武蔵と小次郎伝説の嘘・ホント
武蔵と小次郎伝説の嘘・ホント
山口敏太郎
国民的な人気小説「宮本武蔵」は、吉川英治の代表作だが、吉川は執筆中に滞在した場所を舞台にして、小説を書くのが好きだったらしい。宮本武蔵の新聞連載中、千葉県の行徳を訪問した吉川英治は、江戸期に行徳のうどん屋が人気があったと聞くと、作中で武蔵にうどんを食わせ、行徳の徳願寺の檀家が船橋市で開墾した場所があると聞くと、その場所で野伏りと武蔵を戦わせた。つまり、吉川英治の取材先の各地に「小説・宮本武蔵」の舞台があったのだ。
最近、墓石に十字(クロス)らしきマークが確認され、「実は、隠れキリシタンではなかったのか!」という珍説すら出ている佐々木小次郎だが、この小次郎の必殺技・ツバメ返しの開発は、小次郎の故郷に程近い山口県岩国市にて行われたと言われている。具体的な特訓の場所としては、岩国の名物・錦帯橋のたもとで行われたと記述されているのだ。
だが残念なことに、戦国時代から江戸初期にかけて、錦帯橋はかかっていなかった。橋そのものがなかったのだ。実は、吉川英治の定宿「深川楼」から程近いところにあった錦帯橋に感銘した吉川英治が、創り上げたイマジネーションの産物であったのだ。因みに、現実の小次郎の出身地は、豊前か越前が有力であり、岩国出身説は弱い。つまり、橋がかかっている、かかっていない以前の問題である。
また、巌流島の戦いも、「実は武蔵が卑怯な手段で勝った」という説が強い。当時、試合を検分したであろう門司城代・沼田延元の子孫が、寛文12年(1672年)に編集した『沼田家記』によると、巌流島での対決は、実際には武蔵が大勢の弟子を率いて集団で小次郎を打ち破っているというのだ。これは、複数による個人の殺害であり、武芸の試合ではない。しかも、当時の小次郎は老人であり、中年の武蔵が集団で老人を殺害したというのが真相らしい。
現在、岩国の錦帯橋を挟み、宮本武蔵と佐々木小次郎がアイスクリームで対決している。「佐々木小次郎」というアイスクリーム屋と「武蔵」というアイスクリーム屋がしのぎを削っているのだ。ある意味、平和な時代である。
山口敏太郎
国民的な人気小説「宮本武蔵」は、吉川英治の代表作だが、吉川は執筆中に滞在した場所を舞台にして、小説を書くのが好きだったらしい。宮本武蔵の新聞連載中、千葉県の行徳を訪問した吉川英治は、江戸期に行徳のうどん屋が人気があったと聞くと、作中で武蔵にうどんを食わせ、行徳の徳願寺の檀家が船橋市で開墾した場所があると聞くと、その場所で野伏りと武蔵を戦わせた。つまり、吉川英治の取材先の各地に「小説・宮本武蔵」の舞台があったのだ。
最近、墓石に十字(クロス)らしきマークが確認され、「実は、隠れキリシタンではなかったのか!」という珍説すら出ている佐々木小次郎だが、この小次郎の必殺技・ツバメ返しの開発は、小次郎の故郷に程近い山口県岩国市にて行われたと言われている。具体的な特訓の場所としては、岩国の名物・錦帯橋のたもとで行われたと記述されているのだ。
だが残念なことに、戦国時代から江戸初期にかけて、錦帯橋はかかっていなかった。橋そのものがなかったのだ。実は、吉川英治の定宿「深川楼」から程近いところにあった錦帯橋に感銘した吉川英治が、創り上げたイマジネーションの産物であったのだ。因みに、現実の小次郎の出身地は、豊前か越前が有力であり、岩国出身説は弱い。つまり、橋がかかっている、かかっていない以前の問題である。
また、巌流島の戦いも、「実は武蔵が卑怯な手段で勝った」という説が強い。当時、試合を検分したであろう門司城代・沼田延元の子孫が、寛文12年(1672年)に編集した『沼田家記』によると、巌流島での対決は、実際には武蔵が大勢の弟子を率いて集団で小次郎を打ち破っているというのだ。これは、複数による個人の殺害であり、武芸の試合ではない。しかも、当時の小次郎は老人であり、中年の武蔵が集団で老人を殺害したというのが真相らしい。
現在、岩国の錦帯橋を挟み、宮本武蔵と佐々木小次郎がアイスクリームで対決している。「佐々木小次郎」というアイスクリーム屋と「武蔵」というアイスクリーム屋がしのぎを削っているのだ。ある意味、平和な時代である。