、
どうも「青面金剛」に比定されているらしいのです。
「らしい」と歯切れの悪い表現をしたのは、
資料不足で確認ができていないからなのですが、
いろいろ調べていたところ民俗的な信仰形態である
「庚申講」のご本尊が、仏教においては「青面金剛」。
神道においては「猿田彦」という結果を得ることができました。
「これだ」と言い切るには多少の問題もありましょうが、
だいたいこの考え方でいいのかなあという気がしています。
こうなってくると「庚申講」についても、説明が必要みたいですね。
『庚申の日には庚申講(庚申待、宵庚申とも)が行われた。
これは、道教の伝説に基づくものである。
人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)
がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。
三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って
天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められる
と言われていた。
そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、
この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、
その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。
これを庚申講という。
庚申講を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、
今も各地に残っている。
日本には古くから伝わっていたものと考えられており、
「枕草子」にも庚申講の話が登場する。
江戸時代に入ってから、民間にも広まった。
庚申信仰は今では廃れたが、親睦会などに名前を変えて
今でも庚申講を行っている地方もある。』
<参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>
僕の故郷は「庚申講」の風習は廃れて久しいような気がします。
少なくとも、僕が子供のころ「庚申講」の行事について
聞いたり教えられたりした記憶が全然ないのです。
むしろ「庚申講」というものを知ったのは社会人になって、
奈良にやって来てからでした。
ちなみに奈良の家では、今も親睦会的な内容ながらも残っています。
「庚申講」が行われる場所(庚申塚)には、
だいたい自然石や四角い石で碑文が建てられており、
それらが我が家の「猿田彦大神」の石碑の規模に近いものであったのが
実はどうもひっかかっていました。
ところで、僕の実家の近くにはお寺があります。
僕が生まれる前から
家族ぐるみで懇意にさせていただいているお寺さんです。
その境内参道に庚申塚が、実は残されていました。
本当は昔からその存在自体は知っていたのですが、
今までその意味について考えたことがなかったというわけです。うーん、再発見。
ところで、「庚申講」の本尊の「青面金剛」とは何か?
がわからなかったので調べてみると、
密教における明王像に関係があるらしいということがわかりました。
あれっ?と思いました。
昔から知っているこのお寺は
真言宗豊山派で総本山が奈良県桜井市にある密教系寺院のひとつです。
そのお寺のご本尊が、実は不動明王なのです。
思わず、うわあ!と声をあげてしまいました。
いろいろなことが少しずつリンクしていることがイメージされ、
深遠なる御縁をしみじみ感じて、しばしの間、はあーと感慨のため息。
僕の実家の祠について、あれこれ詮索するうちに
思いもよらぬ着地点を見出してしまいました。
(もちろん、それは僕の思い入れのカタマリなのですが)
僕は霊感のたぐいを、まるで持ち合わせていません。
しかし、奈良へやってきてから
「御縁」というものを強く意識するようになりました。
人の御縁、ものの御縁、その他もろもろの御縁が、
目には見えないけれども、今、ここにたくさんあって
もしかしたら時間さえも越えて
「つながり」を形づくっているのではなかろうか、と。
蛇足かもしれませんが、
昨年末から伊勢の猿田彦神社の社家のご出身で、
最近まである有名神社の権宮司をしていらっしゃった方と
(まだ、お会いしたことはありませんが…)
お知り合いさせていただく機会を得たことも書き加えたいと思います。
これもきっと御縁なんでしょうね。
「ウジガミさま」と呼んでいる小さな祠がある。
今までその存在は、ほとんど印象になく
おまつりする機会も正月と節分くらいだったと記憶している。
去年の夏だったか、帰省の際に
ふと「ウジガミさま」のことを思い出して
家の西北にある祠を見に行ってみた。
家の敷地内に祠をまつるということは
方位除けの意味合いが強いのだろう。
ということは
一般に凶方といえば鬼門という言葉が思い当たる。
そして鬼門といえば一般に方角として「東北」を指すはず。
でも、この祠は敷地の西北に位置する。
…これって一体どうなんだろう
と想像力を豊かにしていたら…。
おどろいた!
祠のとなりに「猿田彦大神」と刻まれた
小さい石碑も置いてあった。
今まで全然、気がつかなかった!
この「鬼門」と「祠」と「猿田彦」の関係が
今の今までずっと気になっていたのだが
最近になって、ようやくネットで調べてみる気になった。
家の敷地内に建てられた祠は、その家の守り神。
これについては疑いの余地はないのだが
この祠がいつ建てられたのかまでは、わからない。
この土地に家を建てのは
確か曾祖父だったと祖母に聞いたような気がする。
たぶんその頃からこの祠はあったのだろう。
では「家の敷地の西北になぜ祠」という問題については
ネット検索していたら、あっさりと見つかってしまった。
なんて便利な世の中!
以下、ネットより引用します。
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支那では昔から鬼門と言って恐れていた方角は
丑寅(うしとら)の方すなわち東北であるが、
日本では戌亥(いぬい)の隅すなわち西北が怖ろしい方角であった。
支那の学問をした人は、今でも家を建築する時に、
鬼門に雪隠(せっちん)を拵えてはいかぬなどと、
東北ばかりをやかましく言うが、日本が昔から警戒していた方角
というものは、現在も同じことに西北である。
西北からはどうも昔から日本では恐ろしい風が吹いて来る。
東南風にも作物を害したりする風がるけれども、
西北風がいっそう怖ろしい。
その風の呼び方は西半分でアナジ東半分でタマカゼと言って、
両方とも十分警戒する意味を有(も)って古人が知っていた
らしく思われる。これは船乗りの側から見れば、
自分の航海の便利のために使われ覚えられた言葉ではなくして、
危険を警戒するために使っていた言葉である。
出典(ちくま文庫版『柳田國男全集2』、筑摩書房)
-------------------------------------------------------------
つまり
一般的にいわれている鬼門とは中国由来のものなのだが
それよりもずっと以前から
我が国で古来より伝えられし「鬼門」が西北だった、というわけ。
民俗学の権威・柳田國男の名前が出てくると
なんだか妙に説得力あるなあ。
しかし、なるほど勉強になった。
…ていうか、なんか偉そうにつらつらと書いてきたけれど
これってひょっとして「日本の常識」なんだろうか?
