おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

13デイズ

2019-06-15 08:31:12 | 映画
大阪もそろそろ梅雨入りしそうな雰囲気。

「こ」が終わって「さ」の段に入っていきます。


「13デイズ」 2000年 アメリカ


監督 ロジャー・ドナルドソン
出演 ケヴィン・コスナー  ブルース・グリーンウッド
   スティーヴン・カルプ ディラン・ベイカー
   ルシンダ・ジェニー  ビル・スミトロヴィッチ
   ケイトリン・ワックス ピーター・ホワイト
   レン・キャリオー   エリヤ・バスキン
   ジョン・フォスター  マイケル・フェアマン
   ケリー・コネル    ヘンリー・ストロジャー

ストーリー
1962年10月16日、ソ連がキューバに核兵器を持ち込んだという知らせがケネディ大統領のもとへ届く。
彼は直ちに緊急の危機管理チーム、国家安全保障会議緊急執行委員会、通称エクスコムを招集。
会議では空爆が推薦されたが、第三次世界大戦の勃発につながる危険があり、大統領はそれを避けたかった。
彼は本音を打ち明けられる弟の司法長官ロバート、親友の大統領特別補佐官ケネス・オドネルと共に、最善の手を探る。
空爆を迫る軍部を退けた大統領は、国連総会のため訪米したソ連外相と会談するが、外相はミサイルの存在を否定する従来の主張を繰り返すのみ。
大統領の疲労と緊張は限界に達しはじめるが、腹をくくった大統領は海上封鎖実施を発表。
しかしキューバのミサイルは発射準備を整えつつあり、大統領は止むなく29日に空爆の準備を指示。
さらに、爆撃目標の最終確認に飛び立った偵察機が撃墜されるという事件が起こる。
軍部は即時報復を進言し、事態は一触即発の状態に。


寸評
ケネディはこの翌年、ダラスにおいて疑惑の凶弾に倒れ、フルシチョフはこの危機処理が一つの伏線となってクレムリンを追われることになるのを我々は歴史を通じて知っている。
しかし、この時の当の当事者達はそんな歴史を知らず、国家の威信と世界平和を背負って、ぎりぎりの決断を行っていた事がドラマティックに描かれていて、歴史の裏側を見るような気分にさせてくれた。
オープニングはいい。タイトルと共にミサイル発射や原爆実験の映像が映し出され緊張感を醸し出す。
そして大統領特別補佐官オドネル家の朝食風景で始まるのだが、そこには子供の通知表を見せられ成績の悪さに文句を言いながら出かける主人公がいる。
ごく普通の家庭人であることの象徴的シーンで、その普通人が世界を震撼させ米国及び世界の命運を決定する瞬間に立ち会うことになるという宿命を上手く表していた。

大統領の権限があるように、それぞれの担当者にも権限があって、思惑によってその個人の権限を行使しようとする所などに偶然がもたらすことへの恐怖を感じる。
えてして歴史はそんなところから動くのかもしれないからだ。
軍部は悪人で、シビリアンは善人と言うのはいささか単純な区分けだとは思うが、それでも軍部のワナの様なものが描かれていて、職業軍人の思考は怖いものがある。
米国人にはチェコスロバキアの領土問題でドイツに譲歩し、ヒトラーの思い通りにされてしまったというミュンヘン協定のことが何回か語られる。
彼等にはその時の外交の失敗がトラウマになっているのだろうけど、その根深さは日本人の僕は実感として感じられない。
同様にピッグス湾事件でのキューバ侵攻失敗もトラウマになっているようで、どちらもこれからの決定に心理的影響を与えていそうなことがサラリと描かれていて興味深かった。
でもホワイトハウスの連中の家族だけが身分証と共にヘリポートから安全地帯に逃れる手はずが整えられていたとなれば、米国の一般国民は不満に思わないのだろうか?変な所に気をもんだ。

ジョン・F・ケネディ45歳、ロバート・ケネディ36歳、ケネス・オドネル38歳、この若い男達がアメリカのリーダーとして、世界的危機を回避したことにあらためて関心する次第だ。
ケネディ大統領のもとで、弟のロバートがあんなに重要な役割を果たしていたことに驚いた(僕の無知が招いた驚きなのだが)。
彼等のリーダーとしての指導力に、軍部が押さえ込まれていく所は、昨今のわが国の政治的指導力の無さを見るにつけ、まことにうらやましい限りと感ぜずにはおれない。
その大統領の権限とその権威に対する自負や、若きケネディが年配の幹部達を叱責するシーンを見ていると、自分達や子供の命を託すに足る人物を大統領選で選んでいる事が理解できる。
やはり日本も首相公選制をとるべきだろうと思ってしまうし、シビリアンコントロールは何があっても効かせなければならないなと感じてしまう内容だ。

時折モノクロ画面に変わるシーンがあるが、ドキュメンタリー効果を狙ったものだったのだろうか。
最高幹部の招集シーンやソ連外相グロムイコの登場シーンなど、重要人物の登場シーンだけかと思っていたが、そうでもなさそうでイマイチ意図が読み取れなかった。
しかしこのキューバ危機のことが、翌年の暗殺事件につながったのではないかとの疑念は残ったままで、同じくケビン・コスナーで以前作られた「JFK」がつながってくる。
ケネディの暗殺事件はやはりミステリーだ。
最後のナレーションは心打つし、全くもってその通りだと思わされる。

コレクター

2019-06-14 09:54:10 | 映画
「コレクター」 1965年 アメリカ


監督 ウィリアム・ワイラー
出演 テレンス・スタンプ サマンサ・エッガー
   モーリス・ダリモア モナ・ウォッシュボーン

ストーリー
銀行に勤めるフレディは内気なのか、孤独癖が強いのか熱中することは蝶を集めることくらいだった。
あるとき、フットボールの賭けで大金を得て郊外の家を買い調度品を揃えた。
フレディは前から気に入っていた美術大学に通う女性ミランダをクロロホルムをかがせて誘拐し、監禁した地下室には若い子が好みそうな衣服や美術作品集などが揃っていた。
フレディは金目当ての誘拐ではなく、監禁したミランダに何をするわけでもなく、紳士的に接して、ひたすらいつかミランダが自分のことを理解してくれるようになるという望みを叶えようと努力する。
ミランダの必死の抵抗に、フレディは仕方なく監禁の期限を設けるという条件を聞き入れる。
この日からおかしな同居生活が始まり、ミランダが欲しがるものは何でも買い与えたが、フレディはただ彼女を掴まえておきたい一心で決して監視の目はゆるめなかった。
一方のミランダもたえず逃げる機会をうかがっていた。
しかしミランダは手を縛られて散歩したときも、ある夜に予期せぬ来客があったときも、通報する機会をもう少しのところで失ってしまった。
激しい雨の夜、彼女は隙を見て男をシャベルで殴り、逃走を試みたが、血まみれになりながら男は芝生の上をひきずり回した。
病院で手当てを受けてフレディが帰ってくるとミランダは肺炎を起こして重体だった。
フレディは医者を連れてくると飛び出して行ったが・・・。


寸評
フレディは仕事仲間からイジメにあっている内気な青年なのだが、それをくどくど説明的に描かないで、紙の蝶々でからかわれていることで描き、思わぬ大金を手に入れるまでを一気に描いていて無駄がない。
彼は社会での孤独感と学歴や育ちに対するコンプレックスから、異常な愛情表現と、美しいものへの執着心を持つに至ったと思われる。
カンヌ映画祭とアカデミー賞で主演女優賞を得たサマンサ・エッガーがそれほどの演技をしているとは思わないが、フレディのテレンス・スタンプが兎に角スゴイ。
不器用で純粋なのだが完全にイカれた恐ろしい男を演じていて、何よりも異常性を示す彼の目つきがいい。
精神異常をきたしていると思われるのだが、時折見せるピュアで嬉しそうな表情がまたいい。
そして逆に裏切られた時に見せる猟奇的な目つきの恐ろしさもいい。
いいと言うのはステキという意味ではなく、この映画の不気味さを表す存在として見事だと言う意味だ。
ミランダを観察し続けていたフレディは、彼女の趣味や好みの服装も熟知しているし、交友関係も調べ上げているようだが、観客である僕たちはそれらを想像するしかない。
ミランダが酒場で話していた男とはどういう関係なのか。
恋人なのか、話していた内容は別れ話だったのかなどは知らされないままである。
そんなことはどうでもいいとばかりに、監禁場所でのフレディとミランダのやりとりだけが描き続けられる。
近所の住人と言う男が訪ねてくるが、二人以外の登場人物はその男だけと言ってよく、全くの二人芝居が演じ続けられる。

フレディはミランダに性的な危害を加えることはない。
彼女の前では紳士的に振舞おうとしているが、紳士的であるのはミランダが自分に対して従順な時だけで、ミランダの奥底を感じた時には恐ろしく変身する。
どちらも青年の本心であり、ミランダの言動ひとつでコロコロ変わるフレディの胸のうちが伝わってくる。
ミランダは助かりたい一心で偽りの姿を見せ始める。
時には思いを寄せ始めたふりをして誘惑をしたりもするが、それが本心からの行為でないことをフレディは見抜く。
ミランダが裸になって身体を投げ出してもフレディはそれに溺れることはない。
フレディはミランダの心を得ることを願っているが、それが不可能であることはミランダも観客も分っている。
お前、こんなことをしておいて愛を得ようなんて勝手すぎるではないかということだ。
しかし、不思議なことにミランダへの同情と、フレディへの憎しみが湧いてこない。
たぶんミランダの人物設定に同化できず、異常ながらもフレディの純真さに同化できる部分があるからだろう。
しかしこの男のコンプレックスからくる精神構造は異常である。
日本でも誘拐犯が長年にわたって監禁し続けていたという事件が時々発生しているが、彼等と共通したものがあるのだろうか。
結末は僕が想像したものとは違っていて、ちょっと驚かされた。
テレンス・スタンプの見せた不気味さは1967年の「世にも怪奇な物語」における第3話フェリーニ監督の手になる「悪魔の首飾り」で開花したと思う。

