地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

さよなら、相鉄の快速緑幕!

2014-03-31 00:00:00 | 大手民鉄 (相鉄)


 相鉄の特急登場まであと一ヶ月を切り、果たして横浜~海老名間で30分を切るという実感は一体どのようなものなのか、幕で残る車両の特急幕は果たしてどんな見映えになるのか……とつらつら思いますと、本当にワクワクし過ぎて心臓バクバクです (んなわけない)。しかし、その裏では重大な変化が……。特急登場のニュースリリースPDFを閲覧するにつけ、列車種別ごとのシンボルカラーが制定し直されており、急行は赤のまま据え置き、特急はオレンジとされていますが (小田急の快速急行と似たような存在だということなのでしょう)、快速が緑から青へと変更されることにより、特急幕を準備した編成から順次、快速幕の色が青へと変更されております (まだ撮影しておらず恐れ入ります)。したがって「緑・快速幕」と「青・いずみ野線直通各停幕」が見納めになりつつあります……。これは恐らく、周囲の民鉄=小田急と京急における種別色の使い方に合わせ、利用客の混乱を避ける(相鉄の快速はだいたい小田急区間準急や京急急行と似たような存在→青がベスト) 意図もなくもないのではないかと勘繰っております。横浜で接する京急の快特とは格が全く違うし。



 というわけで、そんな歴史的な節目にあたり、これまで未アップだった秘蔵超特選・7000系10連の快速緑幕姿をアップしておきたく存じます……! 
 今や7000系の快速緑幕は、8連運用のうち僅かに快速も含まれる運用に入ったときのみ拝むことが可能であり、言わばレア幕と化しているわけですが (朝夕に僅かに見られる7000系の急行赤幕も然り)、7000系8連はマンケーや新7000系の8連と共通運用ですので、待っていても来る保証は全くありません (苦笑)。しかし、7000系の横浜方増結車(モハ7000+モハ7100)が健在で、10連としても走っていた頃は、当たり前ですが割と日常的に7000系の緑快速幕を拝むことが出来ました♪ 
 快速という種別は相鉄では比較的新しく、しかも従来は基本的にいずみ野線直通ということで、本線二俣川以遠利用者 (←田舎者) である私にとっては縁のない存在……と思いきや、二俣川で快速に連絡する各停が存在するだけでなく、しかもこの快速~各停連絡は結構空いているということで、意外と利用価値は高いものがありました。それが来月のダイヤ改正でどうなるのか (とくに海老名快速の混み具合など)、とりあえず蓋を開けて見ないと分かりませんが、何はともあれ個人的に従来の緑幕快速への思慕は強い、と申し上げておきます。
 というわけで、これらの画像は「いずれ7000系10連が消滅する時点で慌てることのないように、超お気に入りの7000系・緑快速幕を撮り貯めておきたい」と結構気合いを入れて撮影したのを思い出します。今はどちらのカットも高架化工事の進展ゆえに立ち位置そのものが消滅済みということで……いやはや、何気ないカットが本当にいろいろな意味で懐かしい記録に変わりうるものです。


 景気の悪そうなグレーですなぁ……。



 側面はこんな感じで「いずみ野」表示が復活。

さよなら秩父1000系・雪の聖地影森にて

2014-03-30 00:00:00 | 地方民鉄 (秩父)


 四半世紀以上にわたり秩父路に君臨した国鉄101系あらため秩父1000系。その最終営業運転(貸切)が行われてから1週間が経ちました。その詳しい模様は、いつもお世話になっております「きえふにいさん」様のブログで熱くレポートされているほか、ネット上で既に数多く語られているところです。
 では、80年代から秩父1000系に乗って撮っていた私はどうかと申しますと、結局オレンジ1003Fの1本のみとなってから一度も訪れる機会がありませんでした。これもひとえに、ミャンマー・タイ訪問を挟んで仕事が余りにもタイトだったからであります。最終貸切ツアーの申込日には、朝から晩までハードな仕事過ぎたため、気が付いてみれば申込終了~。そして去る連休も、終日ひたすらPCと睨めっこしながらの仕事となりました。おかげで仕事は大いにはかどりましたが、やはり明確に区切りを付けることが出来なかったのは遺憾なところです。最後をナマで見届けなかったことで脳内でフェイドアウトと格好を付けてみても、3日連続で天候に恵まれているのをネットで眺めておりますと、仕事のシワヨセを覚悟してでもやはり申し込んで撮影会に参加したかったという心残りがあります。



