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日本贈答歴史のヤミ 信長、明智の贈答品を即刻却下

2020-04-12 04:29:58 | 戦国武将
日本贈答歴史のヤミ 信長、明智の贈答品を即刻却下

★日本贈答史における唯一の珍事に注目!

文献『信長公記』の講師を通算9年間
させて頂きました

『信長公記』の全編を通して
織田信長が諸侯や臣下から献上された
贈答品を即刻返品した記録は、唯一
一例だけ存在する。それは西暦1580年
の記録である。源文を引用するならば

『信長公記』
巻十二
天正八年

四月十五日、丹波より、惟任日向 、
御馬進上のところに、すなわち、
「 日向 に下さる 」の由にて、
御返しなされ侯。

と以上の如く短く簡潔に記録されて
いる。 惟任日向とは明智光秀の事
だ。しかし当時の武家社会に於ける
贈答品は外交儀礼で公式行事に該当
する。織田信長家臣団のなかで唯一
外様格の明智光秀の贈答品が、織田
信長から即刻、明智光秀に却下返品
された事こに注目したい!

この件について
ときに
突飛な行動を、する人間
信長だから仕方ない事と
だとと解釈する人もいる。

贈答品を即刻返品するなど
は 非礼千万 の事です!
日本の贈答史に残る
織田信長の明智光秀に対する
前代未聞の
武門の恥辱と
解釈する人の
解釈に
別れる事であろう。

明智光秀が自らの
選りすぐりの名馬一頭を
即刻一頭返納する
主君信長の奇行とは?
明智が選定した名馬が
駄馬であろうはずが無いのだろう
信長の嗜好に合わせて
選びに選び抜いた名馬の一匹の
なかの名馬と考えられる。

これは光秀自身が元の一僕の身
つまり馬一頭に乗る、元の身分
へと帰れとや!言う主君信長か
らの暗喩やイヤミかと詮索する
人や心配し憂慮する明智光秀の
家臣達もた事と考えられる。

織田信長とは『信長公記』
には関東や東北の大名から
名馬を多数献納されており
少々の名馬を丹波から
明智光秀が献上しても
信長は即刻返納する場合
や可能性はあるだろう。

ここでひとつ異論を唱えるならば
信長が明智に返納した馬が四国産
や甲斐の黒駒 『日本書紀』に代表
される。甲斐からもたらされた名馬
であった可能性はゼロとは言えない。
近年は織田信長の四国政策の変更が
明智の四国政策窓口取り消しなどが
絡んだ本能寺の変の原因説も出ている。
もし四国産の名馬を即刻信長が明智に
即刻返却したとすると是は斉藤利三を
通じて四国長宗我部政策に対する光秀
の四国外交顧問窓口役が案に棄却され
事を暗喩暗示を示すものか?後に四国
政策は羽柴秀吉が光秀を僭越して信長
から四国担当へと信任される結果へと
現実として移行している。

さて
二次資料『淡海温故禄』には明智は
武田勝頼と内通していたと記されて
いる事である。勝頼の父である武田
信玄は明智光秀の所領、坂本の上に
ある比叡山延暦寺の権僧正にも任命
去れていた人物と言う経緯がある。

また『信長公記』には
  武田勝頼と織田信長の長篠合戦の
記録に奇妙な事に武田勝頼が戦場から
逃げて残しておいた勝頼「秘蔵の馬」
を信長の馬として摂取する記録が残っ
ている。

『信長公記』
天正3年の記録には

武田四郎秘蔵の馬、小口にて、
乗り損じたる、一段乗り心ち
比類なき駿馬の由侯て、信長
御厩に立て置かれ、とある。

 天正8年の明智、献納の馬を返納
した信長の行為は当時の武家社会に
於いては著しい不名誉な恥辱に該当
する。贈答が当時の公式儀礼「音信」
外交の正式贈答品そのものであるから、
明智光秀は信長から「公」おうやけに、
公式に、突き返され、恥辱された事に
相当する。

この事例を現代の世俗の言葉で言えば
信長の突然のブチ切れ !であろうか?
違う別の言葉で表現するならば
日本贈答史唯一の謎の珍事ヤミだろう!