小早川家の秋

2019-06-13 09:41:28 | 映画
「小早川家の秋」 1961年 日本


監督 小津安二郎
出演 中村鴈治郎 原節子 司葉子 新珠三千代
   小林桂樹 島津雅彦 森繁久彌 浪花千栄子
   団令子 杉村春子 加東大介 東郷晴子
   白川由美 宝田明 山茶花究 藤木悠
   笠智衆 望月優子 環三千世 遠藤辰雄
   
ストーリー
秋子(原節子)は小早川家の長男に嫁いだが、一人の男の子を残して夫に死なれてからは御堂筋の画廊に勤めている。
代々、造り酒屋で手広い商売をしてきた小早川家も、万兵衛(中村鴈治郎)が六十五になり今は娘の文子(新珠三千代)のつれあい久夫(小林桂樹)に仕事が渡り、万兵衛は末娘の紀子(司葉子)と秋子をかたづけるのに頭をつかっていた。
文子たち夫婦も、店の番頭信吉(山茶花究)、店員の六太郎(藤木悠)も、この頃、万兵衛の妙に落着かない様子に不審を抱いていた。
或る日、六太郎は掛取りを口実に万兵衛の後をつけると、万兵衛は、素人旅館「佐々木」に入っていった。
女道楽ばかりしてきた万兵衛で、競輪の帰り十九年振りにバッタリ逢った焼け棒杭がつね(浪花千栄子)だった。
つねは百合子(団令子)と二人で暮らしていて、百合子は万兵衛をお父ちゃんとよんでいる。
秋子には、万兵衛の義弟に当る弥之助(加東大介)の世話で磯村(森繁久彌)との話が進んでいた。
磯村は一生懸命であるが、秋子の気持はどうもふんぎりがつかない。
一方、紀子もお見合いをしたもののこれも仲々決めようとしない。
紀子は、札幌に行った大学助教授寺本(宝田明)に秘かな愛情を寄せていた。
亡妻の法事の日、嵐山で一晩楽しく過ごした小早川家一族は、万兵衛の病気で大騒ぎとなった。
心臓が痛いというのだが、翌朝になって万兵衛は、ケロリとして起き上り皆を驚かした。
万兵衛はその日にまた佐々木の家に行った。
万兵衛はつねと一緒に競輪を楽しみ、その晩佐々木の家で心臓の発作を起して息を引き取った。
お骨ひろいに一家は集り、久夫はいよいよ合併が近いことを洩らした。
小早川家の商売も、大資本の波におしまくられ企業整理のキッカケが、万兵衛という柱が亡くなって一遍にやって来たのだ。
紀子は札幌に行く決心をし、秋子も心から賛成したが、自分は再婚しないで今のままでいようと思った。


寸評
小津安二郎が東宝で撮った唯一の作品(制作は宝塚映画)で新珠三千代、宝田明、小林桂樹、団令子、森繁久彌、白川由美、藤木悠ら当時の東宝スター総出演となっていて、先入観もあるのだろうが松竹の喜劇性とは少し趣が違っているように感じる。
また小津監督、と原節子コンビの最後の作品でもあるが、原節子の良さが前面に出ていたとは言い難い。
京都・伏見の造り酒屋の大家族を巡るホームドラマなのだが、小津の視点はあくまでも中村鴈治郎が演じる大旦那の老いらくの恋とその死に向けられている。
とにかく中村鴈治郎が面白い。
若いころは道楽者で愛人問題では亡き妻にも迷惑をかけたようだが、19年ぶりにその愛人であった佐々木つねに会ったことから当時を懐かしんで「佐々木」に通うようになる。
何かと口実をつけては出かけるのだが、問い詰める長女の新珠三千代と切り返す父親の中村鴈治郎のやり取りがまるで漫才を見ているような掛け合いになっている。
山茶花究が昔からいる大番頭らしく小早川家の人間関係や大旦那の細部にわたることなどをよく知っている。
それを後輩に得意げに語る姿もおもしろく、僕も同族会社に勤めていたのでそのような古株に何人か出会った。
その人たちは、ただ古いことや私的な小さなこと知っているということを鼻にかけていたきらいがあった。
そんな人種を山茶花究がアドリブ的な演技で笑わせる(小津はアドリブが嫌いだったと聞いているので想像だ)。
さらに佐々木つねの浪花千栄子がからんで関西色がにじみだす。
つねは水商売人だったようで、その道に長けた女の振る舞いがよく出ていた。
つねの娘である団令子は鴈治郎を「おとうちゃん」と呼んでいるが本当かどうかわからない。
不思議がる娘に適当に答えるが、娘もそれでいいような関係だし、その娘は鴈治郎が死んでいるのにあっけらかんと新しい外人と出かけていくし、つねも深くは咎めない。
それでも、つねはそこに横になっている人に語り掛けるように話しかけ悲しみを押し殺す。
赤の他人の関係だが心底悲しんでいるようだ。

反面、肉親は直情的だ。
鴈治郎が一度危篤状態になると遠くの親戚まで駆けつけてくる。
鴈治郎の妹である杉村春子が名古屋から駆け付け、寝込まれるよりはましだと明るく言っているが、やがて悲しみが込み上げ顔を覆う。
僕は非常にリアルな演出だと感じた。
危篤から回復し何事もなかったかのように「おしっこ」と言ってトイレに行く鴈治郎とそれを見送る家族の姿に大笑いなのだが、やがて次女の司葉子が安心して泣き出し、それまできつく当たっていた長女の新珠三千代も本当に良かったと大泣きする。
しかしその場面では義理の娘にあたる原節子の姿は写されない。
あくまでも血の通った親子だけを描いていて、案外と小津は冷ややかなのだと思った。

いいのはラストシーンで、笠智衆と望月優子の夫婦に宗教的な会話をさせ、人の世の移ろいを考えさせられる。
しかし、墓のシーンや縁起の悪いカラスをたくさん登場させた本当のラストシーンは僕は好きでない。


御法度

2019-06-12 08:48:27 | 映画
「御法度」 1999年 日本


監督 大島渚
出演 松田龍平 ビートたけし 武田真治 浅野忠信
   崔洋一 的場浩司 トミーズ雅 伊武雅刀
   神田うの 吉行和子 田口トモロヲ
   桂ざこば 坂上二郎

ストーリー
1865年(慶応元年)夏、京都。
「局中法度」「軍中法度」という厳しい戒律によって鉄の結束を誇る新撰組に、剣の立つふたりの若者が入隊した。
ひとりは下級武士・田代彪蔵、もうひとりは息を飲むような美貌の少年・加納惣三郎である。
入隊早々、惣三郎は総長の近藤勇から御法度を破った隊士の処刑を仰せつかり、みごとその大役を勤めてみせるが、副長の土方歳三は近藤の寵愛を受け未だ前髪を切ろうとしないこの若者に、何か釈然としないものを感じていた。
そんな中、惣三郎と田代が衆道の契りを結んだという妙な噂が組中に広まった。
しかも、惣三郎は隊士のひとり、湯沢藤次郎とも関係を持ってしまう。
ある日、その藤次郎が何者かに殺される事件が起きるが、犯人は分からずじまい。
このままでは隊の規律が乱れると危惧した近藤と土方は、惣三郎に女の味を教えるよう山崎に命じる。
だが惣三郎は女と契ることを拒み続け、彼を遊廓に誘っていた山崎が夜道で何者かに襲われてしまう。
現場に残された小柄から、近藤は嫉妬に駆られた田代が犯行に及んだと断定し、惣三郎に田代を始末するよう命じるのであった。
しかし、藤次郎殺しや山崎闇討ちはすべて、惣三郎が仕組んだことだった。
夜の鴨川・四条中州、介添人の土方と沖田総司が物陰から見守る中、田代は惣三郎に斬られる。
介添えを終えての帰り、沖田は中州に忘れ物をしたと言って引き返す。
その彼の後ろ姿を見て、土方は沖田もまた惣三郎に魅入られていたことを悟る。


寸評
キャスティングの妙と、ワダエミさんの衣裳デザインのイメージ表現が、見終わっての印象として残った。
新撰組と言えば「誠」の旗印と、白地に三角で縁取ったユニフォーム(?)がトレードマークになっていると思うが、それらは一切登場しない。
黒を基調とした衣裳デザインは、殺戮集団の殺伐さをイメージアップしていたと思う。
その衣装は男色の者など存在し得ない雰囲気をにじませることに成功していた。
通常知られている新撰組の着物は、さっぱりしていて男色の男が存在していてもおかしくないようなデザインだと思う。
ワダさんのデザインはそれを想像させないから、色白の美少年の登場で鉄の結束を誇る組織が徐々に内部崩壊していく様を面白く感じ取らせるということへの貢献度が大だと思う。

