城郭 長谷川博美 基本記録

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驚くべき事に尾張織田信秀の末盛城は当時の尾張の人にとり山城だった!

2020-04-11 18:38:09 | 城郭
驚くべき事に尾張織田信秀の末盛城は当時の尾張の人にとり山城だった!

◆大河ドラマ『麒麟が来る』では織田備後守
信秀つまり織田信長の父は尾張古渡城を破却
「廃城」して、なんと尾張に山城を築城した
事が文献『信長公記』には、明記されている。
我々峻嶮な山城を調査したり遺跡見学する者
にとり尾張末盛城は丘陵城郭としてしか感じ
ない城郭遺跡でなのであるが太田牛一の観点
からは末盛城を山城として認識している事が
明確に解る。

一、去る程に、備後殿、古渡の城破却され、
末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。

この様に大田牛一が山城と記載している以上
我々はこの末盛城を当時は、山城として認識
する必要があろう現代でも当地には城山地名
が残っている事なども含めて考えさせる。私
は当地が古代須恵器を焼成する為の陶の森だ
と考えている、また現状を見る限りおいては
後世末盛城は何度も改修を受けていると推定
されるがNHK大河ドラマでもこの末盛城を
山城として描写して欲しいと私は思ったもの
である。末盛城は信長の父信秀から信長の弟
信勝に与えられまた信勝自体も父信秀の自称
官途名「織田弾正忠」を書面で名乗り始めて
有力な武将柴田勝家などを家老に付けられた
が勝家は実際に織田信長本隊と合戦する事に
より信長の編成する独自の戦闘部隊が常識を
越える実戦部隊である事を痛感しまた主君の
織田信勝から遠ざけられた事から柴田勝家は
織田信長という武人の真の力量と実力を自ら
らの敗戦を体験した事で認識して世間が言う
ほど信長がうつけで無かった事を認識する。

▼長谷川博美本人▼
◆追記
織田信秀が末盛城を取りたてた事は彼が守備固め
つまり劣勢に立たされて山城の要害に依存した事
が窺われる。
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★近江 新城郭発見

2020-04-11 07:12:26 | 城郭
★近江 新城郭発見

対談者
有名な山だから登山する。
有名な城だかに行きたい。
有名な先生だから支持する。
でも無名な砦は注目されない。
だから、見捨ててしまう事
は本来は駄目な事なのでは?
本格的に学術的見地から
厳密に言えば真実やリアや
現実では無いのかと思います。

長谷川
無名なあなたが無名の砦を発見する。
1万人が見落とす砦を初心者の貴方
が見落とさないこの事は凄い事です。
それは素直だから城址が見えた事を
意味しています。素直でなければ城
は語りかけてくれません。本物です。


何故ならば野球なら9名の出場選手
をサッカーならば11人名の出場選手
を全員見ている事、その試合を全体
を基礎基づき見てると言う事になる。
また監督コーチは試合の時間軸の流
に応じて控え選手や代打選手を遂次
適宜出場させるプラニングを立てる。

古戦場や城郭分布も同じです。有名
無名に関係なく適宜友軍の砦や見張
を把握して古戦場の地理と城郭遺構
を冷静に全体把握すべだと思います。

一般様
ああ、おっしやる事はよく解ります
が、私達観光客で遊びの人なのです。
A武将が戦死した場所や合戦の局地
の場所なんか全く行きたいと思わな
いんですよ!もし戦国武将がA砦に
A地点に砦を構えたら実際のA砦跡
ではなく、そのA砦から1000m離れ
本当の砦でない観光観賞用の看板を
見たいんです。偽物観光で充分です。
本当の砦や城址なんて全く興味ない。



対談者
でも戦国武将の御子孫の方が見えて
戦死した激戦の場所を訪れ先祖供養
をしたいと希望された時には合戦の
遺構そのものを看破できる宮本さん
や陣遺構や合戦遺構を、看破可能な
長谷川先生などに案内して貰われた
方が観光とはまた別の、より現実の
古戦場、古城見学だと思いますが?
対談者
たから全く遠い埼玉県から宮本さん
長谷川先生を頼りにして、合戦現場
を見学する事をされた書籍とは既に
巷間、ちまたに発売されています。
それは宮本さんや長谷川先生達が
古戦場の遺跡に対してピュアな心
俗化しない純粋な観察力の証明!
長谷川
まあ城塁見学詰り450年前の土塁
を見学希望する人は観光行楽目的
の人は、そもそも根本的に目的が
異なると言う事。人工的な高土塁
も全く見る気が全然ない当前です。


対談者
長谷川先生は常に新城郭を発見されてます!
でもその場所は一切ブログで表示されない?

