浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

議会の形式

2013-03-28 10:05:43 | 国際・政治
 先週、岐阜市議会の平成25年3月議会が終了致しました。平成24年度の補正予算と同時に、新年度平成25年度予算が上程され、議員にとっても行政にとっても審議する上で最も重要な議会です。今、議会改革が要求される中で、議会の在り方も変わっていくと思われますが、議会の役割が十分に認識されながら改革を進めなければなりません。単に合理的な考え方や単純かつ感覚的な手法で、制度そのものを変えてしまうと、議会制民主主義を基本とする議会の必要性も否定されかねない事態になることが懸念されます。ですから、形式すぎる討議化への批判も、どうしてそうなっているのか仕組み自体を考えなければなりませんし、そうした形式の上に立った議会の役割、必要とされる議論の在り方を認識していないといけないでしょう。

  議会制民主主義において、行政の長である首長と議会は、行政の執行にあたっての両輪として運営を任されていると言われます。地方自治では、首長は予算編成権を持つ執行権があり、議会は審議のうえでの議案の否決権がある消極的な執行権を持つということです。文章で見て、また両輪といえば、同じ立場であるようにみえますが、現実には予算編成権を持つ首長のほうがはるかに権限が強い状況です。議会では、審議する過程において否決権を実行するには、多数決による過半数を取らなければならないことや単なる議案の否決と同時に全体の予算も検討されなければならないなどの議論、調整行為の物理的問題や実務的課題の解決が必要になってきます。議会の流れは、首長の議案の上程、その議案の精読(行政による議案の説明)、議会質問(議案を含めた行政への質問)、委員会審査(構成の議案別の質疑及び賛否討論による審査)、本議場の賛否採決という形式があります。それらの間に議会運営委員会が開かれ、都度、議会の進行を決定していくわけです。つまり、形式としては、議会は議論する場であると言いながら、表面だけを捉えてしまうと公式的には議論する場はほとんど用意されておらず、採決のための質疑の場だけであって、議員同士が議論しあって賛否を決定していくような形にはなっていないということです。こうした流れの中で、議員同士が議論するとなれば、それぞれの会派内においてなされることと、その意思を他会派に説得を行うという、よく言う根回しのようなものが必要になってくるわけです。そうであっても、議員や会派の意見は形式的な流れの中で表明していくことが極めて重要であることは間違いなく、また自分以外の議員の質問や意見を十分理解しながら自分自身の判断をしていかなければならないことは言うまでもありません。

 こうした形式を前提に、今議会の形式について、気になることが二つほどありました。

 一つ目は、こうした議会形式において、首長の強い権限からあくまで説明責任による議案提出者の説明を議会に求めることであって、受け身の立場の立場にならざるを得ないことです。本議会では質問に対する回答を求めていることであって議論しようとする場ではないために反問権などはないのです。どのような質問であっても民意(民意としてもいろいろあるでしょう)による質問として答える責務があるのです。今回、本議会の一般質問で市長の回答に、市民の誤解を招きかねないということで回答の訂正を求める議事進行がかかりましたが、公式的に残ってしまう言葉に対して冷静に判断していくだけでよいことであって、お互いに感情的になっては議会の形式が壊れてしまうだけでなく、議会制民主主義の根本の問題になってしまいます。

 二つ目は、それぞれの議員や会派の意見表明とも言うべき討論において、反対であるにもかかわらず、反対討論が行われず採決だけで反対することです。議案や請願(市民から提出される議決案)に賛成であればあえて賛成する討論は必要ないと思いますが、反対する場合は、なぜ反対するのか意見表明がされるべきだと思います。唯一文章化される意見の市民への説明としても必要ではないでしょうか。そんなことは必要ないんだと言われればそれまでですが、私自身は議員の責務として意見表明に努めていきたいと思っています。

 形式は形式として成り立っていることを理解しながら、その中で本来の役割を十分認識しながら、運営にあたっていかなければならないと考えます。

以上

 


佐伯啓思「日本の宿命」を読んで

2013-03-28 07:25:05 | 日記・エッセイ・コラム
 いつも佐伯先生の本を読むと、普段から私自身が感じる価値観や思想を指導していただく思いがして、勇気づけられます。

 民意というもののとらえ方、経済優先主義の否定、オルテガの先進性への共感、進歩主義への批判、平和主義の偽善性、福沢諭吉のとらえ方など、まさに真の「保守思想」ではないかと考えるところです。それは、右とか左とかのイデオロギーの問題ではなく、私たち日本人自身の精神性を問い直す意味で、きわめて重要な指摘をされているのだと思うのです。

 残念ながらそうした精神性は現在の日本において多数派ではないというのが現実でしょう。また、戦後60年以上の流れの中において、大きく修正のかじをとることは難しいのではないかと感じてしまうのです。世界潮流の中の日本が、複雑に絡む関係性の中で、いかに日本の自立性を発揮することは多くの刺激を生むことになるでしょうし、捉え方のミスマッチによって、先の大戦の再現の懸念もあるということになってしまわないでしょうか。 つまり、日本人の精神性の回復と同時に、世界の一員としてのスタンスや関係性を明確にしていかなければならないということだと思うのです。

 こうした考え方がなかなか理解されない状況で、大切なことはこうした精神を我々は失ってはならないということであり、多くの直面する課題に対してそうした精神性で現実的解決を図らなければならないのです。私は、一地方議員ですが、先に述べた右とか左のイデオロギーではなく、判断の基本としてその精神を失わないように心がけようと思っています。

以上