修道(男色)という異常な世界を描いているが、その表現は直接的ではない。
表情を切り取ることで、その表情の奥にある思惑を感じさせるようにしているが、それを土方の独白がさらに後押しする構成は巧みだ。
特に近藤をそのように撮ることで、彼の誰にも漏らさぬ惣三郎への思いが(土方は気付いていたようだが)内部崩壊の一助になっていると思わせるミステリアスさもいいと思う。
誰も入れない領域があり、そこに入り込もうとすると抹殺される。
修道の世界と同様に、近藤、土方の間にも似たようなものが有り、そのような者を土方は排除してきたと沖田は言う。
沖田、井上を含めた多摩出身の彼等には実際特別の同族意識が有ったのだろうが、それを修道と同一線上に並べて語らせているところなどは面白い。

近藤・土方は写真も残っているので、出来上がったイメージというものがある。
崔洋一の近藤は、私としてはイメージに近いものがある。
土方を演じたのはビート・たけしで、容貌はイメージと違うが、本当の土方の性格ってこうだったのではないかと思わせる。
司馬さんの「新撰組血風録」における土方歳三はかっこよすぎるもんね。
インタビューを受ける松田龍平君と違って、映画の松田龍平君は存在感があり、輝きを発してる。
まだ父上(故・松田優作)ほどではないにしても、この頃は予感させるものであったが、今ではいい味を出す役者になっている。
トミーズ雅の山崎烝は面白い。
陰湿なところはなく、人のいい監察を演じている。
この映画を、ある種ユーモラスなものにしていて、これまた貢献度大だ。
加納惣三郎役の松田龍平に手を握られた時の、とぼけた顔に思わず吹き出してしまった。
藤原喜明の武田観柳斎が言い寄るところも見てみたかったのだが・・・。
新撰組と言えばもう一人、沖田総司。
これを演じるのが武田真治なのだが、なかなかいい沖田になっていた。
武田真治が加納惣三郎を演ってもいいと思うのだが、沖田もはまり役だった。
大島さん、どこでこのような魅力を発見してたんでしょうかね?

僕がこの映画を見る気になった一つに、入手していたチラシの面白さもあった。
上質の紙で作られた6枚セットで、そう思うと、観客動員の一手段として、劇場用のチラシもまんざら捨てたものでもない。

この空の花 長岡花火物語

2019-06-11 09:14:20 | 映画
「この空の花 長岡花火物語」 2012年 日本


監督 大林宣彦
出演 松雪泰子 高嶋政宏 原田夏希 猪股南
   寺島咲 筧利夫 森田直幸 池内万作
   笹野高史 石川浩司 犬塚弘 油井昌由樹
   片岡鶴太郎 藤村志保 尾美としのり
   草刈正雄 柄本明 富司純子

ストーリー
天草の地方紙記者・遠藤玲子(松雪泰子)が長岡を訪れたことには幾つかの理由があった。
ひとつは中越地震の体験を経て、2011年3月11日に起きた東日本大震災に於いていち早く被災者を受け入れた長岡市を新聞記者として見詰めること。
そしてもうひとつは、何年も音信が途絶えていたかつての恋人・片山健一(高嶋政宏)からふいに届いた手紙に心惹かれたこと。
山古志から届いた片山の手紙には、自分が教師を勤める高校で女子学生・元木花(猪股南)が書いた『まだ戦争には間に合う』という舞台を上演するので玲子に観て欲しいと書いてあり、更にはなによりも「長岡の花火を見て欲しい、長岡の花火はお祭りじゃない、空襲や地震で亡くなった人たちへの追悼の花火、復興への祈りの花火なんだ」という結びの言葉が強く胸に染み、導かれるように訪れたのだ。
こうして2011年夏。
長岡を旅する玲子は行く先々で出逢う人々と、数々の不思議な体験を重ねてゆく。
そしてその不思議な体験のほとんどが、実際に起きた長岡の歴史と織り合わさっているのだと理解したとき、物語は過去、現在、未来へと時をまたぎ、誰も体験したことのない世界へと紡がれてゆく。


寸評
戊辰戦争、太平洋戦争、中越地震、東日本大震災などが絡みながら描く長岡の歴史物語だが、メインは太平洋戦争における長岡空襲で、それをセミドキュメンタリー風に描いていく。
その手法は斬新で、これも映画なのだと教えてくれる。
教えてくれると言えば、模擬原子爆弾の存在もそうで、新潟が原爆投下の候補地になっていたことは知っていても、そんな爆弾が存在していたことは知らなかった。
大阪空襲を通じた焼夷弾による火災の凄さは、遠く離れた村からでも見えたという祖母などの話を通じて聞き及んでいたが、長岡の悲惨な状況は改めて無差別攻撃のむごさを訴えてきた。
子供が描いた絵のようなアニメ処理で焼夷弾の投下が描かれているのに、僕にはその画面は非情に迫力あるものに見えた。
焼夷弾は突き刺さるのだと認識を新たにした次第である。
僕は戦争の実情を知っちゃいないのだと思ったし、やはり戦争の語り部は必要だとも思った。

映画はテロップが度々表示されたりするドキュメンタリー風で、NHKのスペシャル番組を見ているようでもある。
少女の台本をもとに演劇が催される背景があることで、セリフはどこか演劇的である。
空爆シーンはコンピューター・グラフィックスを駆使したリアルなものではなく紙芝居的に処理されている。
その表現の仕方がこの映画の特徴でもあり目を引き付けるのだが、これは見る人によって好き嫌いがあるだろう。
二人の女性が恋人と別れていて、それぞれ再会を果たすがそれ以上の展開はない。
一方は声を掛け合うが、一方は声をかけることはない。
僕はこの二組のドラマの意味がよくわからなかった。

幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の藩士小林虎三郎による教育にまつわる故事としての「米百俵」の話が紹介されたり、詩人堀口大学、山本五十六など郷土にゆかりのある人の話も挿入されて、故郷映画の趣として興味を持たせた。
山古志の美しい景色は日本の原風景でもあり、どこか平和を感じさせる。
中越地震で被害を受けた地域だが、この風景はいつまでも残っていてほしい。

模擬原爆投下や長岡空襲による長岡市民犠牲者には哀悼の気持ちを抱くが、映画自体にはどこか説教臭さがあって左翼映画的なものを感じる。
メッセージ映画の宿命かもしれない。
火薬を爆発させるということにおいては花火も爆弾も同じで、爆発の原理は原爆とも大差がないようだが、空から降ってくる爆弾と、空に向かって打ち上げる花火の何と大きな違いである事か。
花火は鎮魂のためのものでもあり、平和の象徴でもあり、復活への意思表示でもある。
山下清の絵によってなのか、それとも他の手段によってなのかは定かでないが、長岡の花火大会が素晴らしいものであることは頭のどこかにあったのだが、観光花火と違って、長岡の花火大会は別物なのだと分かった。
ずっと見てくると、最後に上がる大花火はやはり美しいと思った。
やはり花火は夜空に咲く美しい花だ。

絞首刑

2019-06-10 10:35:13 | 映画
「絞首刑」 1968年 日本


監督 大島渚
出演 佐藤慶 渡辺文雄 小松方正 石堂淑朗
   足立正生 戸浦六宏  松田政男  小山明子
ストーリー
主人公の在日朝鮮人死刑囚"R"は強姦致死等の罪で絞首刑に処せられた。しかし信じられないことに絞縄にぶら下がったRの脈はいつまで経っても停止せず、処刑は失敗する。
縄を解かれたRは刑務官たちの努力の末に漸く意識を取り戻すが、処刑の衝撃で記憶を失い心神喪失となっていた。
事訴訟法により、刑の言い渡しを受けた者が心神喪失状態にあるときには執行を停止しなければならない。
その状態では刑の再執行は許されないので、Rの記憶を取り戻させようと、死刑執行人たちが四苦八苦する。
刑務官たちは躍起になるが、Rの無垢な問いかけは彼らの矛盾を鋭くえぐっていく。

寸評
TGの1千万円映画として製作された作品である。
制作費を製作者とATGが半額づつ出資するシステムだったが、当時として1千万円という制作費は厳しいものだったと思う。
しかしマイナー公開を逆手に取った意欲策も数多く製作された。
「人間蒸発」「初恋地獄篇」「肉弾」「心中天網島」「サード」などなどだ。
当時は映画青年を気取ってATGに通ったものだ。
さてこの映画に対する僕の当時の印象は、日本国家に内在する矛盾、問題点をあらわにするその内容のせいもあって出演者が皆インテリに見えたことを思い起こす。
実際、インテリたちが作った問題映画だったと思う。

作品の冒頭で拘置所の片隅の死刑場が映され、大島渚自身によるナレーションで執行の説明がなされる。
死刑執行の場所を忠実に再現した作品ということだったので、死刑執行場面はテレビや映画で何回か見ていたが、これが本物だと信じたことを思い出す。
本物かどうか知らないが、モノクロ作品だったことがリアルな緊張感を伝えていた。
とはいうもののシリアスな感じの冒頭からやがて映画はコメディの様相を呈してくる。
小松方正たちが春歌(卑猥な歌)を唄いだすところなんか思わず笑ってしまう。
教育部長演じる渡辺文雄がとにかく面白くて、官憲をバカにしているコミカルさを当時は痛快に感じた。
映画は死刑制度の原理的な問題から在日朝鮮人差別の問題、さらには貧困を背景とした犯罪心理にも及ぶ。
Rの姉と称する小山明子が登場したりもして大島らしい演出を感じたのと、その小山明子の白装束が鮮明な記憶として残っている。
死刑囚Rは死の世界から蘇生し「僕を有罪としようとするもの、つまり国家がある限り、僕は無罪です」と叫ぶ。
検事はそういう思想を生かしておくわけにはいかない。
為に死刑囚Rは、すべてのRのために、Rであることを引き受けて死ぬ。
死刑を行う側も殺人にはならないのか?と問いかけていた。
ブラック・ユーモアに満ちた作品としては、僕の記憶にある限りにおいて「絞首刑」が一番だ。

