宝探しの人生だとする。
死ぬまでに大事なものを得たい 或いは大事なことをたくさんしたい。
そのためにはそれを得る行為をどんどんしなければならない。
しかし気付かず通り過ぎてる自分を見つける。
気付かなければいけない。
いつなのか?
いつそれに出逢ってるのか?
実は「今」と言う時間にいっぱい宝物が眠っている。
しかしそこを急いで通り過ぎる習性のある自分は宝物を見ようとしないで通り過ぎる。
通り過ぎた後で、そこを通過した過去という時間(過ぎ去った今)に宝物がどっさりあったことに気がつく。
もっとゆっくり行けばいいのに、と思う。
気づきやすいように。
しかし、それは通り過ぎた後に思うことなのである。
宝物の場所を通過するときは、宝物が全然見えてない。
なのでもっともっとゆっくりと歩いて行かなければならないと思う。
しかし、なかなかゆっくり歩けないのはなんでだろう。
道草である。
自分はほとんど道草をしない。
道草は悪いことだと教わったからだろうか。
あるいはいつも疲れているからだろうか。
早く家に帰りたいと思っているからだろうか?
まぁ、理由はどうでもいい。
今のところの答えは、
「今ここに宝物がある」と思っていないからだろう。
今、この時点に宝物が山のようにあると言うことなのである。
だから今も宝物見ないで通り過ぎようとしている。
そういう自分に気付いていない。
「道草」
それが「無駄なこと」だと暗示にかかってるのかもしれない。
無駄を意識するより、もっと「今」を認識しなければいけないのだろうと思う。