長谷川
当然ですよ!日本列島は遺跡だらけです!
遺跡の正確な位置が明確に判明しますと
林業に必須の林道や社会の利便と幸福を
もたらす公共公益に役立つ道路が時には
工事反対派により停止する事が時にあり
ますから社会発展の為に公表しない事に
しております。当然の事ながら私は遺跡
研究家ではありますが遺跡保護家で無い
日本の国土の建設発展の希望者なのです。

対談者
長谷川先生は常に新城郭多数発見されます!

長谷川
研究家ですから発見して当然と言えます!
研究しているから発見する。研究してない
人は発見せずの万年人の発見した城址調査
の摸倣ばかり繰り返して大家の顔をしてる。
それは野菜を店に買いに行人と実際に野菜
を作っている人との違い!野菜を生産して
ない人が野菜作りに関してのノウハウまた
その含蓄や生育育成の秘密や云々について
つべこべ言う資格は無いと私は思いますね。
対談者
いつの世も盗人猛々しいと言いますからね。
世の中結局!人の発見を巧妙に搾取したり
盗みとる事が芸とされ、流行する時代ね!

対談者
皆様の為に日夜新聞雑誌を読んで情報収集に
努めている人を私は真の研究家とは思えない。
それはただの諜報家や連絡係に過ぎない野菜
を本当に作っている人の手はやはり土が着い
て日焼けしておらる現場の人々なのですよ!

長谷川
世の中は千差万別です。研究ではなく情報
収集家もおられます。誤解のないようにね。
研究家と情報収集家や諜報員は異なります。
しかし貴方が城郭研究家と城郭研究さんを
冷静に識別する客観能力を備えて欲しい!

対談者
宮本さん達は特に城郭遺跡見学や観察には
日本屈指の優れた心の澄んだ人と思います。

長谷川
足元に土塁が見えても、100万人の人々が
土塁が存在しないと、言われても自分の背中
や足元の土壇は冷静に澄んだ心で見学されま
すからね。ありのままの真実や現実を見る事。
長谷川
背中にある土の段は50センチと言う立派な
遺物や遺跡ですからね?3センチの土器片
よりも大きいと言えますよ!立派な遺跡。
▼後は50㎝の高さの土塁。手前は高さ1.7mの段築▼

対談者
長谷川先生と山道行くと的確に停止され遺跡
を測量されるので非常に驚きます。私達とは
全く違う感性で山城を測量されいて驚きます。
物凄く、山々の砦の図面が数多く倉庫に溜る!
▼西浅井の某山中で発見した砦遺構図面▼

一般様
そんな無数に砦が存在するハズが無いです!
対談者
それはあなたの固定概念焼付いた記憶です!
一般様
日本で最も長い籠城戦を展開した城とは何?
長谷川
大坂石山本願寺城の10年籠城戦が最長ですね。
一般様
でもその本願寺城ってのは堅固な城なのかと?
対談者
貴方は全く城や合戦の事を知らないのですか?
私達石山本願寺城について長谷川先生ともに
『信長公記』を読んで、長谷川先生が石山
本願寺城には52箇所もの端城つまり石山の
本願寺城を衛星の様に守る出城52城が存在
した事こそがが石山本願寺城の兵站補給や
外郭の防衛に非常に重要な事である事
役だっていた訳なのよ!大きな合戦とは
大きな城一城だけ、見ていても全く駄目!
大きなエリアを統轄するのが根城で本城
でありその周囲を護っている支店の様な
小さい砦の連合体こそ日本最強大坂石山
本願城塞群だった訳ですよ!ですからね
賤ケ岳合戦だってものすごく、多数の砦
や見張の連合体つまりは城塞群として考
えないと、文字だけで賤ケ岳合戦などは
一切軽率には語れませんのよ!まして砦
でない所へと砦の看板立て喜んで観光し
ていたら全く意味がないと思う450年前
の兵ものども足跡を、確認できてこそが
今後の本当の古戦場の砦跡の本物リアル
見学だと私は考えております。全体像を
掴む、遺跡の詳細も掌握するミクロと
マクロ、巨視力と繊細観察の双方が必須。

長谷川
まあ太平洋戦争などの連合艦隊など
巨大戦艦の周囲に巡洋艦、駆逐艦や
水艦艇、補給船、空母艦隊で、編成
した陣容を編成していたのと同じで
す。今でも巨大船舶を誘導着岸する
為のプレジャーボートと呼ばれる力
舟によって安全に着眼できる。だか
ら大きな城や砦だけで合戦してる訳
ではない城塞群として大観する事も
絶対に必要なのです。小回りの利く
小舟や敵の大軍を逸早く発見できる
見張砦や番所は不可欠なのです。昔
は携帯電話がありませんでしたから
敵を、逸早く目で視認できる関所や
見張砦番所が絶対に、必要なのですよ。
敵の侵攻してくる街道や間道や抜け道
に巧みに見張りの兵員を配するのが当時
武将のセンスであり差配でせあり器量で
あると言えます。また是を看破する力量
がなくて何が真の研究家と言えましよう?


