賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

正規社員と非正規社員と自営業の壁

2024-11-16 17:30:22 | メンタル
壁を語るならそこからでしょ。

そう感じます。

正規とか非正規とかが現代では区別する必要がありますか?

まずは103万円の所得を超えたら課税するって、所得税は普通に徴収したら良いでしょ。

ただし、率が変化するのはまぁ、あり。

106万円の壁っていうのは厚生年金を必要とするかどうかですよね。

そもそも厚生年金の仕組みの必要性の課題が大きい。

どうしてそういう計算をするのか?

なぜ折半で個人と会社とで年金を徴収する必要があるのか?

今の時代に合わなくないですか?

雇用するなら金をくれ!

雇用されても金をくれ!!

年金の財源が既に国債から回ってることすら既にオカシイことになってる。

昔からそういう約束で国の政治を今の日本政府に任せてあるから、ずっと約束をはたさないといけない、というなら国が一般企業のように破綻したらどうする?

このままズルズルと倒産するかもしれないならば、別の政府に任せるしかないか。

だからウダウダ言い訳をしながら財源を徴収してるってか?

騙すような言い訳をしながら。

でもって国民もお金をくれるなら騙されふり。

今に破綻するのが見えてきたら、国民たちはどうする?

むしろ、高齢者はこの国から逃げられない。

けれど、自分が死ぬまではお金を欲しがるんでしょうな。

死んだらその時はその時。

さっさと死なないからオカシクなる、っていう発想はない。

むしろ、医学の発展がそれを阻害してる。

意味のない高齢者を延命してお金を稼ぐんでしょ。

なんだかなぁ、オカシイのはお金の基本的な考え方。

だから年金というモノがそもそもオカシイ仕組みになってる。

そして、3万円のばら撒きをまたするって、いうのも税金が払えない人に税金からばら撒くんでしょ。

誰かが言ってましたが、
「税金を収めてない連中が税金からお金をもらえる世の中はオカシクないか」と。

確かに。

税金はボランティアのなってませんか?

でもって、中途半端に貧乏な人はそこそこの税をむしり取られる。

で、そのレベルの人が一番人口が多い。

従って、貪れる人口の多い民衆集団から貪りとる。

言い訳はそこをうまく言い逃れできる言葉に特化したモノであり、それをうまく思いつく賢いエキスパート詐欺集団が財務省で高額の給与がもらえる。

法にう触れない詐欺を思いつく事が生き抜くための必要な学問のように思えてきますな。

話を戻して、正規社員とか非正規社員とかの言葉を暗示にかかったまま受け入れてる民衆はそこをうまく出し抜く方法を考えないといけないのかもしれない。

非正規として税を支払わないで、正規社員の上前を跳ねるくらいの所得を稼ぐ事ができるか?

そのくらいの思考をしないといけないのではないか、と。

今の政治は税という名前でうまくお金を吸い取る仕組みを作ったのです。

厚生年金という仕組み。

そこで控除という奇妙な仕組みで一般の会社で仕事をさせてとことん働かせる仕組みに変えた、と。

その控除という仕組みではなかなかうまくお金を吸い上げる事が難しくなったので、そのいわゆる『106万円の壁』を撤去して多くの少食の人からもお金を吸い上げる仕組みに変えようとしてる。

そこに至る言葉の材料に『103万円の壁』という言葉を引用してる。

103万円とか106万円とか言って、同じ意味で国民の生活がよくなるような印象を持たせ、最後には年金破綻に陥る。

少子化って、未来の 社会保障の財源を吸い上げるべく人口が居ないので、年金と言えるレベルの仕組みは破綻しますがな、絶対に。

つまり、103万円とか106万円という言葉遊びにしかならない事で、お金を吸い上げられるだけ吸い上げようとしてるわけでしょ。

将来、ほぼ意味のないことに多額の税金が使われてる。

このさい、国民が裏金をいかにうまく所有するか、って考えるようになるのは必須でしょ。

つまり、税金をいかに納めないで、うまく使うかでしょ。

そういう意味では「節税」なんて言葉も既にオカシイ。

税金を払わないで済む仕組み。

こうなったら、国民みんな無職になって、社会保障を請求したらどうするのって言いたくもなる。

「わたしゃ身体が弱いから働けません」て。

「精神疾患です」、とか、ちょっと暴れて盗みをしたりして、ナイフで身体を傷つけたりして。

そいういう人だらけになるんじゃないか、と。

既に、ズルくない真面目な人たちは奴隷と化してる。

そういう真面目な国民全員が馬鹿馬鹿しくなるのは時間の問題だな、と感じます。

賢い人はどうしてるのか?

そんなこと、ネットで検索したら、きっとそこを狙う詐欺連中に狙われる。

今の社会は詐欺だらけですから。
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刺激を求める人は嫌なことをそこでストレス解消しようとしてるかららしい