 しかしまぁ、個人的に申しまして80年代の1000系といえば、「マジで仏恥義理に命!」だった100系・800系を駆逐する「ク○1000」でした (汗)。そこで、中央・青梅線を前面に押し出したさよならイベントは、熱狂的な国鉄101系マニアの皆様にお譲りする運命にあったのかも知れません。
 いっぽう、個人的に正当に1000系の魅力と価値を理解出来るようになったのは、2000年前後に鉄活動に復帰してからでしょうか。以来、散々標準塗装を撮り、ガラ空きなデハ1100の車端部でMT46サウンドに酔いしれまくりましたので、それで良いではないか……と思っております。「秩父に転じ、秩父線内の行先を表示した1000系」の記憶に浸れば良いのだという達観のようなものでしょうか。
 そこで、誰が何と言おうと、個人的に1000系の究極の思い出として大事にしたいシーンがこちら、2010年3月の降雪直後に影森で撮影した標準1010Fと小豆1002Fの並びです……! 影森は、以前当ブログの100万アクセス記念で熱く語らせて頂いた通り、個人的な鉄道趣味における至高の聖地のひとつであります。そこに、シンプルで美しい標準塗装をまとった1010F (しかもラスト2本のうちの1本) と、地味で素朴な魅力にあふれ心酔せずにはいられない、1000系塗装史上の最高傑作である小豆塗装の1002Fが佇み、辺り一面は白い静寂の世界……。そんな、個人的秩父通い史上究極の風景を、たった一人で独占し味わい尽くすことの喜びと言ったら! そう、実は、4年前の時点で至高の個人撮影会を楽しむことが出来たのです!! このとき、とにかく内心で高校生時代の無礼を懺悔し、秩父1000系が最も秩父1000系らしい姿でいることを心の底から礼賛したのですから、これ以上の贅沢を望むべきではないでしょうし、今後もこの想い出こそ個人的な「秩父1000系と静かに戯れた幸せ」として、永く内心で暖め続けるべきなのだろう……と思うものです。
 何はともあれ改めて1000系には、かつての罵りを心から反省しております。長年の力強い活躍、どうもお疲れ様でした! さようなら! そして、昭和30年代前半の技術による電車を長年にわたり良好に保って来た秩父鉄道の経営・技術陣の皆様に敬意を表したく存じます。

第五ジャカルタ炎鉄録 (28) 都営6000猫バス

2014-03-29 00:00:00 | インドネシアの鉄道


 ジャカルタの都営三田線における改造先頭車の歴史は、あたかも流線型のナゾ生物へと進化して行く歴史であったわけですが、その進化の頂点に存在しているのが、現地では「Djoko Lelono3」と愛称される6151Fであると言えましょう。しかし日本人の間では、誰が呼んだか……愛称は断トツで「猫バス」(笑)。それ以外の形容は全く考えられません。
 そんな猫バス、元はといえばボゴールでの正面衝突事故の生き残り車両に新たな顔をくっつけて誕生したものですが、如何せん車両数の限界により、登場後はしばらく4連として、タンジュンプリオク~ブカシ間の誰も乗らない運用 (爆) や、環状西線フィーダ、ジャカルタコタ~カンプンバンダン・フィーダとして運用されるにとどまっており、圧倒的な印象の顔に似合わずマイナーな存在感に過ぎませんでした。個人的には、その捕まえにくさとヘンテコさ故に、一度運用中の光景を眼にしたならば撮らずにはいられなくなり、2011年の訪問時には無理な行動が禍して骨折してしまったという暗い過去も……(汗)。



 しかし、それは決して猫バス自身の責任ではありませんので、骨折から再起した今となってはやはり、来てくれると嬉しい存在であることに変わりはありません。しかもこの編成、やはり8連化&カラーリング変更を受けて、よりグニョ~ンと胴体が長くなってナゾな雰囲気の猫バスに変貌し、日々ボゴール線を中心に大活躍していました (昨年8月の時点で)。
 今後は205系の中央~ボゴール線系統への集中投入により、ボゴール線を走るとしても環状線直通列車に充当されることが多くなり、したがってボゴール線での目撃可能性は下がることが予想されます (環状線直通に入りますと一往復するのに非常に時間がかかりますので)。というわけで、ボゴール線で猫バス新スタイルを撮り貯めることが出来たのはラッキーでした♪ もちろん、タンゲラン・スルポン線の運用に入れば、もっと遭遇確率は高まるでしょう (ブカシ線は最近東京メトロブカシ線状態となって久しいため、多分来ない可能性大)。
 ちなみに、先日ご紹介した「Espass」編成の中間に連結されている、帯パターンが異なる車両の正体は……この猫バス編成が4連だった頃の中間車 (滝汗)。4連運用の減少や一時的な調子の悪さゆえに (?) しばらく運用を離れていた猫バス4連が一旦バラされ、2両は「Espass」編成の8連化のために用いられ、先頭2両は休車。その後この猫バスを再活用するべく、中間車6両かき集められ挿入されたわけですが、腰回りがブルーとなっている先頭車との違いは明らかです (笑)。

