冷戦後の全体主義および共産主義の終焉によって、民主主義及び資本主義が発展、成長の体制であることが明確になったとされるイデオロギー的勝利が証明されるような形でのもと、政治のイデオロギー的選択肢は限られてしまったという状況を今一度考える必要があるのではないだろうか。
つまり、政治の成立過程においてそうしたイデオロギーに依拠するところの対立があったにもかかわらず、その対立がなくなるとすれば、政党の成立根拠はどこに求めるべきであろうかということである。
こうした状況において、マニフェスト選挙がどれだけ選挙において効果的なものであるか疑問になる。一つ一つの争点は極めて重要であっても、数多くの争点においていろいろな考え方が示され交錯すると明確な争点として、政党の埋没が懸念される。一方で埋没しないようにと考えたとき、極端なマニフェストを示さなければという思いから、実現の可否よりも選挙のためだけのマニフェストになってしまう可能性がある。
今回の都議会議員選挙はどう見るべきであろう。結局、昨年の衆議院選挙の焼き直ししかなかったのではないだろうか。アベノミクスに対する評価よりもそうした政治の選択肢をしっかりと考えないといけないのではないだろうか。金融政策、経済政策で負の部分を考えなくてよいのだろうか。長期展望に立つとき何をすべきだろうか。私たちが求める豊かさとは何なのか。
ある本で、「閉そく状況とは選択肢のなさにある」としていたが、まさに私たちはそのような状況にあるのではないか。一方向に偏っていってしまう怖さを感じずして日本は救われない。
以上