斎藤知事の肩を持ちます。
まず感じるのは、報道がこぞって生贄として斎藤知事の記事を書きまくってるように感じます。
そしてそれとは逆の事を書いたらその人も生贄になる気がするという事です。
私は当事者ではないし、指摘されてる内容の該当現場にいないのでくだんの事柄に関する理解は薄いです。
しかしながら、例えば裁判でも疑わしきは罰せずという言われ方をします。
それは何を意味するかというと、実際に現場で間違いないエビデンスを持った上での議論があり、結論に至ります。
私自身は詳しく理解できていないので正しいとは言えませんが、死者が出てるという部分からして、裁判できるほどの被害者としての過ちなのか、或いは、それは已むを得ない事柄がどこかにあったものなのか、そういう事を知りたいです。
テレビやSNSやインターネット上の報道を見ると、そういう部分をすっ飛ばして批判、非難をしてるような印象を感じるのであります。
例えば、「おねだり」という言葉を見ました。
斎藤知事以外は似たような言葉、あるいは類似の行為をしていないという事が前提にあるんじゃないかな、とも思うのです。
また、自民党で問題になってるパーティーでの資金集めに関することも、「お金を集める行為」として考えたら、規則がどうとかこうとか言うよりも、そういう事が現実にあるということ。
そして、そういう行為が必要だという現場における現状を問題提起しないと、言葉を変えて同じ事が起こるのは必須でしょうね。
そういうことの方が問題ではないか、と。
結局、何か大きな隠したいことのために、目眩しにために斎藤知事とかが生贄になる。
そのために報道が国民を先導している、としか思えないのです。
それは何のため何か。
ここの国の人は それを考える事ができる国民なのか?
もし、それがないなら救いようがないと感じるのであります。
以前流行ってたパーティーピープル状態。
ただ、踊らされて滅んで行く気がします。
斎藤知事は一体何をしようとして、現状どういう事を進めてて、どういう環境に陥ったのか?
そもそも、大阪で橋下知事がやった事を兵庫県でもやろうとしてたのでは?
ところが、橋下さんは巧く乗り切った権力の罠に斎藤知事は陥った。
そんな気するのです。
当然、悪いことは悪いこととして、謝罪なり罰を受けることも必要でしょう。
しかし、それとは別に県の行政に問題があり、そこにメスを入れるために何かをやったらそこに罠が仕掛けてあった、と仮定したら、残念ながら被害者は一方だけではなく、加害者も一方だけではない気もします。
つまりは政治は戦争だと、誰かが(誰かは言えません)言いました。
骨肉の殺し合い。
斎藤知事によって誰かが死んでしまった。
でも、斎藤知事も殺されるくらいの状況に立ってる。
政治家は紳士893の頂点なのか?
その通りなのでしょう。
そいう意味では斎藤知事は普通の人過ぎたのかも。
もしかしたらいい人の一人のレベルかも。
知らんけど。
しかし一度餌食になったらそこに群がるピラニアのような報道合戦は巷の関心、興味が絶えるまで続きます。
そこに群がる金亡者の報道関係者。
今の時代、恐ろしいのは外国だけではない。
日本の国もそろそろ気を引き締める時期が来たのではないかしら。
特に一般国民は。
でも、一度ついたパーティーピープルは死ぬまで治らない。
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