 それはさておき、去る3月21日の『じゃかるた新聞』によりますと、インドネシア政府はこのたび「中国」の訳について、反共反中色が際だつスハルト時代に公的に固定された「チナ」から、「ティオンクォック・ティオンホア (中国・中華の福建風発音)」とすることを決定し、公文書での「チナ」の使用を禁止したとのこと。これによって、民主化&スハルト政権崩壊以来の華人を含めた国民統合のさらなる促進を目指すとのことであり、裏の意図として華人・中国マネーへのさらなる期待があるものと思われるわけですが (その経済的席巻ぶりをプリブミ=マレー系住民がどう思っているかはさておき)、そこで問題になりそうなのが、ボゴール線のポンドック・チナ駅でしょうか。
 これはさしずめ「唐人屋敷」という程度の歴史的地名と思われますので、果たして改名の対象となるかどうかは分かりません。とはいえ、一応ボゴール線の中でも乗降が多い駅のひとつであり (インドネシア大の裏口前。グーグル検索では、駅構内からの個人経営者退去問題にからむインドネシア大生と警察との衝突事件の画像がワラワラと ^^;)、地名変更とあわせて、あるいは国有企業KAIが持つ象徴的意味合いとからめて、「ポンドック・ティオンホア (中華屋敷)」となるのかも知れません。ちょっと読みづらいなぁ~。ま、元町・中華街みたいなものでしょうか。

台湾加油!個人的初訪問20周年記念・キョ光号

2014-03-28 00:00:00 | 台湾の鉄道


 先日タイ・カンチャナブリーのクウェー川鉄橋を20年ぶりに訪れ (初めて列車で渡り ^^;)、「今でも気力は大学卒業の頃と同じくバリバリに若いつもりなのに、あっという間に時間が過ぎ去りヲッサンになっちまったぜチクショー……」と思ったのですが、そういえばこの20年前のタイ訪問の帰りは、カオサン通りの旅行会社で中華航空の片道チケットを購入し、生まれて初めて台湾を訪れたのを思い出しました(最後は成田ではなく羽田に着きたいなぁ~と思ったため。今でこそ羽田は再国際化でチヤホヤされていますが、当時は中共の嫌がらせに遠慮した日本が中華航空を成田から排除し、ボロボロターミナル時代の羽田に押し込め。しかし、それが神奈川県民には有り難く、華航はいつも大賑わい。笑)。いやその……中国はこのときのタイ訪問に先立つ華中~華南縦断(個人旅行史上最悪の混沌まみれ)も含めて2回訪れ、華南を脱出してタイに向かう際に香港も経由していたのに対し、台湾は未訪問であったことから、同じ漢語を話すところとして果たして台湾はどんなもんよ?という軽い気持ちで2泊3日の台北ストップオーバーをしたのでした。
 しかし……台湾は同じ漢語を話すからといって、中国とは全く別世界であることを思い知らされ、脳天をガツーン!とやられた気分になりました。中国の「万人の万人に対する闘争」な雰囲気から、「漢語を話す連中っていうのは所詮こんなもんだろ?」と早合点して、着いたばかりの台北でも戦闘モードの動作・話し方でいたところ、そんな自分は周囲から思いっきり浮いていることに気づくまでさほど時間はかかりませんでした……(^^;)。そして、いざ台北駅から基隆まで列車で往復してみたところ、これまた阿鼻叫喚の中国国鉄とは全く異なる日本国鉄テイストにメロメロ……。当時はJR発足から約7年後で、個人的にも非鉄期でしたが、思わず「懐かしい!ををJNR!」と内心叫びまくり!



