先週はBIRTHWEEKだったにも拘らず、
何とな~く体調不良の一週間でした。
頚痛はいつもに増してひどいし、
目はますます悪くなった感じだし、
耳まで詰まったようにボワ~ンとして、
外に出かける仕事はほとんどなかったのに、
溜まった数々のタスクはノロノロとして一向にはかどらない。
そうなると気持ちまで微妙に落ちて、
やっぱり一つ歳とったせいかしら。。。
なんて弱気に。
11月は割と仕事のスケジュールが薄い月で、
よし、時間のあるうちに、あれもこれも。。。と欲張っていましたが、
なかなか思ったようには動けませんでした。
そんな中、歯医者さんの待合室でパラパラとめくった本。
渡辺和子著「置かれた場所で咲きなさい」
どこの本屋さんでも平積みになっているので
気になっていたのですが、好きな著者さんです。
確か85歳になられたと思いますが、
彼女が老いについてこんな事を。
・・・40代50代の頃は、あまりに仕事が忙しくて、
早く歳をとりたいと思っていた。
そして仕事の責任を人に引き継いだら、
その時には思う存分好きな事をする、と。
けれども、実際に年齢を重ねていざ時間ができると
今度は好きな事をしようにも身体が思うに任せない。
気力も湧いて来ない・・・
そして、人は「出来ない自分」と言うのを受け入れて行くのだ、
と言うような事が書いてあったと思うのですが、
まぁ、先週の私のプチ不調なんぞ、まだまだ可愛いものですが、
気力も湧いて来なくなる日々がいつか来るのだ、と言う事は
心のどこかに覚えておきたいと思いました。
たとえ、今のように動き回れなくなって
家にいる事になったとしても、いくらでもやる事がある、
暇を持て余すなんてあり得ない、などと言えるのも
気力あっての事ですから。
前にも書いたかもしれませんが、
「夜と霧」を書いたフランクルが、
価値の三段階と言うものについて考えを述べています。
一つ目は創造する事。
私で言えば、歌を書いたり、演奏したり、
また音楽を通しての楽しい時間を皆さんと共有したり、と言う事になるのでしょうか。
でももしもいつか、これらが出来なくなったとしても、
私は様々な経験を通して喜びを得る事が出来ます。
誰かが創造したものに触れる事で、
あるいは旅行をしたり、たとえそれが単なる消費であっても、
純粋に楽しい時間を過ごす事によって、
価値ある時間を過ごしたと感じる事が出来ます。
けれど(ここからが大切なのですが)、
もしもこれすらも出来なくなっても、
全てにおいて受け身にならざるを得なくなったとしても
人はその態度によって価値を産み出す事が出来ると言うのです。
自分の身に降り掛かる出来事にどのような態度で応答するのかによって。
そして、フランクルはこの三つ目の「態度」によって産み出される価値に
最も重きを置いていました。
これは、とても慰められる考え方だと思います。
何が出来なくなっても、最後の瞬間まで、
人は価値を生み出す事が出来るのですから。
そして、場合によっては、
態度を変える事によって経験へ、そして創造へと遡って行く事も
あるのではないかしら?とも思いました。
それはまさに「置かれた場で咲く」という生き方につながります。
何年か前にそんな事を思いながら書いた
向日葵と言う曲。
父の事を思って書きました。
(あぁ~こうして聴いてみると演奏が焦っていて冷や汗ものですが。)
さて、明日はまた仙台に行きます。
明後日、仮設の集会所で高奈美香さんと一緒にコンサートをさせて頂きます。
なんだかんだとマンスリーのようになっている仙台通い。
今はまだ動いていいよと言う事なのでしょう。
週が変わって、カラッと晴れて、
今日はもう先週の不調はどこへやら。
スッキリさわやかな空と共に
お腹の底からエネルギーが湧いて来るのが分かりました。
週末のライブ鑑賞がよかったのかもしれませんね。
この気力がいつまでも当たり前にあると思うなよ、と戒めつつ