光秀と信長と馬の因縁は

天正9年1581年の
『信長公記』の有名な記録にもある。

正月廿三日、惟任日向守に仰せ付
けられ、京都にて御馬揃へなさる
べきの間、各及ぶ程に結構を尽し、
罷り出づべきの旨、御朱印を以て
御分国に御触れこれあり。

とあの有名な織田信長の馬揃えの
奉行を明智光秀こと惟任日向守に
命じ、華々しく成功した事は、良
く知られている。この長く実施さ
れなかった、宮廷行事「馬揃」を
復刻するだけの有職故実の智識や
セレモニックな儀礼を成功させた
近江坂本の財力や馬借集団の存在
や明智の騎馬の有職故実の智識に
は再度注目する事が重要であろう。

さて戦国武将多しと言えども織田信長
殺害に成功したのは、唯一、明智光秀
ただ一人だ。文献『信長公記』には
本能寺の変の前日の明智光秀の様子が
以下の如く生々しく描写されている。

『信長公記』
巻十五
太田和泉守これを綴る
天正十年壬午「 1582年」

明智日向守逆心の事
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、
惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左
馬助、明智次右衛門、藤田伝五、
斎藤内蔵佐、是れ等として、
談合を相究め、信長を討ち果たし、
天下の主となるべき調儀を究め、
亀山より中国へは三草越えを仕り侯
ところを、引き返し、東向きに馬の首
を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津
の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し
触れ、談合の者どもに先手を申しつく
にて、御返しなされ侯。と記録される。
~中略~
既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめ
され侯か、殿中奥深く入り給ひ、内よりも
御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、

とあっけない織田信長の最期を記している。
本能寺の変の原因は未だに、諸説噴飯だが
現代世俗言葉で言うなら、これも
明智光秀のブチ切れ !であろうか?
プッツンと言う言葉も現代にはある。

さて本能寺の変後の明智光秀のやる事
なす事、全てが不調に終わっているの
に対して羽柴秀吉の、首尾は鮮やかだ。
光秀の言う当時の「天下」と信長、秀吉
の「天下」の意味は異なる。近畿畿内を
天下と意識する人と日の本「全日本」を
天下と認識する人の発想は異なるのだ。
室町の昔、京都の公方「将軍」と関東の
足利「公方」の世界観も異なるのである。
畿内では三好長慶を宣教師が畿内の
天下人だと認識していた記録がある。
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織田信秀織田信長その移城の改革性と進歩性

2020-04-12 03:02:57 | 比較研究論
織田信秀織田信長その移城の改革性と進歩性

大河ドラマ麒麟が来るの中で織田信長の正妻
帰蝶が義理の父信秀臨終に近い頃信長が織田
弾正忠家を継続すべき人間である事を聞き出
すシーンが描写されていた。「信長はワシの
若い頃にそっくりじや信長に家督を継承させ
る。」このドラマで創作された文言はあなが
ち空想論ではなく史実に基づいたシナリオが
書かれている。信長の父信秀は戦局に合せて
自らの拠点を変更できる、柔軟性と改革性の
ある武将である事は、大垣城を美濃斉藤氏に
占拠されると自分の居城を勝旗から那古屋へ
そして古渡へ今川氏との戦局を鑑みて末盛城
へと自らの本城、つまり拠点を戦局に合せて
柔軟に移城した事が理解できる。織田信秀が
如何に優れた才腕の移城者した武将であった
かを知る資料として
『信長公記』に
一、去る程に、備後殿、古渡の城破却され、
末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。

とあるが是は昔美濃の大垣城を斉藤方に横領
奪取された経験を踏まえて自分の本拠古渡城
を今川方に取られる前に自ら破却整備してい
る事にある当時台頭した戦国大名として自ら
の居城を自らの分別で断捨離(だんしゃり)
していた織田信秀の判断とはその時その時の
戦局に適宜最適な城郭を自らの判断で選定し
ていた優れた経営感覚と柔軟性を持っている
事にある。現代においても優れた経営者とは
果断に利益の出ない工場を手放し新しい体制
の新たなプロジエクトで企業展開を切磋琢磨
して行くしぶとい生命力を有している事にあ
る。信長の父信秀はその生涯で勝旗、那古屋
古渡、末盛と居城を変えている是は、優れた
シフトチエンジつまり体制改革であり尾張の
織田氏の居城は移城する度に合理的な築城方
法や迅速な築城資材の供給準備の経験値スキル
が促進された事を意味している。織田信秀の
後継者、信長は、那古屋城から清須城、小牧山
城、岐阜城、過渡期には近江横山城、虎御前山
城、佐和山城などに戦局に応じて適宜在城して
常に現場感覚を見失う事がなく日本の中原とも
言える安土城の築城へとシフトチエンジしなが
ら徐々に日本の近世城郭の基礎をなした偉大な
改革者である事を忘れてはならない。戦国期の
武将は自らの居城根拠城郭に固執定型化する事
で自らの軍団や城郭改革に齟齬や未完成未成熟
を露呈して滅んでいる。織田信長最期の本能寺
変は、信長が自身が在洛中の身辺警護怠った事
自らの上洛用城郭と守備要員不足のスキを明智
光秀に突かれ包囲急襲され自刃した事自体信長
一生の不覚であろう。明智光秀の脳裏には未だ
に室町の乱世の残影が炎の残り火が残り主君に
スキあらばこれに、乗じて剋上する乱世の武人
の生き様そのものと言えようか?
▼佐久間玄蕃盛政の行市山砦の高土塁に立つ長谷川銀蔵
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