 そう、台湾は中国ではなく、むしろ日本語を普段使わない日本という感覚でとらえる方が自然なのです。今の日本には台湾に関する書籍や情報があふれていますが、今から20年前は日中友好ムードの影で、台湾については知識を得る術も限られていましたので(ネットがなかったですし、メディアも台湾には冷淡)、なおさら自分の無知を痛感したというヲチでした……(苦笑)。ともあれ、同じ漢語を話すといっても、国が違えばこうも違うのか……ということで、とにかく当時20台前半のワカゾーだった私はいろいろなことを考えさせられたのでした。
 以来、台湾とその鉄道は、漢語を第二外国語として大学で勉強し一応話せてしまうことに加え、あくまで日本と近似のノリで物事の展開が予測できてしまうため、どうも個人的には外国という気が余りせず親近感を持ち続けております。いやしかしそれ以上に、いろいろ台湾事情を細かく観察してみますと、一見すると派手でゴチャゴチャした雰囲気の中に、鉄道にしても何にしても日本を含め様々な国から刺激を受けたことによる洗練された合理主義的センスがあり、むしろ日本人としても冷静に学ばなければいかんなぁ~と思わされるところが多々あります。まぁ、こんな感じで日本と台湾を連続してとらえてしまう結果、逆に鉄道趣味面では、日本国内の多くの路線と同じく油断して御無沙汰になってしまうことにもつながり、気が付いたら普通車・復興号・釣掛電車が激減やら何やらと困ったものです (苦笑)。
 そんな台湾はいま、非常に大きな歴史の分かれ目にあるようですが、ワカゾーの時点で既に中国と台湾が全く違うことを肌身を以て味わった経験がある私としましては、「そりゃぁ~台湾の多くの人々は、中国の大義に名をとどめたい誰かさんとは違うだろう」と思うものであります。というわけで、何の足しにもならないかも知れませんが、台湾が時局の如何によっても台湾であり続け、台鉄が世代交代の如何によっても台鉄であり続けることを願って、20年前と比べ何一つ変わらない雰囲気で今も力走を続けるキョ光号(キョ=くさかんむり+呂)の未アップ画像をアップしておきたいと思います。
 それにしても、さすがにキョ光号にも時代の変化は押し寄せつつあるようで、確か新型電気罐の投入計画があるといわれるほか、手動ドア車の完全消滅は時間の問題でしょう。既に登場からそれなりに久しくなった新型キョ光客車(FP10400/10500形)は、椅子がPP自強と同じチョロいヤツですのでイマイチですが、まぁこの塗装と客車列車としてのアイデンティティを保ってくれるだけでも有り難いか……。問題は、新型罐がどのようなデザインとなることやら……。

新ヤンゴン熱鉄記 (5) DF2000牽引急行

2014-03-27 00:00:00 | ミャンマーの鉄道


 鉄道インフラをめぐる日泰関係について熱く(しかし浅薄な知識を ^^;)語ってしまったついでに、日緬関係についても語っておかなければいけません。ミャンマー政府が上からの民主化に乗りだして以来、日本の援助再開もそれなりにめざましいものがあるわけで、その最大の目玉は昨年既に話が出たヤンゴン~マンダレー本線・約600kmの全面的な再整備・高速化に500~600億円を注ぎ込むという話でしょうか。また、先日外相が訪緬した際には、ヤンゴン周辺の信号設備全面改良に80億円を供与するという話も出て来ました。とにかく、軌道の整備の劣悪さは道路に客貨いずれも吸い取られてしまう原因であり、主要道における渋滞(既に都市部ではあらわれています)を招いてエネルギー効率の低下を招いてしまいます。ミャンマーは一応産油国として国内需要のほとんどをまかなっているはずですが、昨年と比べても急速にクルマが増えている以上、やがて石油を輸入に頼る比重が増えてしまうことでしょう。既に、援助の一環である線路改良のはじめの一歩として、日本の保線技術者がまとまってヤンゴンに現地指導に入り、環状線内のレールはだいぶバラストが補充されて波打ち度合いが緩和しましたので、これからさらに本格的に改良区間が延びて行くことが期待できそうです。しかし……赤青な中国罐DF2000に牽引されたバガン行急行(巨大仏跡バガンに向かう、外国人旅行者もそれなりに利用する列車で、確か落花生。様も乗車されたはず)を撮影したところ、まだまだ工事対象として見落とした (?) ところでは編成が激しく波打っています (汗)。



