城郭 長谷川博美 基本記録

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迫真!現実!賤ケ岳古戦場の現実と実情!

2020-04-25 18:38:01 | 戦国武将
迫真!現実!賤ケ岳古戦場の現実と実情!

本日も実際の現実の古戦場の調査に
田畑理事と参りました。遠く湖北の
横山岳には未だ残雪を望む事が出来
春とは言え北近江の冷気の様なもの
を感じます。横山岳さすがに神の座
す霊山と言へその神々しい山容には
おおしき威厳が真に備わっておいます。
▼田畑理事と背後の横山岳の様子!
さて前回の投稿で余呉町の某陣所の堀切図を紹介致しました。
上図の
切の所が堀切の遺構です。写真を撮り直しました。尾根の関門!
更にアップします。
迫力あります。戦国時代そのものです!
▲更に柵や木戸も復元してみます。
田畑理事!見事な戦国の番所の見張番の隊長です!
長谷川
さてここで、よくよく考えてみましよう!
賤ケ岳合戦で大岩山砦と岩崎山砦には一切堀切
が掘られておりません。今回登場する名もなき
砦の場所でさえ立派な堀切を普請しているのに?
 さてさて、永禄3年の桶狭間合戦において
松平元康は今川方の大高城に兵糧を入れて
織田の鷲津砦、丸根砦を松平元康が落させ
大高城を占領します。これにより松平軍と
今川義元本陣は2÷2=1の半分手薄になる。
是を図式化しますと。
         ●  ●        □
「本陣今川義元」「鷲津/丸根/落城」松平軍「大高城確保」
しかし織田信長は今川義元と松平が両陣に分かれた間隙を
突き義元本陣を痛撃し首級を上げた事になります。
桶狭間の「鷲津/丸根/」とは元康をおびきだす囮「おとり」
の砦の役目をしたのではないでしょうか?捨石の2砦です。

さてさて天正11年賤ケ岳の合戦では本陣の柴田勝家軍と
第1戦の指揮官の佐久間盛政軍つまり前線と本陣を二分
させる為に羽柴秀吉はなだらかな丘陵地帯に堀切の無い
  ●    ●
砦「岩崎山砦/大岩山砦」の2塁を築城させます。この2砦
堀切がありません。これは、この2塁は柴田方の前方指揮
官佐久間玄蕃盛政を余呉湖畔おびき出しこの2塁をワザと
攻め落とさせる囮の城に違いなしいでしょう。堀切も無い
陣城を攻め落とす事は容易である。この2城は堀も掘らず
「岩崎山砦/大岩山砦」は油断していると佐久間玄蕃は見
た。しかし柴田勝家は老獪な武将!羽柴秀吉が囮の城を
用意している事は充分に、彼の歴戦体験から知っている
「岩崎山砦/大岩山砦」この2城を陥落させたら渙発を入
れずに堅固な元の陣城の行市山に帰還する事を柴田勝家
は甥の佐久間玄蕃盛政に説いている!ボクシングで言う
ところのポイントパンチを得点を、自軍打たせて勝つ事
つまり老練な柴田勝家の力を日本中に喧伝するPR効果!
勝家は判定勝ちを熟慮する人。秀吉は罠を用意する武将!
秀吉は佐久間玄蕃盛政の猪突猛進型の人間性を看破した!

ところが羽柴秀吉は賤ケ岳城と言う堀切も切通しもある
決戦の為の堅固な構造の城を用意している。秀吉方は嘘
を付いて明日に賤ケ岳城を明け渡すと佐久間軍に伝えて
佐久間盛政はもう我々一線の部隊は勝った。我ら賤ケ岳城
をあす貰い受ける緒戦で大勝したと増長した。秀吉と丹羽
長秀は急ぎ賤ケ岳城を確保して佐久間軍を追撃した。賤ケ
岳城は堀切も切通しもあり佐久間軍が是を物理的に破る事
は現実には不可能だ。この時秀吉に内通していた前田利家
は突然越前に引き返してしまい佐久間軍は裏崩れと動揺し
た。背後の守備部隊は堀切を用意して待機していても前田
が退却してしまったら羽柴秀吉と丹羽長秀の強力な部隊を
防ぐ術は全くない。ここに登場する写真の砦は北国軍の背後
を越前からの補給線を確保する為の大切な生命線だったの
であろう。実際にこれらの無名砦は構築されたが合戦記に
も登場しない、現実の賤ケ岳合戦の現場の番所であろう。


コメント
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