恋の罪

2019-06-09 09:44:02 | 映画
「恋の罪」 2011年 日本


監督 園子温
出演 水野美紀 冨樫真 神楽坂恵 児嶋一哉
   津田寛治 大方斐紗子 小林竜樹 二階堂智
   五辻真吾 深水元基 内田慈 町田マリー

ストーリー
あるどしゃぶりの雨の日、ラブホテル街の木造アパートで無惨に殺された女性の死体が発見される。
事件担当する女刑事・和子は、仕事と幸せな家庭を持つにもかかわらず、不倫に走っていて愛人との関係を断てないでいた。
謎の猟奇殺人事件を追っているうちに、大学のエリート助教授・美津子と、人気小説家を夫に持つ清楚で献身的な主婦・いずみの驚くべき秘密に触れ引き込まれていく和子。
事件の裏に浮かび上がる真実とは…。
3人の女たちの行き着く果て、誰も観たことのない愛の地獄が始まる…。


寸評
描かれる内容はあまりにも毒々しいが、それが1997年3月渋谷区円山町ラブホテル街にあるアパートでおきた「東京電力女子管理職社員殺人事件」をモチーフにしているとあっては、その毒々しさが現実のものであることを理解しながらの観賞となる。
当時は事件の報道が過熱化し週刊誌等では被害者のプライバシーが暴きたてられたことを記憶している。
被害者女性は家族全員が名門エリート大学を出ていて、彼女自身も慶応大学出身のエリート管理職であり、金銭的にも不自由していなかったのに、夜は低価格の売春を繰り返していたというものであった。
映画はその事件をモチーフとして被害者の特異状況や異常癖を登場人物に割り振っている。
しかし、事件をモチーフとしたオリジナル脚本とあっては、現実との相違が問題ではなく、ましてや殺人事件の犯人を追いつめるサスペンスともなっていない。

映画は三人の女性の愛と性、表の顔と裏の顔の極端さを描いていく。
家では良き妻、良き母だが不倫にはしる女刑事の和子。
オープニングはこの和子が不倫先のホテルから事件現場に駆け付けるところから始まる。
オールヌードで登場する水野美紀の体当たり演技もあって衝撃的すぎる始まりだった。

夜になると娼婦として売春を行っている大学のエリート助教授の美津子。
彼女は何度も田村隆一の詩「帰途」の一節「言葉なんかおぼえるんじゃなかった 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる」を度々引用する。
父親に近親相姦的感情を有していた良家の下品な女である。

そして、美津子から「お前は私のところまで堕ちてこい!」と叫ばれ、昼のブルジョア的な主婦生活から、夜の売春婦へと堕ちていくのが、人気作家を夫に持つ貞淑な妻であるいずみ。
女として一番変貌を遂げるのがこのいずみで、変化のない生活から抜け出すためにパートに出て、そこからAV嬢へと堕ちて行く。
堕ちて行くというより、むしろ自己の存在感を示すという点において成長していく。
和子によって物語は新しい展開に持ち込まれ、美津子によって掘り起こされていくが、この映画の中心人物はこのいずみであろう。

いずみの成長を助ける美津子のアジテーションは強烈でアングラ劇の叫びを見ているようだった。
事件はきわめて特異なものではあったが、「ただでやらせるな!」と美津子の説く性や肉体を商品とする女の生きざまは、今や特異なものではなくなってしまっているのではないか。
主要人物を演じる水野美紀、冨樫真、神楽坂恵という三女優のヘアヌードを惜しみなく映し出して女を描こうとしているようにも見えるのだが、一向に女を感じさせないのは作品全体の構造が、田村隆一やカフカの観念的な言葉のもとで展開されているからだと思う。
作中で田村の詩が読まれるたびに、また「城」が云々されるたびに、作品は観念映画と化していって女の性や肉体から遠のいていく。
こんなことならカフカの「城」を読んでおくべきだったのかもしれない。
僕はこの作品を見ていて、40数年前に熱狂していた一部の日活ロマンポルノや、アジテーションを繰り返す当時のアングラ劇団の公演を連想し、ポルノ映画やピンク映画と一線を画しながらも奮闘していた若松孝二を思い出していた。

和子がラストで両手にゴミ袋を持ちながら回収車を追いかけても追いつけず、円山町のラブホテル街に迷い込み、殺人現場の入口に立ちつくす。
不倫相手の男から「今どこにいるんだ?」と電話がかかるが「よくわからない」と答える彼女。
それはこの世で起きることが、何だかよくわからないことの積み重ねのことが多いとの表現であり、現実の事件も結局は何だかよく分からない事件だったように思う。
尾沢美津子演じる大学助教授である美津子の叫びもインパクトがあったが、それ以上なのが美津子の母親役の大方斐紗子だ。
瀬戸内寂聴ばりの語りは、とてもとても心の中にまで入り込んで耳に残るものだった。
それは彼女を支持するものではないのだが、圧倒的な存在感で終盤を一気に高める役割を果たしていた。
よく分からなかったけれど、これは「恋やセックスなんかおぼえるんじゃなかった」と「恋の罪」を呪っている人物たちの物語だったのだろう。
グロテスクな映画でもあったが、前半で語られる内容が後半で描きだされたりしていて、作品の奥深さも持った映画だった。

ゴーストライター

2019-06-08 11:15:43 | 映画
「ゴーストライター」 2010年 フランス / ドイツ / イギリス


監督 ロマン・ポランスキー
出演 ユアン・マクレガー  ピアース・ブロスナン
   キム・キャトラル   オリヴィア・ウィリアムズ
   トム・ウィルキンソン ティモシー・ハットン
   ジョン・バーンサル  デヴィッド・リントール
   ロバート・パフ    ジェームズ・ベルーシ

ストーリー
英国の元首相アダム・ラング(ピアース・ブロスナン)の自叙伝執筆を依頼された一人のゴーストライター(ユアン・マクレガー)。
出版社が提示した条件は、米国で講演中のラングが滞在する島に今夜中に発ち、1ヶ月以内に原稿を仕上げるという厳しいもの。
だがそのハードな仕事と引換に得られるものは25万ドルという破格の報酬だった。
しかし、政治に興味がなく、前任者がフェリーから転落死、その後任ということもあり、彼は気乗りがしなかった。
代理人に説得されてラングの自叙伝を出版するラインハルト社に面接に行き、言いたいことを率直に話すと、かえって気に入られてしまい、いつの間にか仕事を引き受ける羽目になる。
ヒースロー空港の待合室では、ラングがイスラム過激派のテロ容疑者に対する不当な拷問に加担した疑いがあるというニュース速報が流れていた。
飛行機を降り、ラングが滞在する東海岸の島へ向かうフェリーに乗り継ぐ。
そのフェリーは前任者マカラが泥酔して落ちたフェリーそのものだった。
ラングの邸宅は厳重な警備が敷かれ、ラングの妻ルース(オリヴィア・ウィリアムズ)も滞在していた。
専属秘書のアメリア(キム・キャトラル)は守秘契約書にサインするように求め、自叙伝の草稿の屋外への持出しは厳禁だと告げる。
やがて、取材をしながら原稿を書き進めるうちに、ラング自身の過去に違和感を覚えた彼は、前任者の不可解な死を追いかけることで国家を揺るがす恐ろしい秘密に触れてしまう。
そして、いつしか真相に迫ろうと深追いしてしまうゴーストライターだったが…。


寸評
冒頭でフェリーに取り残された車と、海岸に流れ着いた溺死体が映し出されるが、これが映画である以上、彼が殺されたことは容易に推測されるが、これから起こる物語りを暗示するに充分なモノローグだった。
ラングの邸宅がある島のシーンは一貫して鉛色したトーンで、主人公が感じる閉塞感の様な気分を色彩表現していたと思う。
あまり多く手の内を見せないストーリー展開のなかにスリルを織り込むところは、派手なアクションを盛り込んだ作品と違って、観客をジワリジワリと心理戦に持ち込んでいく。
そうするための前半部分はやや説明が長くて退屈気味なのだが、中盤を過ぎるとその努力が報われて俄然サスペンスらしくなっていく計算されつくした脚本だったと思う。
ラストの教授がルースを引きとめたシーンは、結末が仕組まれたものであることを暗示していたと思う。
原稿がまき散らされていくシーンは美しく、ゴーストライターの名前を最後の最後まで明かさないのは、彼の役割を際立たせるための演出だったと思われる。
そこで流れる音楽は最後になってさらに緊張を高める効果をもたらす素晴らしいものだった。
闇の部分は何でもかんでもCIAにしてしまうのは少々短絡的ともいえるが、それでもCIAならやりかねないとも思える壮大な陰謀がリアル感を持っていた。
見終わっての帰り道、ふと考えた。
これはトニー・ブレアのことなのか?
そう思うと、彼も「クイーン」で見るようなこともやっていて、色々暗躍してたんだと想像を掻き立てた。
そして、それから発展して、首相夫人の存在感や、仮想敵国への軟弱外交、仮想敵国につながる組織への多額献金を想像してしまって、なんだかこれはわが国で起きていることを描いた映画でもあったかのような気もしてきたのだ。
「吸血鬼」でポランスキーが虜になった妻シャロン・テートをカルト集団に惨殺され、年少者とのセックススキャンダルで逮捕され、保釈中に国外逃亡してしまい2度とアメリカに戻れなくなったポランスキー監督。
母国に帰れなくなってしまうラングはポランスキーの化身でもあったのだろうか?
永遠の流刑を受けているとも言えるポランスキーの孤独が二重写しになって見えるのは、彼に起きた出来事を知っているものの過剰反応なのだろうか。
この映画、一般公開に耐えうる重量感を持っていたと思うのだが、どうしてミニシアター公開だったのだろう?
まさかアメリカの圧力があったわけではあるまいに・・・。