まだしばらくは走れそうです。
何とな~く体調不良の一週間でした。
頚痛はいつもに増してひどいし、
目はますます悪くなった感じだし、
耳まで詰まったようにボワ~ンとして、
外に出かける仕事はほとんどなかったのに、
溜まった数々のタスクはノロノロとして一向にはかどらない。
そうなると気持ちまで微妙に落ちて、
やっぱり一つ歳とったせいかしら。。。
なんて弱気に。
11月は割と仕事のスケジュールが薄い月で、
よし、時間のあるうちに、あれもこれも。。。と欲張っていましたが、
なかなか思ったようには動けませんでした。
そんな中、歯医者さんの待合室でパラパラとめくった本。
渡辺和子著「置かれた場所で咲きなさい」
どこの本屋さんでも平積みになっているので
気になっていたのですが、好きな著者さんです。
確か85歳になられたと思いますが、
彼女が老いについてこんな事を。
・・・40代50代の頃は、あまりに仕事が忙しくて、
早く歳をとりたいと思っていた。
そして仕事の責任を人に引き継いだら、
その時には思う存分好きな事をする、と。
けれども、実際に年齢を重ねていざ時間ができると
今度は好きな事をしようにも身体が思うに任せない。
気力も湧いて来ない・・・
そして、人は「出来ない自分」と言うのを受け入れて行くのだ、
と言うような事が書いてあったと思うのですが、
まぁ、先週の私のプチ不調なんぞ、まだまだ可愛いものですが、
気力も湧いて来なくなる日々がいつか来るのだ、と言う事は
心のどこかに覚えておきたいと思いました。
たとえ、今のように動き回れなくなって
家にいる事になったとしても、いくらでもやる事がある、
暇を持て余すなんてあり得ない、などと言えるのも
気力あっての事ですから。
前にも書いたかもしれませんが、
「夜と霧」を書いたフランクルが、
価値の三段階と言うものについて考えを述べています。
一つ目は創造する事。
私で言えば、歌を書いたり、演奏したり、
また音楽を通しての楽しい時間を皆さんと共有したり、と言う事になるのでしょうか。
でももしもいつか、これらが出来なくなったとしても、
私は様々な経験を通して喜びを得る事が出来ます。
誰かが創造したものに触れる事で、
あるいは旅行をしたり、たとえそれが単なる消費であっても、
純粋に楽しい時間を過ごす事によって、
価値ある時間を過ごしたと感じる事が出来ます。
けれど(ここからが大切なのですが)、
もしもこれすらも出来なくなっても、
全てにおいて受け身にならざるを得なくなったとしても
人はその態度によって価値を産み出す事が出来ると言うのです。
自分の身に降り掛かる出来事にどのような態度で応答するのかによって。
そして、フランクルはこの三つ目の「態度」によって産み出される価値に
最も重きを置いていました。
これは、とても慰められる考え方だと思います。
何が出来なくなっても、最後の瞬間まで、
人は価値を生み出す事が出来るのですから。
そして、場合によっては、
態度を変える事によって経験へ、そして創造へと遡って行く事も
あるのではないかしら?とも思いました。
それはまさに「置かれた場で咲く」という生き方につながります。
何年か前にそんな事を思いながら書いた
向日葵と言う曲。
父の事を思って書きました。
(あぁ~こうして聴いてみると演奏が焦っていて冷や汗ものですが。)
さて、明日はまた仙台に行きます。
明後日、仮設の集会所で高奈美香さんと一緒にコンサートをさせて頂きます。
なんだかんだとマンスリーのようになっている仙台通い。
今はまだ動いていいよと言う事なのでしょう。
週が変わって、カラッと晴れて、
今日はもう先週の不調はどこへやら。
スッキリさわやかな空と共に
お腹の底からエネルギーが湧いて来るのが分かりました。
週末のライブ鑑賞がよかったのかもしれませんね。
この気力がいつまでも当たり前にあると思うなよ、と戒めつつ
まだしばらくは走れそうです。