だとしたら失礼いたしました。これから精進します。
この件、もうちょっと掘り下げたい感はあるのだけれど
いったんここで打ち止め。
実はここからが僕の「こじつけ空想論」の始まりなのです。
「思い入れ」と「空想」コミの話となりますので、
どうぞ話半分でお読みください。
(思いがけず長文となりましたので、ぼちぼち読んでください)
まず猿田彦という神さまがどういった神格であるか、
という部分からですが…。
記紀神話でいうと、天照大御神の委任を受け日本を統治せんと、
いわゆる天孫降臨をする天津神(天神)ニニギ命の道先案内をしたのが
国津神(地祇)が猿田彦。
猿田彦をお祭りする神社は全国津々浦々にありますが有名なのは、やはり伊勢の内宮の近くに鎮座する猿田彦神社でしょう。
さて、
日本の神々は長い歴史の中でいろいろな性質を付加されてきました。
猿田彦においても例外ではありません。
そのなかでも本地垂迹説という考え方があります。
これは仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、
日本の八百万の神々は、
実は様々な仏(天部なども含む)が化身として日本の地に現れた
権現(ごんげん)である、とする考えです。
「権」とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味。
仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示すものです。
そして「垂迹」とは神仏が現れることを意味します。
ちなみに鎌倉時代になると、
逆に仏が神の権化であると考える神本仏迹説も現れたといいます。
(ややこしい!)
<参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>
これによると、例えば
天照大神 = 大日如来、観音菩薩
市杵島姫 = 弁才天
大国主 = 大黒天
…という図式が次々と生まれていったというわけです。
猿田彦という神格は本地垂迹説においては、
どうも「青面金剛」に比定されているらしいのです。
「らしい」と歯切れの悪い表現をしたのは、
資料不足で確認ができていないからなのですが、
いろいろ調べていたところ民俗的な信仰形態である
「庚申講」のご本尊が、仏教においては「青面金剛」。
神道においては「猿田彦」という結果を得ることができました。
「これだ」と言い切るには多少の問題もありましょうが、
だいたいこの考え方でいいのかなあという気がしています。
こうなってくると「庚申講」についても、説明が必要みたいですね。
『庚申の日には庚申講(庚申待、宵庚申とも)が行われた。
これは、道教の伝説に基づくものである。
人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)
がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。
三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って
天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められる
と言われていた。
そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、
この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、
その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。
これを庚申講という。
庚申講を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、
今も各地に残っている。
日本には古くから伝わっていたものと考えられており、
「枕草子」にも庚申講の話が登場する。
江戸時代に入ってから、民間にも広まった。
庚申信仰は今では廃れたが、親睦会などに名前を変えて
今でも庚申講を行っている地方もある。』
<参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>
僕の故郷は「庚申講」の風習は廃れて久しいような気がします。
少なくとも、僕が子供のころ「庚申講」の行事について
聞いたり教えられたりした記憶が全然ないのです。
むしろ「庚申講」というものを知ったのは社会人になって、
奈良にやって来てからでした。
ちなみに奈良の家では、今も親睦会的な内容ながらも残っています。
「庚申講」が行われる場所(庚申塚)には、
だいたい自然石や四角い石で碑文が建てられており、
それらが我が家の「猿田彦大神」の石碑の規模に近いものであったのが
実はどうもひっかかっていました。
ところで、僕の実家の近くにはお寺があります。
僕が生まれる前から
家族ぐるみで懇意にさせていただいているお寺さんです。
その境内参道に庚申塚が、実は残されていました。
本当は昔からその存在自体は知っていたのですが、
今までその意味について考えたことがなかったというわけです。うーん、再発見。
ところで、「庚申講」の本尊の「青面金剛」とは何か?
がわからなかったので調べてみると、
密教における明王像に関係があるらしいということがわかりました。
あれっ?と思いました。
昔から知っているこのお寺は
真言宗豊山派で総本山が奈良県桜井市にある密教系寺院のひとつです。
そのお寺のご本尊が、実は不動明王なのです。
思わず、うわあ!と声をあげてしまいました。
いろいろなことが少しずつリンクしていることがイメージされ、
深遠なる御縁をしみじみ感じて、しばしの間、はあーと感慨のため息。
僕の実家の祠について、あれこれ詮索するうちに
思いもよらぬ着地点を見出してしまいました。
(もちろん、それは僕の思い入れのカタマリなのですが)
僕は霊感のたぐいを、まるで持ち合わせていません。
しかし、奈良へやってきてから
「御縁」というものを強く意識するようになりました。
人の御縁、ものの御縁、その他もろもろの御縁が、
目には見えないけれども、今、ここにたくさんあって
もしかしたら時間さえも越えて
「つながり」を形づくっているのではなかろうか、と。
蛇足かもしれませんが、
昨年末から伊勢の猿田彦神社の社家のご出身で、
最近まである有名神社の権宮司をしていらっしゃった方と
(まだ、お会いしたことはありませんが…)
お知り合いさせていただく機会を得たことも書き加えたいと思います。
これもきっと御縁なんでしょうね。