この世界の片隅に

2019-06-07 07:00:12 | 映画
「この世界の片隅に」 2016年 日本


監督   片渕須直
声の出演 のん 細谷佳正 稲葉菜月 尾身美詞
     小野大輔 潘めぐみ 岩井七世 牛山茂
     新谷真弓 小山剛志 津田真澄 京田尚子

ストーリー
1944年(昭和19年)2月。絵を描くことが好きな18歳の少女・すず(声:のん)は、急に縁談話が持ち上がり、あれよあれよという間に広島市から海軍の街・呉に嫁にやってくる。
彼女を待っていた夫・北條周作(声:細谷佳正)は海軍で働く文官で、幼い頃に出会ったすずのことが忘れられずにいたという一途で優しい人だった。
こうして北條家に温かく迎えられたすずは、見知らぬ土地での生活に戸惑いつつも、健気に嫁としての仕事をこなしていく。
戦況が悪化し、配給物資が次第に減っていく中でも、すずは様々な工夫を凝らして北條家の暮らしを懸命に守っていく。
そんなある日、道に迷っていたところを助けられたのがきっかけで、遊女のリン(声:岩井七世)と仲良くなっていくすずだった。
やがて日本海軍の根拠地であるため呉は何度も空襲に遭い、いつも庭先から眺めていた軍艦が燃え、街は破壊され灰燼に帰していく。
すずが大切に思っていた身近なものたちが奪われていくが、日々の営みは続く。
そして昭和20年の夏を迎え……。


寸評
どことなくノスタルジックで温かみを感じさせる映像が、この映画の大きな魅力となっている。
アニメには違いないが作画は紙人形芝居を見ているような雰囲気でほのぼのとしている。
僕は能年玲奈改め「のん」という女優はあまり好きではないのだが、この作品におけるすずの声を担当した「のん」は非常にいい。
ボーっとした所がありながらも、健気にまっすぐ明るく生きるすずを的確に演じている。
声もいいし、セリフ回しも作品に溶け込んでいて、すずというキャラクターの魅力を存分に発揮している。
殊勲「甲」と言っても過言でない。

すずはいまから見れば随分と早婚だが、当時の婚期としては珍しくなかったのかもしれない。
結婚式で初めて相手の顔を知ったり、声を聞いたという話も聞いたことがある。
周作は冒頭の幻想的とも思える出会いですずを見染め、居所を探し出して求婚したその経緯は周作がすずを大切に扱い愛し続けた理由でもある。
すずは思いを寄せる男性がいたが、親が決めたと言ってもいいような結婚をしながらも、その相手を愛し始めていく様子がいじらしくもあり微笑ましい。

呉は軍港の町なので米軍の度重なる爆撃を受ける。
すずは病院の帰りに幼い晴美と道路の右側に落ちた時限爆弾にやられる。
右手をつないでいた晴美は亡くなり、すずは右手首を失ってしまう。
広島で爆撃に会った親子の母親は右手を失い左手をつないでいる。
すずは左手をつないでいればと自分を責めているが、どちらであっても同じ目に合うのであって、その時のさだめなのだとすずを慰めているように思える。
結局母を亡くしたその少女は、手首のないすずの右手を握るのである。
細かい演出だが、僕はこういう表現が好きだ。

この映画は声高な反戦映画ではない。
笑いを誘うようなエピソードを盛り込んで明るく描いていく。
すずが呉の軍港を写生していて憲兵にとがめられる場面などはその最たるものだが、出戻ってきた小姑との確執という家庭のもめ事もユーモアを交えて深刻なものとしていない。
すずの実家も、嫁ぎ先の北條家もつつましくも明るく過ごしているのである。
広島に投下された原爆によって、すずの両親は亡くなってしまい、妹のすみも原爆症を発症しているという状況でも、姉妹は寄り添って生きていくようでホッとする。
しかし、すずたちの願う「笑って過ごせる普通の暮らし」を奪ってしまうのが戦争の愚かさである事は変わらない。
その中でもたくましく生きる庶民は、戦争さえも凌駕する本当の強さを持っているのだと思わせた。
晴美を亡くした小姑の径子は孤児となった少女を育てるのだろうか。
この映画にわずかに残った希望でもある。
アニメだからこそ描きえた内容だが、アニメをあまり好まない僕は実写で見たいなという気持ちが湧いた。

この国の空

2019-06-06 12:58:43 | 映画
「この国の空」 2015年 日本


監督 荒井晴彦
出演 二階堂ふみ 長谷川博己 工藤夕貴 富田靖子
   滝沢涼子 斉藤とも子 北浦愛 富岡忠文
   川瀬陽太 利重剛 上田耕一 石橋蓮司 奥田瑛二

ストーリー
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)の東京。
杉並の住宅地に母(工藤夕貴)と2人で暮す19歳の里子(二階堂ふみ)。
度重なる空襲に怯え、食べものの確保にも苦労する日々が続く。
ある日、空襲で家族も自宅も失った横浜の伯母(富田靖子)が転がり込んでくる。
ただでさえ苦しい食糧事情の折だけに、母は当惑を隠さない。
隣家には、妻子を疎開させた銀行支店長の市毛(長谷川博己)が住んでいた。
市毛は徴兵検査の結果丙種となり赤紙を免れ、妻子を疎開させ一人東京に残っていた。
彼は一人暮らしだったため、里子は縁側のガラス戸が爆風で割れないように補強したり、庭で収穫した作物をおすそ分けするなどしていた
市毛が弾くヴァイオリンの音色が聞こえてくるとき、里子は心なごませることができた。
戦況は日を追うごとに悪化。
里子の心を占めているのは、空襲警報で眠れぬ夜を過ごす怖さでもなければ、ひもじい思いでもなければ、国に尽くそうといった愛国心でもなく、母とふたりで暮らす日々の侘しさなのだ。
終戦は間近だという噂もあるが、里子は到底結婚など望めそうもなくこのまま戦争で死んでいくのかもしれないという不安を抱える。
若い男は戦地に取られ、子供たちは疎開させられ、残ったのは女たちと老人と、徴兵検査で丙種とされた男ばかりという状況に里子はもどかしさを感じながら、満たされない何かに身をよじらせる。
一人で暮らす市毛の身辺の世話をしていくうちに、いつしか里子の中の女が目覚めていく――。


寸評
言ってみれば里子と市毛の不倫ドラマなのだが、時代が終戦間際となってくると違った趣を持ってくる。
若い男たちは出征しているし、東京大空襲を受けたあとなので多くの人々が田舎へと疎開している。
そんなわけで里子の周りには若い男がいない。
里子の家も母との女所帯で男手を市毛に頼っている。
市毛は銀行員だし、時折ヴァイオリンなどを奏でるいわばインテリだ。
里子から見れば市毛は歳が倍も離れているが、それでも周りを見渡せば唯一の若い男だ。
その彼に惹かれていく様子が感じ取れるが、前半で中心的に描かれるのは戦争末期の庶民の日常生活である。
人々は空襲に怯え、食糧調達に苦労しながらも、それなりに穏やかな日々を送っている。
配給に頼りきっている人たちは大変だったろうが、食料は有るところには有ったのだ。
私の生家も百姓で食料には苦労しなかったと聞いている。
里子はこのまま死んでいってしまうのでないかという漫然とした気持ちを抱いている。
それは青春を、恋を知らないで人生を終えてしまうのではないかという不安だ。
男を欲する気持ちでもある。
里子が畳をゴロゴロ転がりながら「そろそろ」とつぶやく姿は、そんな気持ちを代弁しているようでエロティックでさえあった。
戦争による死の恐怖が里子の恋愛をますます燃え上がらせ、それは市毛も同様なのだが急激に燃え上がるようなことはない。
ジリジリするような不倫模様が里子も戦争の犠牲者なのだと思わせる。
それがわかっているから母親も、隣の人には気を付けなさいと言いつつ、娘にこのまま何もないまま人生を終えさせるに忍びないと思って、見て見ぬふりをする。

私の母は三人姉妹の末っ子で、唯一の男である叔父が出征していて生命が保証されていない事情のため婚期を逃している。
家名のため叔父が無事帰還すれば嫁に行き、戦死すれば婿養子をとる必要があったためだ。
そのために無理な結婚をし、離婚も経験したある意味での戦争の犠牲者だった。
戦争は兵士となった男たちだけでなく、市井の人々の暮らしにも犠牲を強要している。
映画は戦争によって変わってしまった日常の中で、変わらない生身の人間の真実の姿を描いていたと思う。
もともと確執があったと思われる工藤夕貴の母親と富田靖子の叔母のやりとりが、戦時中でもあったであろう肉親のなかでの軋轢を普通のこととして描いて面白い。 工藤夕貴と富田靖子は好演であった。