2024-11-16 07:28:26 | メンタル
激辛料理を食する人がいます。

テレビでも激辛の食べ物がどの程度食べられるかを競い合う番組をしてるのを観ることがあります。

コメンテーターの医師が激辛を好む人は日常のストレスを発散する行為として激辛料理を好む事が多いらしいと言ってました。

そこ少しを考えてみました。

つまり、例えば、傷を負って痛い場合、その痛みよりも痛い事があると最初の痛みを上回り、元々の痛みを感じなくできる、という事でしょうかね。

とても辛い物を食べることによって今までの心理的なストレスを考えなくて済む。

自傷行為に似てる気がします。

それは、自分よりも不幸な人を見て、自分は恵まれてると感じようとすることにも似てる気がします。

他人と比較して優位性を求める行為。

自己の感覚の内側で比較的な優位性を個別に求めることでしょうか。

心の傷を味覚の刺激で消そうとする行為。

だから味覚でなく、身体に傷を負わせることで真的なストレスを消そうとすると自傷行為になる。

ならば、ストレス解消に甘いものを食する人はどうなのでしょうか。

同じなのでしょうか。

目的は同じでも、おそらく甘い食べ物を食する人は刺激が弱いからその量を大量に食するのではないでしょうか。

過食症。

病的な食は太るだけでは終わらないかもしれない。

逆に拒食症というのもある。

食を拒絶する行為。

まぁ、いずれにしても強すぎる刺激によって避けたい痛みを消そうとするのでしょう。

たいての場合は心の痛みを消そうとする。

心の痛みって何だ?

考えなければ心は起こらない?

意識は考えることにある気もしますが。

従って、仏教の言うように考えない訓練が良さそうにも思います。

そこに『禅』があるのかな?

しかし、考えてしまう。

今の私のように。

考えることが好きなのでしょう。

いくらでも考えて考えて考えて、考え込んで寝込んでしまう。

寝込むことができれば良いけれど、その前に自傷行為に走る。

私の場合は、考えを言葉にして、活字にして、どこかに放り込む。

それがどこかが問題なのかもしれないですが。

空間ならば問題ないか?

今はおそらく『誰か』を意識してる。

結局は、巷、世間、全てが認める「対人関係」の中に放り込む。

そこに問題がある。

しかし、アドラーが言った「人の悩みは全て対人関係にある」にたどり着くのかもしれないです。

やはり、リモートなどでは解消できない問題が人の心の中に存在してる気もします。

会社に出社するのを拒否する意味は、効率の中にあるというけれど、人と人が直接会うことには、前述の意味があるならば、それは全く違った意味になります。

効率と言うならば、心的な意味で何か必要なモノがそこにある気がします。

ストレスが何処に有って、何を求めてるのかはそれぞれのTPOで変化する様な、そんな気もします。
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拉致問題

2024-11-16 06:21:42 | 暴言
拉致問題について聞いた。

小泉純一郎首相が北朝鮮と拉致問題を話し合うまでは拉致家族の事は放置されていたらしい。

詳細は分かりにくい問題でもあるのだが、拉致家族を返せと政治家が言っていなかったようだ。

そこでなんとなく感じることがある。

北朝鮮の政治家に対して、拉致家族を返せ!と言うことが相手の印象を悪くすると思って、日本の政治家が敢えて言わなかったのではないかと感じるのである。

非常にデリケートな問題なのだけれども、日本特有の感覚、「控えめな言動を重んじる」人種の感覚があるのではないかと思う。

例えば、中国人などは良いことであろうが悪いことであろうが、自分がやりたいことに対して、自己主張をはっきりと言葉に出して 強く主張する。

自己主張したことに対して、相手がどう返すかは、それからの問題だ。

まずは自分がどうしたいか と、それに対しての自己主張をする。

そこから全てが始まる。

ところが、日本人が持っている感覚の中には、自己主張を控えることが美徳という気持ちが存在しているように思う。

ズケズケとものを言う事は良いことではない。

そういう文化があるのではないか。

図々しい人だと言われる事は良くないと思っていないか。

厚かましいと言われることがよくないことだと思っていないか。

自分が思ったことを言うことが「変な人だ」と思われるのではないかとか、「自分の素直な感覚を他人に言うことを控える」気持ち。

そういう文化があるのではないか。

その感覚を「相手を思いやることだ」と言う奇妙な美徳心につなげているのではないだろうか。

そういう文化があるから、よその国にはない「奇妙な複雑な仕組み」を日本の文化や政治の中に作り上げてしまっている気がする。

そしてそこに時間とコストがかかりすぎて、急いで何かをすると言うことができない。

今の日本国はそうなっていないか。

かつて、
戦国時代の武将たちは、戦いの場においてとにかく先手を打った方が勝ちと言う場合が多かったと思う。

強かったのは、織田信長とか、武田信玄とか、戦い方が荒いと言われようが奇妙だと言われようが、卑怯だと言われようが、そういう意識は持っていなかったと思う。

「他人がどう思うか」よりも、「何をなさねばならないか」、結論に直結することを素早く見抜いて実行する。

それが戦国時代の戦い方であったと思われる。

最近は、世界が混沌としている手をこまねいている場合ではない。

その時に、今のような考え方をしていては待っているのは滅びの道につながる。

そうなると最早 拉致家族がどうこう言っている場合ではない。

いっそ戦って救出する方法しか道は残されていないような気がする。

「おもてなし」などと言ってる場合ではない。

「日本の美しい美徳の文化」などと言ってる場合でもない。

既に混沌とした世界では混沌としたイクサが始まっている。

奇妙な所得税の計算式でどうこう言ってる場合ですらない。

しかし、だからなのか、「取れるところから取る」「騙せる国民を騙して吸い上げる」戦法なのかもしれない。

騙されるのは「大人しい」「控えめな」「真面目でコツコツな」「ズケズケ言わない」「悪いことをしない」「受け身」の日本国民なのだろう。

自力で戦うことを選択しない国民はそういう政治家にとっては、とても扱いやすいのだろう。

ところで「悪いこと」は国によって大きく違う。

従って、この国の悪いことは「体制に逆らうこと」っぽい。

社会主義国かよ!!

そうだよ!!!
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