寒い朝を迎えています。
なかなか仕舞えなかったフリースを着てて
ちょうどいいぬくぬくさ。
出してて良かった。今日は外歩きもこれだね。
このごろ、歳をとっていく自分が惨めな気がして
ほんと、そこは嫌だなって思うことが多かった。
けど、そんなのみんなそうじゃないですか、でも、
そう思えなかった自分がいまして、、、、
今の子育て中のママさんたちや40代位の婦人会を
みてても、私はちょっと年限的にも長めだったので
早く歳をとるわけで、、、、、なんだかなぁ
私よりも年限長くって、同じくらいの歳の人は
道専務だったり教会の奥様だったり、、とにかく肩書きがある。
(肩書きがほしいわけじゃない、、、)
しっかり親一条でお道を通って、おたすけの相手も作って、
ようぼくにして。
その方々よりもちょっとだけ頑張って来たことと言えば
主人が反対してて通りにくい中だけど、お道を切ることなく
続けてきたこと、、、、、くらいでしょうか。
もし、お道がなかったらという想定の光景が想像できません。
この間、長女が言っていたんだけど、、
もし、天理教をやっていなくっても、自分の人生はあると思うから
それはそれで、自分の人生として受け入れて生きていける、と。
一理あるけど、、私も考えたことはあるけど、
人間的にもっともっと未熟で喜べないと思ってばかりの
人生、、、日常を生きているだろう。身上にもなってて
因縁通り、何も知らないで通っているだろうか。
けど、もっと思うんだけど、神様がお声をかけて下さって
細々だけど信仰を続けていられるのって、選ばれているってことだから、
「もしお道がなかったら」なんてこと、考えてもしょうがないのかもね。
正確なことは分からない。想像でしかないけど、、、けど
やっぱり大体の想像はできてくるものですね。(どっち?)
お道を聞くまで、きっと何度でも神様は誰かを使って
身上にもして、お声をかけて下さるんだろうなって思います。
平等に自分の言う事を聞いてくれって
親神様は言って下さっても、聞くようになるのは、、、、、
一部の方々なんでしょう。
話がそれたけど、歳をとって、あちらこちらガタがきても
痛みが伴うようになっても自分なんだなって
今日になって思えるようになった。