終戦になると疎開している男の妻と子供が戻ってくる。
里子の「ほんとうの戦争はこれから始まる」というテロップは、その後に予想される本妻との不倫バトルを想像させるが、同時に里子の成長への決意でもあったと思う。
しかし、この役をやるのがなぜ二階堂ふみだったのかなあとずっと感じていた。
最後のストップモーションでもその思いは変わらなかった。
なぜだか理由はわからない。
喉に刺さった小骨のような、ほんのちょっとした違和感だ。

この愛のために撃て

2019-06-05 06:15:28 | 映画
「この愛のために撃て」 2010年 フランス


監督 フレッド・カヴァイエ
出演 ジル・ルルーシュ  エレナ・アナヤ
   ロシュディ・ゼム  ジェラール・ランヴァン
   ミレーユ・ペリエ  クレール・ペロ
   ムーサ・マースクリ ピエール・ブノワ
   ヴァレリー・ダッシュウッド

ストーリー
パリ市内の病院に勤務する看護助手のサミュエル(ジル・ルルーシュ)と、出産間近の妻ナディア(エレナ・アナヤ)は慎ましくも愛情にあふれた毎日を過ごしていた。
ナディアは出産を控えており、サミュエルも気が抜けない日々を送っている。
ある日、交通事故により意識不明になった重体の男が病院に運び込まれる。
その男の人工呼吸器が何者かによって切断されるという事態が起こったので、男は警察の監視下に置かれることになり、女性刑事部長のファーブル(ミレーユ・ペリエ)は何か思い出した時の連絡先として自分の名刺をサミュエルに渡す。
指紋照合の結果、ファーブルはその男が指名手配中の強盗殺人犯サルテ(ロシュディ・ゼム)だと知る。
一方、サミュエルは帰宅すると謎の侵入者に突然殴られ気を失ってしまい、妻を連れ去られてしまった。
携帯電話の音で目覚めると、電話の向こうから妻の泣き声とともに「今から3時間以内にお前が勤める病院から警察の監視下にある男を連れ出せ。さもなければ妻を殺す」という有無を言わさぬ脅迫の指示がはいる。
妻が誘拐された理由も分からぬうちに、必死の覚悟で犯人の要求に従うサミュエル。
意識不明の男がサルテと知ったファーブルは病院に向かうが、入れ違いで連れ出されたあとだった。
サルテをどうにか連れ出したものの、これによって警察からも追われる身となってしまうサミュエルだった。
サルテの担当は、別の課の刑事ヴェルネール(ジェラール・ランヴァン)らになってしまう。
その事に不満を持つファーブルは、独自で捜査を開始する。
誰一人味方のいない絶望的な状況下で、妻を救うためにサミュエルは全てを懸けて走り続ける……。


寸評
目を離すことができない逃亡劇が繰り広げられるが、逃亡劇しかないと言っても過言ではないほど逃げ回る主人公を追い続けているだけの作品である。
それにもかかわらず見せる映画になっているのは、この作品の持つスピーディさにある。
間延びのしないコンパクトさが魅力で、実際上映時間は1時間半を切っていて、2時間を丸々使わなければ損だとばかりに間延びした説明を繰り返す作品が多い中で、スピードこそが命と迫ってくるのはフランス映画らしい。
映画はいきなり冒頭から、何の説明もないままスピーディーな追跡劇が始まる。
腹のキズを手で押さえながら必死で逃げる謎の男サルテは途中で相棒の男と携帯で連絡が取れたが、追手の追跡によってついにトンネル内で追いつかれてしまい万事休すと思った途端、トンネル内を走ってきたバイクによってサルテがはねられてしまうという交通事故が発生し、現場の混乱で追跡者は止めを刺せない。
犯罪組織のもめ事かと思わせているのだが、そこから入院中のサルテの殺害未遂、看護助手のサミュエルの妻ナディアの誘拐事件とトントン拍子で進んでいく。
そしてサミュエルがサルテを病院から連れ出し、あとは追いつ追われつの逃亡劇が描き続けられる。
その描写は息をもつかせない。

多くの観客が興味を持っていたであろう、サルテは一体何者かという疑問が明かされるタイミングもいい。
追跡者はマフィアの一味かと思わす描き方だが、勘のいい映画ファンならかなり早い段階で彼等が何者かの察しは付くし、それしかないだろうというもので、観客としては納得できるものだ。
それを明らかにするタイミングもいいと思うし、表現も実に端的なもので一気に見せるのがいい。
警察内部のメンツ争いが上手い具合に盛り込まれていると思う。
サミュエルとサルテの間にある種の友情のようなものが芽生えていくのはパターンと言えばパターンなのだが、誘拐された妻が妊婦と言うのがその関係を後押ししている。
サルテの弟は誘拐したナディアを監禁しているのだが、彼女の体を心配して毛布を手渡してやる思いやりを見せることで、この兄弟は悪事を働いているがどこかに優しさと思いやりを持ち合わせていることを暗示している。

サルテは悪人仲間では信頼のおける人望ある人物らしい。
警察に潜り込む算段をマフィアのボスのような男に頼みに行く。
ボスはその依頼を承知し、仲間もサルテに協力を惜しまないようだと分かるが、興味は一体サルテはどのようにして警察に潜入するのかということに移る。
そしてその方法とは奇想天外なもので、なるほどと唸らされるし痛快である。
この頃になると僕を含めた観客はサルテに感情移入していて、サルテを応援していることだろう。
この映画の主人公はサミュエルなのだが、僕は断然サルテのロシュディ・ゼムに魅力を感じた。
もっとも、サミュエルのジル・ルルーシュも奥さんを愛するさえないオッサンを好演していて、「この愛のために撃て」は、奥さんへの愛のために命の危険を顧みない男というテーマをひねらないでストレートに描いているのがいいし、そのシンプルさが気持ちのいい作品となっている。
サスペンスとしても一級品で、誰でも十分に満足を得られるだろう。
ラストシーンの雰囲気もいい。

GONIN

2019-06-04 09:25:45 | 映画
「GONIN」 1995年 日本


監督 石井隆
出演 本木雅弘 ビートたけし 佐藤浩市 竹中直人
   根津甚八 椎名桔平 永島敏行 鶴見辰吾
   木村一八 室田日出男 横山めぐみ 永島暎子
   川上麻衣子 岩松了

ストーリー
かつてはヤングエグゼクティブとして雑誌に紹介されたこともあったディスコのオーナー・万代は、バブル崩壊で多額の借金を背負い、暴力団大越組の借金の取り立てに苦しんでいた。
ある夜、万代は新宿のバッティングセンターで、サラリーマン風の男・萩原に執拗にからまれ、反対に殴りつけると、萩原は呆気なく倒れて泣き出した。
リストラで会社を解雇された萩原は、職を求めて夜の街をさすらっていたのだ。
怪我をした萩原を車に乗せて店に帰った万代を待っていたのは、大越組組員による嫌がらせだった。
調子に乗って暴れる組員を、美貌の青年・三屋がナイフで刺した。
三屋はホモ男を恐喝して刑務所に入ったことがあり、それが万代の密告によるものと思い込み付け狙っていたのだが、三屋の誤解をとき、万代は一緒に仕事をしないかと持ちかける。
万代は、大越組の金庫に眠っている大金強奪を計画し、仲間を探している最中だった。
万代に憎しみとともに憧れも抱いていた三屋はそれを承諾する。
翌日、万代は借金の返済を延ばしてくれるよう、大越組に頼みに行った。
そこへ組員の金髪の青年・ジミーが、女の借金のことで文句を言いにきて幹部と大もめになってしまう。
ジミーは、タイ人の売春婦ナミィーのヒモだった。
その夜、ジミーを探しに行ったバーで、万代は用心棒をしている刑務所帰りの元刑事・氷頭に出会う。
氷頭は万代が現金強奪を計画した時から、仲間にしようと思っていた男だった。
事務所の内部に詳しいジミーも仲間に引き込んで、打ち合わせを行っているところへ萩原が現れ、なかば強引に仲間入りし、計画は五人で遂行される。
決して思い通りには運ばなかったものの、まんまと大金を手に入れた五人。
だが大越組は、大金と一緒にナミィーのパスポートが盗まれていたことに気づき、ナミィーと一緒にタイ逃亡を企てていたジミーを拉致、拷問する。
すぐに、主犯が万代らしいことを突き止めた大越らは、万代のディスコを襲撃するなど報復を開始する…。


