平成28年10月15日(土)
この秋より、「月刊日本」誌に連載を再開することになった。
以前、「歴史に学ぶ」という題で連載していたが、
その平成十九年八月から同二十四年十二月までの掲載文を
「支那討つべし」(K&Kプレス)という単行本にまとめて連載を中止していた。
そして、四年の歳月を経て、
この度、新たに「新・歴史に学ぶ」と題して連載を再開する次第となった。
我が国に迫る危機を概観すれば、内外の情勢はまことに厳しい。
世界秩序保持者としてのアメリカ崩壊と、
連動して台頭する中共の軍事的脅威、
またその裏側の内蔵においてガン細胞のように増殖する中共の内部崩壊の危機、
さらに北朝鮮の核弾頭ミサイル危機、
さらに、「日露交渉」という危機(この危機については、本通信で指摘した)・・・。
しかし、一番の危機は、我が国の内部にある。
即ち、我が国における国家像の喪失つまり歴史認識の危機である。
もちろん、地震・津波・噴火・豪雨などの自然災害、
また、少子化、地方の衰微と経済の長期低迷などの社会の衰退現象も危機である。
その中で、何よりも深刻な危機は、祖国(国家)喪失の危機である。
「戦後という時期の日本」は、
多くの同胞が北朝鮮に拉致抑留されているのを知っているのに、
竹島が奪われ尖閣が侵され北方領土にロシア軍基地が建設されているのに、
見て見ぬふりをして過ごしてきた。
同時に我が祖国のために命を献げた英霊が祀られている靖国神社に
参拝するなと中共や韓国が騒ぐと、
総理大臣は、「痛恨の思い」で、参拝をケロリと諦めるのが常態化している。
この我が国の内部にある危機が国を滅ぼす。
明治の田中正造翁が百年前に言った、
「亡国を知らざればこれ即ち亡国」
これがまさに現在の最大の危機なのだ。
何故なら、我が国内部におけるこの危機を克服できなければ、
我が国を取り巻く外部の危機を察知し、
それを克服できないからだ。
以上の痛切な問題意識から、この度、「月刊日本」誌上で連載を始めることにした。
次ぎに、連載再開の原稿を掲載して、
諸兄姉に、「これからも、よろしく」とお願い申し上げます。
月刊日本 十月号
本誌主幹、南丘喜八郎氏の同志的友情により再び連載を始めることになった。
題して「新 歴史に学ぶ」である。心を引き締めて連載に臨みたい。
もとより、私は、法曹界や政界に生きて歴史研究に打ち込んだこともない、いわば無学で非才の身であり、「学問」を提供するが如く記述することは不可能である。しかしながら、かつて生きた先人を師として現在に甦らせ、その志を現在に生かすという実践者としての観点から、諸兄姉と共に、「歴史に学ぶ」ことはできる。
では、その実践目的は何か。それは、「日本の再興」である。それ故、連載を始めるにあたり、まず我が祖国日本の個性、即ち、「国体(國體)」に関して記したい。何故なら、我が国における国家の再興と国民の覚醒は、「国体」の自覚から始まるからだ。
まず、明治維新を振りかえる。義務教育においては、明治維新によって、我が国の統治機構が、封建的な徳川幕藩体制から欧米諸国と同様の近代国民国家へ改革されたと教えられる。しかし、明治維新は、単なる「統治機構」の変革に止まるのではなく、それに先立つ慶応三年の「王政復古の大号令」によって開始されたことを忘れてはならない。即ち、日本的改革とは、「復古」である。そこで、「王政復古の大号令」を観るに、驚くべきことに「神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と書いてある。云うまでもなく、神武天皇は、我が国の初代の天皇で、今上陛下は、この神武天皇から百二十五代の天皇である。そして、我が国の近代化は、この神武創業の志に基づいたのであった。これが、明治維新である。
ここにおいて、我が国と社会を支える根本規範は、同じく近代国家である欧米諸国の国家と社会の成り立ちの基礎をなす思想とは全く違うことを確認せねばならない。
欧米の思想は、王の権力はキリスト教のゴッドから授けられたものであり(王権神授説)、社会は、自然状態では万人の万人に対する闘争となるので、それを解決するために、自由で自立した個々人が契約して成り立っているというものである(社会契約説)。
これに対して、我が日本は、天照大神の「天壌無窮の神勅」によって神武天皇が天皇となり、その天皇と家族のように一体となった大御宝(おおみたから、国民)が日本という天皇を戴く国家と社会を形成した。そして、明治維新の近代国家への改革に当たり、王政復古の大号令によって、この国の成り立ちの肇(はじめ)の姿に基づくことが確認されたのだ。
昭和四十五年十一月二十五日に市ヶ谷台で割腹自決した三島由紀夫は、日本において命にかえて大切なものは「天壌無窮の神勅」と「三種の神器」であると云った。
