城の記 2.0

気の向くままにふらふらと、
投稿日と記事との時系列は一致していません、あしからず。

旧宮ヶ瀬橋 橋脚 (長野県松川町)

2023年10月24日 | 名所旧跡
県道伊那生田飯田線の松川町に架かっていた橋です。
新しい橋が2021年に開通した後も残されていたのですが、今年(2023年)春頃に鋼材部分が撤去され、コンクリートの構造物だけが残されていました。

天竜川右岸より。

下流側から。



橋脚

橋台。

解体前(2022年04月)。





御射山と松岡城跡

2020年12月20日 | 名所旧跡
古御屋まで来たので松岡城跡に寄ってから帰路に付くことに。

通り道なので御射山にも寄る。
松岡城主が代々諏訪大社下社の神事を執り行ったとされる場所である。



さて松岡城跡である。
変わっていたのは、松源寺駐車場が舗装されていた。

松源寺山門


しばし佇む。

リニア新幹線の高架が建設されるとこの景色も変わるのだろう。



諸原十三塚(長野県喬木村)

2020年11月07日 | 名所旧跡
諸原十三塚は、小川松下城跡と同じ尾根上にあります。
もろはら公園造成の計画中に発見され平成3年(1991年)に発掘調査が行われました。
その結果、塚は宗教的な遺構ではなく、戦乱期に城の勢力を誇示するために築かれた旗塚ではないかと結論付けられました。

造成時に発見された十三塚の10基ですが、現在はそのうちの北側の6基が公園続きの場所に整備・保存されています。
伊那谷で現存する旗塚はこの1箇所のみと思われ非常に貴重な遺構ではないでしょうか。

公園への道は狹く、上平トンネル西側からだと軽自動車以外は切り返しが必要、東側から回って下る方が楽かと。
駐車場のすぐ南側に諸原十三塚の解説板があります。

解説板裏から中尾神社までの間に6基の塚が残されています。
駐車場側から見る。

神社側から。

ひとつひとつはこんな感じです。

十三塚と公園を分ける中尾神社。

公園より、西側の飯田市方面を見る。
中央が風越山。


駐車場に戻って、北側の小川松下城跡方面を見る。
ここから城跡の間にも十五塚(十三塚)と呼ばれる塚群があったようですが開墾等により失われたようです。


西側尾根下の真浄寺参道付近から。
左側に小川松下城跡。


右側に諸原十三塚。

場所を地理院地図で確認。
小川松下城跡はココ
諸原十三塚はココ
真浄寺参道はココ
風越山はココ





大久保番所跡 付近 (長野県駒ヶ根市)

2020年10月19日 | 名所旧跡
大久保番所は江戸時代に高遠藩が材木の管理の為に天竜川に設けた川番所で、現在の駒ヶ根市東伊那大久保の天竜川左岸にありました。
最初の番所は天竜川の中州にあったようですが度々の大水に遭い、最終的には現在の旅館「しぶき荘」のある場所に安政3年(1857年)に建てられ、その後明治時代を迎えて廃止となったようです。

曇天の下、山には雪が降ったようで寒い。
番所跡付近はちょうど天竜川に架かる大久保橋の架替工事中で車両通行止め、休日で工事は休止中なのか歩行者は通れるようになっていて、橋の上からも写真が撮れた。

右岸から。


少しアップで。
写真中央の建物が番所跡に建つ旅館。

上流方向。
最初の番所はこんな感じの中洲にあったのであろうか。

大久保橋の上から。

左岸下から。

番所の材木改役(奉行)は旧大久保村の中村家が代々務めていて、
現在も往時を思わせる門が道沿いに見られます。


伊那市長谷 一瀬越前守直忠の墓石(宝篋印塔)

2015年06月10日 | 名所旧跡

熊野城城主、一瀬越前守直忠の供養塔です。


南信伊那史料 巻之上に拠れば、

熊野城墟、伊那里村市野瀬にあり 応永十一年笠原中務少輔政直の次男在名を以て
家号とし 市野瀬兵庫頭正保分知して築城此に住す、其子但馬守正親、帯刀正久、
同久保、に至る 代々二百貫文を領し高遠城に属し 其子同兵庫正光は甲州武田方に
隷属し 天正十年織田信忠侵入のとき討死長子弥太郎民間に降る
(伊那武鑑云々)
又日天文年中一ノ瀬主人入道直繁此に住す(是を故城と云う) 同十八年武田晴信
将士の為めに青柳峠にて戦死す 長子左兵衛直長は弘治二年より武田氏に属し尚此に
住し 其子勘兵衛に至り天正十年より保科弾正正忠正直に属し寛永十三年羽州山形へ
随行したりと高遠記に見えたり

とあり、
まず、市野瀬兵庫頭正保が城主としてこの地にあり、五代続いた後甲斐に移って
いった。
その後に、一ノ瀬主人入道直繁が、この地に入って新たに城主となった、
という事のようです。
最初の市野瀬氏と後の一ノ瀬氏は在名を名乗っただけで別の氏と思われます。

そして、この宝篋印塔は、一瀬越前守直忠(剃髪後は一ノ瀬入道直繁)の供養塔です。


元々建てられていた場所は城山の南側尾根上のようですが、粟沢川掘り抜き、の工事
(江戸末期-明治始め)の際に現在の場所に移されたとの事。

(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの1965年の空中写真を加工して作成)

現在は国道バイパスも造られたので城山は完全に孤立した小山となっていますが、この写真では
まだ城山と南側の尾根がつながっていた感じがよく判ります。
本来の粟沢川(左側の沢)は城山の西側、現在の旧道の辺りを流れて、城山の北側で三峰川と
合流したようです。

1、の付近からみた掘り抜き部分。右側が城山。

城山上から南側尾根方向。
正面の枠形の法面の辺りへ尾根がつながっていたようです。
宝篋印塔は、この消えてしまった尾根上にあったのでしょう。