寸評
シュールな映像から始まるが、僕はこんなシュールな映像から入る映画を見せられると、それだけで作品のなかにのめり込んでいってしまう。
シュールな映像は本題に入っても披露され、その映像は「なんで?」という疑問を吹き飛ばしてしまって、かつての鈴木清順の映画に通じるものがある。
元刑事の氷頭が分かれた妻子と食事をしているレストランで襲われるが、突如お客は誰もいなくなり、店員すらいなくなってしまっている。
「そんなわけないだろ…」と思うのだが、忍び寄る殺し屋を不気味な存在にする効果は抜群だ。
三屋が万代の遺骨をもってバスに乗っているが、三屋がどのようにして万代の遺骨を引き取ることができたのか疑問である。
警官が駆けつけている状態だったし、三屋だって事件の当事者の一人で、警察に遺骨を引き取りに行けるわけはなかっただろうに…。
そんな疑問などクソクラエの映画なのだ。
萩原が殺されるシーンなどは、まるでホラー映画だ。
竹中直人はいつもの演技なのだが、ここではちょっと狂った役を演じていて、その風貌と共にいいキャラクターだ。
そこで繰り広げられる殺し屋兄弟(ビートたけし・木村一八)のやり取りも面白い。
ビートたけしは尋常でない凶暴な人間をやらせると不可思議な雰囲気を出す稀有な役者だ。
大越の最後も演じた永島敏行の狂った男としての立ち回りが実に面白い。

五人はつまずきの人生を送っていてカッコよくない。
万代はディスコのオーナーだが暴力団からの借金返済に苦しんでいる。
サラリーマンの萩原はリストラにあい、3000万円のローンが残っていることもあって、そのことを家族に伝えられないでいる。
元刑事の氷頭は過去に事件を起こし、今は暴力バーの用心棒だ。
ジミーは大越組の組員でナミィとタイに逃亡しようとしているが、ナミィはパスポートを大越組に取り上げられている売春婦だ。
三屋はホモ男を恐喝するのを生業としているが、刑務所には入った恨みを万代に抱いている。
ダメ人間が集まってヤクザの金を奪い、身元がばれてヤクザに追われるという単純な話しながら、そのディテールが面白い。
描き方が映画的なのだ。
最後に三屋が残ることになってしまうが、展開と描き方からして、彼だけが生き延びることはあるまいと思っていたが、やはりという感じ。
それでもラストシーンはいい。
乗客は4人しかいないので、車窓を見つめる三屋を雑に確認する運転手のシーンがあり、やがてバスは発車するが二人は…。
もうすぐ万代の故郷という景色を見つめているかのような三屋(本木雅弘)の姿が哀愁を帯びていていい。

ゴッドファーザーPART Ⅲ

2019-06-03 07:12:58 | 映画
「ゴッドファーザーPART Ⅲ」 1990年 アメリカ


監督 フランシス・フォード・コッポラ
出演 アル・パチーノ    ダイアン・キートン
   アンディ・ガルシア  タリア・シャイア
   ソフィア・コッポラ  フランク・ダンブロシオ
   リチャード・ブライト ジョン・サヴェージ
   ジョージ・ハミルトン ブリジット・フォンダ
   イーライ・ウォラック ジョー・マンテーニャ
   ヘルムート・バーガー ラフ・ヴァローネ

ストーリー
父ビトーからコルレオーネ・ファミリーのドンの地位を継承したマイケル(アル・パチーノ)が、ファミリーの存続のため兄フレドを殺してから20年を経た1979年。
マイケルはバチカンのギルディ大司教(ドナル・ドネリー)と手を結び、ファミリーの永続的な繁栄を図ろうとする。
しかしオペラ歌手をめざす息子アンソニー(フランク・ダンブロージョ)はそんな父と反目し合っていた。
マイケルのカトリック教会からの叙勲を祝うパーティーの席上で、マイケルは10年前に別れた妻ケイ(ダイアン・キートン)と再会する。
そしてそこにはマイケルの妹、コニー(タリア・シャイア)がファミリーの後継者にと思って連れてきた長兄の故ソニーの息子ヴィンセント(アンディ・ガルシア)の姿もあった。
マイケルの娘メリーは従兄ヴィンセントに運命的な愛の予感を覚えてゆく…。
かつてのコルレオーネ家の縄張りはジョーイ・ザザ(ジョー・マンティーニャ)によって牛耳られていた。
マイケルはザザの配下にいたヴィンセントを自分のもとに置き、後継者として育てようとするが、そのことを契機にザザとヴィンセントの抗争が表面化し、暴力沙汰が起こってしまう。
一方、マイケルはB・J・ハリソン(ジョージ・ハミルトン)を新たな片腕として大司教との契約にこぎつけようとしていたが、法王の突然の発病で危機に直面する。
そんなある日、父と和解したアンソニーのオペラ・デビューが決まり、ファミリーはその発祥の地であるシシリーに集まったが、敵の手もすぐ近くに忍び寄り、オペラの最中にボディ・ガードが殺される。
そして上演後の拍手喝采のあと、外に出たマイケルに向けて銃が放たれた。


寸評
バチカンの腐敗を描いたことでシリーズの3本ともがアカデミー賞の作品賞を得ることが出来なかったが、宗教的に無関係な僕から見れば本作も十分にその栄誉に属しても良い作品となっている。
父ビトーから引き継いだマイケルの半生記が綴られ見応えがある。
敵対組織がヘリコプターで高層階の外に現れ機関銃を室内に撃ちまくる壮絶なシーンもあるが、何といってもラストのオペラ上演シーンの迫力が見どころだ。

父マイケルの希望に反抗して歌手の道を目指した息子アンソニーの凱旋公演が催される。
前作で登場した父マイケルへのプレゼントとして描いた子供の頃の車の絵が登場し、父子確執の雪解けを伺わせて公演を楽しむマイケルの心情が伝わってくる。
コルネオーネ一家は貴賓席で公演を鑑賞しているが、マイケル暗殺を指示された殺し屋が中央に座る彼を射殺しようと狙っている。
一方でマイケル側もヴィンセントの指示でバチカン側の敵対人物を暗殺しようとバチカンに乗り込んでいる。
劇場の別の貴賓席にいる裏切り者もコニーによって毒殺されようとしている。
殺し屋がマイケルに照準を合わせるまでの動き、暗殺のためにバチカンに向かったマイケルの子分たち、裏切り者の様子などが、劇中劇のオペラとカットバックされるような形で挿入されていく。
オペラの盛り上がりと、スリリングな展開の盛り上がりがシンクロして思わず握りしめたこぶしに力が入る。
そして悲劇が起き、マイケルのアップが画面いっぱいに映し出される。
この畳みかけるような演出に酔いしれてしまう。

兄のフレドを殺してから20年と言うことで、今回は新たに殺された長男ソニーの息子としてアンディ・ガルシアが登場しているのだが、彼が演じるヴィンセントは父親譲りの短気な男である。
頭に血が上るとすぐに行動に移してしまう性格で、たびたびマイケルに諫められている。
それでも年老いたマイケルはファミリーをヴィンセントに託さざるを得ない。
ドン・コルネオーネになったヴィンセントに対し、ファミリーのメンバーが従っていく意思表示として手に口づけをするシーンは第一作のラストシーンを思い起こさせる。
組織のドンに就任することでメアリーを諦めるアンディ・ガルシアが、それを決意した以降は急にドンらしくなっていて、地位は人を育てるといった感じがよく出ている。

マイケルは兄のフレドを殺した罪悪感をずっと感じているのだが、それでも組織存続のために非情になる二面性が失われていない。
再会した元妻のケリーに自分をわかってほしい、今も愛している、ギャング家業から足を洗うと切々と訴えるのだが、その時もたらされた情報を聞いて相手の抹殺を命じる。
遠目でその姿を眺めるケリーの姿は第一作のラストシーンで見せたものだ。
表の顔と、裏の顔を使い分けるマイケルの二面性を再び見た絶望感でもある。
マイケルは走馬灯の様な人生を思い浮かべながら、父が倒れた時のように彼もまた倒れる。
親子二代にわたる壮大な物語で、これだけの水準を保ち続けたシリーズは稀有である。

ゴッドファーザーPART II

2019-06-02 09:52:28 | 映画
「ゴッドファーザーPART II」 1974年 アメリカ


監督 フランシス・フォード・コッポラ
出演 アル・パチーノ    ロバート・デュヴァル
   ダイアン・キートン  ロバート・デ・ニーロ
   ジョン・カザール   タリア・シャイア
   リー・ストラスバーグ マイケル・V・ガッツォ
   マリアンナ・ヒル   ハリー・ディーン・スタントン
   ダニー・アイエロ   ジェームズ・カーン
   トロイ・ドナヒュー  ジョー・スピネル

ストーリー
ドン・マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)は、近くに収入源のラスベガスが控えていたから根拠地をニューヨークから西部のネバダ州タホー湖畔に移していた。
マイケルは、ことあるごとに父ビトー・コルレオーネの偉大さを思うのだった。
リトル・イタリアで成長したビトー(ロバート・デ・ニーロ)は、あらゆる職業を経て、次第に頭角を現し、移民の信望を集めるようになって、彼のもとには弱い人々がさまざまな願いをもって訪れる。
その街を牛耳る悪玉ボスのチッチオを仕とめたのは町をあげてのお祭りの夜だった・・・。
1958年。タホー湖畔にある教会ではマイケルの一人息子アンソニーの聖さん式が行われていた。
城のような大邸宅では大パーティが催され、マイケル、妻ケイ(ダイアン・キートン)とアンソニー、ママ・コルレオーネ(モーガナ・キング)、マイケルの兄フレド(ジョン・カザール)、その妻、妹のコニー(タリア・シャイア)とその恋人(トロイ・ドナヒュー)、相談役トム・ヘーゲン(ロバート・デュヴァル)などの顔が見える。
パーティが終わり、その夜、マイケルの部屋に何者かが機関銃を乱射した。
犯人はマイアミの大ボス、ハイマン・ロス(リー・ストラスバーグ)の腹心ロサト兄弟だった。
マイケルはハイマン・ロスと一対一で会い、自分を襲ったロサト兄弟と、その事件に内通したペンタンジェリ(マイケル・ヴィンセント・ガッツォー)を処分することを宣言した。
ハイマン・ロスとの手打ちの場所でペンタンジェリは暗殺されそうになるが、一命を取り留める。
驚くべきことに、兄のフレドまでもが、コルレオーネ家の情報をハイマン・ロスに流していた。