 さて今回の訪問では、前回と同様DF2000が牽引するネーピードー行の急行31列車に乗り、ヤンゴンの北東70km強に位置するバゴーを再訪してみました。その目的は、前回バゴーで目撃した謎のゴムタイヤ駆動レールバスを改めて拝み、出来れば乗ることでしたが (結局乗らず。理由は改めて)、もう一つの目的として、昨年この列車で体験した壮絶な揺れを改めて体験したいという酔狂な意図が……(笑)。
 そこで、ヤンゴン中央駅前の陸橋にて、このまま待っていればいすみ205のヤンゴン修理工場入りシーンを激写できたものの、既にヤンゴン到着日にこの直後・8時発のネーピードー行アッパークラスの切符をバゴーまで購入していたため、後ろ髪ひかれるように陸橋を後にして一番北側の一番ホームに。この日のネーピードー行の編成構成は、アッパー2両とオーディナリー4両の計6両という陣容で、最大都市と新首都を結ぶ急行列車の編成としてはやはりイマイチ侘びしいものがあるのは否めません。これもひとえに、まだまだヤンゴン近辺を除けば日本の援助による軌道整備も先の話であり、ますます客足が最高速度45km/h程度&激震の列車から高速バスに移っているためなのだろう……と。実際走り出してみますと、ヤンゴンを発車直後こそ軌道整備に伴いかなり揺れが弱くなって驚いたものの、パズンダウンの手前で環状線の線路を分けたあとは、相変わらずの揺れが……。 
 しかし驚いたことに、マラゴンを通過して環状線が見えなくなった後は、昨年と比べて明らかにスピードが上がったな……と分かるほどに窓外の景色の流れ方が速い! そして近郊の要衝であるトーチャウンカレー(ティラワ・ダゴン大学方面への分岐)を発車すると、どう考えても60~65km/hほどまで飛ばしているとしか思えないほど力強く驀進してゆくではないですか! どうやら、ここ1年ほどのあいだに少なくともバゴーまで緊急の軌道整備がなされ(当面バラストを補充し、枕木の間隔が余りにも開いたところには挿入)、最高速度が一気に上がったようです……。実はヤンゴン市内の外側でも、早くも日本の援助の成果が少しずつ明確に顕れていることを知り、嬉しくなりました♪ それでもたま~に整備不十分なところがあり、そこに時速60km以上で突っ込むと、従来以上に激しく「ガッコーン、ガッシャーン!!」と揺れまくり、ケツが思いっきり浮いたことは言うまでもありません (滝汗)。もっとも、私の回りに乗っていた10数名の白人観光客の皆様 (荷物をロクに持たず、バゴー日帰り観光というノリ) は、豪快に揺れるたびに半分恐怖におののきつつ半分大喜びしていたのが印象的でした (笑……ま、私もそれを楽しみに乗りに来たのですが ^^;)。
 とまぁこんな感じで、近郊列車の終点ヤワッタージー、ランローイン線の分岐ダーバイン……とガンガン通過して爆走していたところ、何と!ヤンゴン発車後1時間40分でバゴーに着いてしまいました。昨年は2時間かかったことを思い出しますと、一気に20分短縮というのはスゴいですな……。軌道改良の効果はてきめんです。今後、緊急整備区間がもっと延びれば、そのぶん所要時間も少しずつ削られて行くでしょうし、さらに500~600億円の円借款が完全に執行されて最高速度100km/h程度に引き上げられれば、現在10数時間かかるヤンゴン~マンダレー間は7時間程度で着いてしまうという革命的変化も実現することでしょう! 
 これはこれで偉大な進歩ではありますが、それとは引き替えにヤンゴンのすぐ近くでもこれほど野趣あふれる走りを楽しめる現状が昔話になるのは些か寂しいことではあります。もっとも、少なくともヤンゴン~バゴー間については、本気で時速100~120km程度で走ってもらえるようにならなければ困るのも事実。いずれ近い将来間違いなく手狭になるであろうヤンゴン国際空港=ミンガラドン空港の代わりに、現在新国際空港=ハンターワディ空港の建設が予定され、その入札が二転三転、日本とシンガポールの企業連合が多分権利を獲得するものの予断を許さず云々といわれておりますが、この空港はハンターワディという固有名詞(かつてバゴーに都をおいていたモン族の王朝名)からも明らかな通り、バゴーの近郊に建設されることになっています。ということは……東京都心から成田空港まで行くようなものでマジ面倒臭い……。昨年、ミンガラドン空港からダウンタウンの中心スーレーパゴタまで30分で行けたところ、今年は渋滞の発生により50分以上かかってしまっておりますが、やはり海外を訪れる際の空港アクセスというものは1時間を超えると面倒臭いわけで、ヤンゴン~バゴー間の鉄道も利用するといわれる空港アクセス列車は、出来れば1時間程度で走破して欲しいわけです、はい。すると、ヤンゴン~バゴー間をディーゼルカーが頻繁運転で爆走する未来図を描けるわけですが、果たしてどうなることやら。
 それはさておき、こうして到着したバゴーにて待ち構えていたものは、果たして昨年激写したのと同じナゾ顔レールバスなのか、それとも……(つづく)。