JR飯田線宮田駅の南西1.5kmほど、旧小田切川の左岸上に在った城跡です。
付近は圃場整備等により遺構は残っていません、城跡を感じさせる丘状の高みが見られるのみでした。
圃場整備事業に伴い昭和51年に城跡の西側部分の発掘調査が行われています。
その調査報告書に拠れば、
堀を境に主郭は東西100m、南北60m、四方を上塁をめぐらす。
外郭は東西60m、南北55m、南は小田切川の段丘に面する。北側は押手沢の末流が流れた自然的小河川を利用した堀が回っている。いわば、自然丘陵を利用した中世居館址であることが確認された。
とあります。
下の地図は1976年の航空写真です。
白枠囲みの辺りが城跡部分、主郭外郭の位置関係は不明。
押手沢川の支流(青い部分)が城跡の北側を流れ、深さは2~2.4m幅50~90mほどの自然堀を形成していたようですが、現在は川の痕跡は見当たりません。
城跡北側の集会所(3付近)に車を停めて番号順に周囲を歩いて見ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/bf/67b7c11fc0c23040c0f6f771022939f9.jpg)
※出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を加工して作成
※1976年の航空写真です。
※1976年の航空写真です。
1.中央が城跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/71/e3a86bf4be38577dc8d0a9109e575c2c.jpg)
2.北東側。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/ed/47719ab9c7788fdb88587eba88692a0a.jpg)
3.右側が城跡。少し高いのが判る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/57/d310d28a7d3bce35bfba17cf9ec22e40.jpg)
4.この辺りで高低差が無くなる。正面が城跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/fa/b29024e7bc90df6d04b9e645982c0d7c.jpg)
5.城跡北西側から南側をみる。空堀がこの付近にあったようであるが痕跡は無い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/b5/48d062b74dfbd431c9cc66b4481f17a9.jpg)
6.左側奥に城跡、右側が小田切川の河原跡。堅固というほどではないが高低差が確認できる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/13/052e459050de15144bb97af3fdb50597.jpg)
7.石が2個ほど、何かの礎石であったのかは不明。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/c8/a133f71bc1ec09e64d1ac79490a5d7ee.jpg)
8.出発位置まで戻って東側を展望。伊那山地と雲の間に南アルプス。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/8d/22c63190bae4f730b469441261dd5ff8.jpg)
9.南側から望む段丘崖 、城跡は右側(ビニールハウスの奥)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/1c/daed1000a8d73b2f6edfc556d0ad65de.jpg)
城跡は小田切氏の城(館)で室町時代から武田信玄の伊那侵入の頃まで使われたのでは考えられています。
所在地:長野県上伊那郡宮田村南割
現状:耕作地、宅地等
遺構:不明
状態:
表示等:なし
駐車場:
参考文献:
「図解 山城探訪 第四集 上伊那資料編」(宮坂武男著 長野日報社刊)
「信濃の山城と館」(宮坂武男著 戎光祥出版刊)
現状:耕作地、宅地等
遺構:不明
状態:
表示等:なし
駐車場:
参考文献:
「図解 山城探訪 第四集 上伊那資料編」(宮坂武男著 長野日報社刊)
「信濃の山城と館」(宮坂武男著 戎光祥出版刊)
「県営ほ場整備事業埋蔵文化財緊急発掘調査報告書 下の段・五升蒔・駒潰遺跡」(長野県伊那郡宮田村教育委員会 南信土地改良事務所)