寸評
この映画では、二つの物語が同時進行で語られる。
一つ目の物語の舞台は1958年から1959年で、前作に続くマイケル・コルレオーネのその後の姿が描かれる。
もう一方の物語は1901年から1941年までの、マイケルの父ビトー・コルレオーネの在りし日の姿を描く。
幼い頃にニューヨークに渡りコルレオーネ・ファミリーを築いていく父ビトーの物語が、現在のファミリーを守るために戦う三男マイケルの物語と交錯するように描かれていく。

幼い頃のビトーはシチリアのマフィアに父と母を殺され、単身アメリカにわたっていく。
やがて青年となり下積みの生活をへて子供も生まれ、同郷の者の面倒も見てやりながら頭角を現していく。
そのようにして苦労しながら築いたファミリーという遺産を、後を継いだマイケルが必死で守ろうとしていると思わせる巧みなカメラワークと画面の切り替えが素晴らしい。
ビトー・コルネオーネは故郷に帰り父と母の仇討ちを果たすが、やられたらやり返すというマフィアの鉄則を父が示したとも言える父ビトー・コルネオーネの物語だった。

マイケルの物語は、父のあとを継ぎドンとなったマイケルが、父がそうであった頃と全く変わってしまった時代の中でのドンとしての苦悩を描くものである。
マイケルの息子アンソニーの聖さん式が行われたその夜に、マイケルの寝室に機関銃が撃ち込まれる。
自分の命を狙った者への復讐劇がマイケルの物語の中心となっているが、肉親との確執などによって孤独に陥っていくマイケルの姿もあぶりだされていく。

マイケルの兄のフレドはひ弱で能力がないのだが、弟に指図されることに鬱積したものをずっと感じている。
フレドはそのひ弱さをつかれてマイケルを裏切るような行動を取ってしまう。
愚兄賢弟というが、優秀な弟を持った兄の苦悩に同情もしてしまう。
妹はそんな兄をかばうが、組織のためには私情を挟めないのもつらいし、息子のアンソニーが不出来な兄になついているのも悲しみをあおる。
マイケルは組織を守るために、徐々にドンとしての行為がエスカレートしていき、妻のケイはそんなマイケルについていけない。
ついにケイはマイケルの子供の出産を拒み別れていくことになるが、そんなケイにマイケルは非情だ。
内緒で訪ねてきたケイが息子のアンソニーに別れのキスを求めていても静かにドアを締め切ってしまう。
その非情さは肉親にも、元の仲間にも及ぶ。
孤独に耐えかね、かつての一家だんらんを懐かしむが彼の周りからは家族が消えていっている。
その孤独感を伝えるラストにおけるアル・パチーノの表情が痛々しい。

父ビトー・コルネオーネと息子マイケル・コルネオーネの物語が実に巧みに交差しながら展開してゆく。
複雑な人間関係を重厚に描いた巧みな脚本、をゴードン・ウィリスのカメラが美しい画調でサポートしている。
若きビトー役のロバート・デ・ニーロの卓越した演技に、ニーノ・ロータの素晴らしい音楽が重なる。
本作も前作同様、映画全編全てが魅力の傑作である。

ゴッドファーザー

2019-06-01 10:25:16 | 映画
「ゴッドファーザー」 1972年 アメリカ


監督 フランシス・フォード・コッポラ
出演 マーロン・ブランド アル・パチーノ
   ジェームズ・カーン ジョン・カザール
   ダイアン・キートン ロバート・デュヴァル
   タリア・シャイア  リチャード・カステラーノ
   ジョン・マーリー  スターリング・ヘイドン

ストーリー
コルレオーネ(マーロン・ブランド)の屋敷では、彼の娘コニー(タリア・シャイア)の結婚式が行なわれていた。
ボスのドン・コルレオーネは、相手が貧しく微力でも助けを求めてくれば親身になってどんな困難な問題でも解決してやり、報酬といえば友情の証と“ドン”あるいは“ゴッドファーザー”という愛情のこもった尊称だけだった。
ドンのお気に入りの名付け子で、歌手として成功したが今は落ち目になっているジョニー・フォンテーン(アル・マルティーノ)もその1人で、新作映画で彼にきわめつけの役をハリウッドで絶大な権力を持つプロデューサー、ウォルツ(ジョン・マーレイ)からその主役をもらえずにいた。
ある朝、目を覚ましたウォルツのベッドの中に、60万ドルで買い入れた自慢の競走馬の首が転がっていた。
それからしばらくしてフォンテーンの許に、その新作の大役があたえられた。
ある日、麻薬を商売にしている危険な男ソロッツォ(アル・レッティエーリ)が仕事を持ちかけてきたが断った。
ソロッツォは、ドンさえ殺せば取引は成立すると思い、彼を狙った。
早い冬の夕暮れ、ドンは街頭でソロッツォの部下に数発の銃弾を浴びせられたが一命はとりとめた。
ソロッツォの後にはタッタリア・ファミリーがあり、ニューヨークの五大ファミリーが動いて戦いが始まった。
末の息子マイケル(アル・パシーノ)は、一族の仕事には加わらず正業につくことを望んでいたが、父の狙撃が伝えられるや、病院に駈けつけ、咄嗟の策で2度目の襲撃からドンの命を救った。
ドンの家では長男のソニー(ジェームズ・カーン)が部下を指揮し、ドンの復讐を誓ったが、一家の養子で顧問役のトム・ハーゲン(ロバート・デュヴァル)は、五大ファミリーとの全面戦争を避けようと工作していた。
危険を感じたマイケルはソロッツォを殺害し、父の故郷シシリーへ身を隠した。
タッタリアとの闘いは熾烈をきわめ、ソニーは持ち前の衝動的な性格が災いして敵の罠に落ち殺された。
シシリーではマイケルが暗殺から逃れ、アメリカに帰った彼はドンのあとを継いでボスの位置についた。


寸評
見終るとフゥーッとため息が出るくらい緊張感を保った重厚なギャング映画である。
マフィアを描いた作品としてはこれほどの作品はない。
冒頭は圧倒的な実在感で繰り広げられる結婚式のシーンだ。
その合間に同郷の者たちがドン・コルネオーネに泣き言を言ってくるが、ドンはそれらの問題を引き受けてやる。
ドンの人柄とファミリーの結束を見事なテンポで描いていくので、最初から映画世界に引きずり込まれてしまう。
このドン・コルネオーネのマーロン・ブランドが年老いたドンを見事に演じ、その風貌としわがれた声で圧倒的な存在感を示す。
先ず最初に描かれるのがフランク・シナトラがモデルとも言われるジョニーにまつわる話である。
復活を期す彼の出演を拒み続ける映画のプロデューサーが目を覚ますと、血まみれになった愛馬の首がベッドから現れるショッキングなシーンが冒頭で強烈な印象を残す。

コルネオーネはマフィアだが麻薬には手を出さない節度を持っている。
5大ファミリーの会合シーンでは、麻薬を青少年に売ってはいけないなどと言うボスを登場させて、場違いな正義を描いたかと思うと、その後すぐに黒人には売ることにしようなどと人種差別容認ともとれることを認めている。
この会合シーンは短いながらも、なかなかな息詰まるシーンとなっている。
スリリングなのは、ドン・コルネオーネが果物屋の店先で撃たれるシーン、あるいはマイケルが深夜に重体の父が入院中の病院を見舞った時に、警察とグルになった対抗組織の襲撃計画を間一髪でかわす場面などで、一瞬たりとも息を抜かせない展開にしびれてしまう。

マイケルがレストランで対抗組織のボスと、ボスと結託している警部を射殺するまでのくだりの緊迫感、ソニーが有料道路の料金所で蜂の巣になる壮絶なシーンも見逃せない。
この二つのシーンにおいて、沈着冷静に事を運ぶ弟のマイケルと、瞬間湯沸器的でカッときたら見境をなくす兄のソニーの違いを見事に描き分けていたと思う。
しかもそのソニーの暗殺は仕組まれたことであり、その後始末の描き方もマフィアの結束と非情さをものの見事に描いていて、脚本の素晴らしさにも唸らされる。
マイケルの見事なまでの作戦で、敵対するファミリーをせん滅するのだが、それを描くのにギャングの騒々しい抗争を選ばず静かに描き切ったことに僕は身震いしてしまった。
マイケルの子供が教会で洗礼を受けている。
神父の問いかけに「守ります」とマイケルが淡々と答え続けている洗礼式が見事なショットでとらえられ、あくまでも静かな教会の様子が映し出される。
その合間に敵対マフィアの殺戮が次々と行われていく見事なカットバックが素晴らしい。
まさしく映画と思わせる美しいシーンだ。
この映画を単なるギャング映画としていないのは、緻密な人間描写を丁寧に描き、そして重厚な人間関係をも丁寧に描き切っていることだ。
この映画の魅力を語りだせば、誰もが一言発したくなり、語っても語り尽くせない見事な作品となっている。
新たなドンの誕生と妻の不安を示すラストシーンは滅茶苦茶いい。