また、吉田松陰も友人に次のように書き送った。「天祖の神勅に日嗣之隆興天壌無窮と之有り候所、神勅相違なければ日本未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずある也、只今の時勢に頓着するは、神勅を疑うの罪軽からざる也」。
死を目前にした三島由紀夫と吉田松陰の二人が天壌無窮の神勅について、このように云う。それ故、我が国の肇を示すこの神勅を次ぎに記す。
豊葦葦原の千五百秋(ちいほあき)瑞穂国は、是吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地なり。
宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。
行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當に天壌(あめつち)と與(とも)に窮(きわま)り無かるべし。
この神勅によって我が国に天皇が誕生する。そして、百二十五代の今上陛下に至るまで万世一系の皇祚(こうそ)を践まれて祖霊を継承された天皇が存在してきた。
それ故、昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法と題された文書」の第一条に、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する国民の総意に基づく」とあるのは、ウソである。天皇の地位は、天照大神の天壌無窮の神勅によるのである。日本人なら、こう、言い切らねばならない。
では、この天皇と民との関係を如何に捉えればいいのか。それは、神勅の「就きて治せ」にある「治せ」という言葉の意味に注目することによって解ける。何故なら、古事記にある大国主神の「国譲り」の物語を知れば分かるように、太古から我が国では、単なる権力者の統治と、天皇の統治を画然と区別していたからである。
国譲りの物語は、天照大神が建御雷神(たけみかづちのかみ)を使者にして出雲の海岸に上陸させ、その地の支配者である大国主神に次のように告げたことから始まる。
「汝が『うしはける』葦原中国(なかつくに)は我が御子の『しらす』国ぞと事依(よ)さしたまひき。故(かれ)、汝の心は奈何(いか)に」
この天照大神の言葉に接し、大国主神は、自らが「うしはく国」を、天照大神の御子の「しらす国」に譲る決心をする。では、「うしはく」と「しらす」の違いは何か(以下、元侍従次長木下道雄著「宮中見聞録」より)。
うしはく・・・ある地方の土地、人民を、我が物として、即ち我が私有物として、領有支配すること。
しらす・・・人が外物と接する場合、即ち、見るも、聞くも、嗅ぐも、飲むも、食うも、知るも、みな、自分以外にある他の物を、我が身に受け入れて、他の物と我とが一つになること、即ち、自他の区別がなくなって、一つに溶けこんでしまうこと。
即ち、大国主神は、自分が権力者として支配する国を、天皇が民と自他の区別無く一体になる国に、譲り渡したのだ。しかも、これを戦いに敗れて行ったのではなく、天照大神の言葉に従って為した。この時、太古において、世界政治史上起こりえないことが我が国で起こったことになる。そして、現在に至る我が国の姿(国体)はこの時に造られた。
まさに、美智子皇后陛下が、大国主神を祀る出雲大社に参拝されたときに詠まれた御歌の通りである。「國譲り祀られましし大神の奇しき御業を偲びてやまむ」
これに対して欧米の政治思想では、国家は、主権のある者と主権のない者に二分されている。そして、王権神授説によって授けられた王の主権を、王の首を斬って国民の主権として奪取することが近代のコペルニクス的転換だと教えている。さらに、二十世紀に入っても、欧米思想では、ブルジョア独裁を打倒してプロレタリアート独裁を樹立することが天国に至る道だと同じ発想で闘争を繰り返し、我が国にも同調者がいる。このような欧米政治思想の延長線上では、この先も、闘争による主権や権力の変革が明るい未来を開く式の惨状をもたらすイデオロギーが生まれ、その信奉者がもて囃される現象が繰り返し起こるであろう。是は、易姓革命の国である支那も同じである。
しかし、天皇のしらす国である我が国においては、国内は二分されず、家族のように一体であり、天皇を戴いて「和」を貴ぶ。従って、西欧人が近世にコペルニクス的転換としているものは既に国の肇から当たり前のことである。民と天皇は家族のように一体であるからである。明治十年代に、伊藤博文らがドイツやオーストリーに赴いて外国人学者から憲法の教えを受けているとき、国内に留まって我が国の歴史と古典の研究に寝食を忘れて没頭し、天皇の「しらす」意味を探求して大日本帝国憲法を起草した井上毅は、「主権」という言葉を決して使わなかった。天皇のしらす国である我が国では、国内は主権の有る無しによって二分されておらず家族のように一体であるからだ。
西村眞悟の時事通信より。