一般様
そうなのですか?私は書店書籍に
登場する砦や城だけが観光探訪と
考えていたんですが大坂石山本願
城は52もの砦を従える巨大城郭群
として考え直します。また賤ケ岳
合戦の城塞群もつぶさに検分した
い。現実を実際を目の当たりを見
たい。リアル古戦場の世界ですね。





コメント (6)
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峠の民俗学と古代史 滋賀県長浜市西浅井町岩熊峠

2020-04-11 07:12:26 | 民俗学
峠の民俗学と古代史 
滋賀県長浜市西浅井町岩熊峠

はじめに
日本の民俗学の開祖、柳田国男は『秋風帖』
の中で、峠の表裏を言及しています。

 「峠に来て立ち止まると、必ず今まで吹かな
かった風が吹く。気分ががらりと変わり、単
に日の色や、陰陽が違うのみならず、山路の
光景が変わってくる。見下ろす山里は却って
左右よく似ていても、一方の平地が他の一方
より高いとか、一方の山側は急傾斜で、他の
一方は緩であるとかいうことがいちじるしく
眼につく。 麓から頂上までの路はいろいろ
と曲折していても結局これを甲、乙の二種類
に分類することが出来ます。前者は頂上近く
になって急に険しくなる道、後者は麓に近い
部分が独り険しい道である。
 古くからの峠なら、一方を甲種、他は乙種
であり、これらを峠の表裏と名付け、表口
とは登りに開いた道で、裏口とは降りに開い
た道である。」とある

峠の民俗学 滋賀県長浜市西浅井町岩熊峠
◆元滋賀民俗学会理事 
長谷川博美の峠の考察

◆岩熊峠の交通史考察
古代より北陸と近畿琵琶湖水運と北陸水運の
交通の要である塩津岩熊「やのくま」は水陸
の交通の要、また琵琶湖北部と琵琶湖西部、
湖北と湖西と琵琶湖塩津水運の塩津港の存在
に着眼する事は極めて重要でしょう。

◆古代人の塩 塩津丸山古墳
現在も古代も塩分や海産物は貴重な生命を
維持する為の必需品。古代の奥琵琶最北の
塩津は現代よりも更に深く北部に食い込ん
でここに北陸と近畿を結節する場所を拠点
として塩津丸山古墳が営まれた事かと思い
ます。

◆延喜式内社の矢合神社の存在?
塩津谷には上塩津神社や下塩津神社が記録
されており塩の道の信仰そのものが存在し
たと思われます。▼深く入り込む奥琵琶湖

◆プレ丸山古墳を求めて
4世紀5世紀に塩津丸山古墳を形成した豪族は
岩熊の山麓に前方後円墳を営みましたが、更
に古い越前と密接に塩を通して公益成立して
いた豪族は存在しなかったのか?もし存前方
後円墳を大和型の様な同範的な前方後円墳で
はなく大和型とは一線を画する虎御前山古墳
のタイプの様な前方後円墳が存在しないので
あろうか?決して調った整形した墳丘と異な
る異形の古墳がもしも存在したら大変な事に
なるかもしれません。塩や海産物が生み出す
巨大な利権権力は古代も中世も現代も普遍性
があります。現代においても国道8号と国道
303号の交わる塩津道の駅は古代も現代も変
わらぬ、地理的地普遍性を示しております。

◆2020年4月古代旧岩熊坂に古式古墳を求めて
古代琵琶湖が北部に深く食い込んでいたと
仮定した場合古代の岩熊坂は▼の点に存在
したのではないのか?そこには塩の権益で
巨万の富を得た古代の王族の前方後円墳が
存在すねのでは無いのか?元滋賀民俗学会
会員の田畑氏と長谷川は現地踏査する事に
なりました。も既に当ブログで報告してい
る通りに80m級の不整形な古墳らしき物を
みて私は仰天致しました。しかし、それが
確実に前方後円墳なのかは確証ありません。

近世岩熊坂の切通の様子
▼峠には約10mほど思われる円墳と思しきものもあります。
▼峠は近世の峠を往来する人々のが崇敬した地蔵尊もある。
▼近世の岩熊坂の工事の規模が偲ばれる


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