馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

終日 ベランダで、敬老の日 客死の父を想う。

2021-09-20 07:33:38 | 日記

9月19日(日)9時半
見上げる空は光がセンターの壁を照らし
南洋樹も光浴びて目覚めだ。
9月19日(日)9時半 快晴1

ベランダで一呼吸
柔軟体操する。
7カ月ぶりの トランスハンダ付けを行う。
松脂に浸け、400度の鉛壺にリードを入れる。


スマホでユーチューブ音楽聞きながら
黙々と作業。
陽射しは強まりTシャツと短パンにする。
妻が昼食と呼ぶ。
ベランダでパスタと缶ビールで心身爽快。
午睡して再び作業。
350個完成は17時。
暮れてゆく。
夕食後、通電検査。


半ば引退して経営的圧力のない
軽労働は老夫婦には良い。
長く続けたい。

夕食中、めったに見ないTVを見る。
欧州アルプスアイガー北壁の映像だ。
こんな老齢になっても興奮するのだ。
新婚旅行でスイスアルプスに行きたかったが
ツアー申込は私達夫婦だけで中止。
上空からアルプスを眺めただけ。


欧州アルプスアイガー北壁1


欧州アルプスアイガー北壁2
21時 再びベランダへ。
ショッピングセンター閉店
従業員が帰途へ。

月の夜空
20階建てのマンションだが
貧乏人の私はは低層階に住む。
高層階では、浴槽に浸かりながら下にショッピングセンターの明かり
その向こうには東京湾の波明かりに船が見える。
9月20日6時半
ベランダにスカイブルーの朝陽が射す。
雨が続いた。
9時過ぎ、久しぶりにジョギングをするか。
今日は敬老の日。
9月20日(月)快晴の朝

越後湯沢で客死した父を想う。



再掲
帰郷


親父が亡くなって34年が過ぎた。

松濤の介護病院で過ごすお袋は94歳です。

私たち男3人の息子は記憶の彼方へ。

コロナで見舞いへ行けず2カ月が過ぎた。

今恐れているのはお袋の死だ。

葬儀もままならぬ。

昭和61年5月7日 越後湯沢の旅館で客死した親父の命日。

再掲2014年1月3日ブログ

正月2日 墓参り、見舞い、帰郷。

1月2日(木)前夜 自宅で一人深酒をした。

10時半、アルコールが抜けない体で船橋から総武横須賀快速線に乗車。

戸塚駅で下りた。

寺に行くバスが分からずタクシーに乗車。

12時半 寺の山門に着いた。

横浜と鎌倉の境にある臨済宗の古刹だ。

 

慎の古木は鎌倉時代に植えられてたらしい。

お袋が歩行困難になってから、親父の墓参りは途絶えた。

何年前だったか記憶にない。

墓前に線香を灯そうとしたが、マッチがないことに気付いた。

街道まで出てコンビニで、コップ酒とライターを買った。

線香にライターをかざすが竹薮を抜けてくる

冷たい風で線香に煙が立たない。

再び、コンビニで親父が吸っていた煙草を買う。

吸わなくなって6年経過したので、銘柄も価格も分からない。

多分 CABINだったのか?

墓前に花を添え、酒を上から少し掛け

煙草を煙の出ない線香の隣に置いた。

冷たい風にゆっくりと紫煙が浮かび

騒めく木々の間を抜けて、ホワイトブルーの空に消えて行く。

昭和61年5月7日、越後湯沢の旅館で客死した。

享年72歳。無念だ。

前日、お袋に「では行って来るよ」

翌日 早朝、温泉に浸かり部屋に戻ったところで倒れた。

川崎大師が企画した巡礼の旅だった。

体が弱かったお袋への健康祈願だった。

只、親父は乗り気ではなかったが、幹事の強引な誘いに

体調が思わしくなかったが出かけたのだ。

巡礼の旅でのスナップ写真の最後は、長生きの泉、標柱の前だ。

巡礼の旅は、親父の遺体を残したまま出発した。

兄と新幹線に飛び乗り、残雪の谷川連峰が見渡せる部屋で

両手を小刀で結んだ親父と対面した。

まさか、私が学生時代、毎年登山した山間での死が信じられなかった。

警察の検死後、大型の葬儀車で横浜郊外の実家に遺体を乗せて帰った。

泣きすがるお袋と突然の訃報に那須から駆けつけた親族は呆然とした。

葬儀も終わった数日後、巡礼の旅を企画した幹事の奥さんから

突然 電話で「川崎大師様にお礼をしてください」と言う

連絡であった。

私は怒鳴りつけた。

遺体を放置したまま旅を続けた上

通夜、告別式にも参列せず、お悔やみの言葉もなかったのだ。

それから、信心という名目で、見せ掛けの金儲け団体は嫌いになった。

私もサラリーマン時代は旅行関係会社に勤めていたので

このような無責任な団体には我慢ならない。

私達が幼い頃、親父は毎年、大晦日の深夜川崎大師に護摩焚きに行き

早朝帰宅すると、葛餅を持ち買ってきた。

葛餅を食べるのが楽しみだった。

 

亡くなって28年の歳月が流れた。

ひとしきり佇み、山門を出てバスに乗った。

 

戸塚駅では湘南電車に乗車して品川駅で山手線に乗り換え

渋谷駅で下りた。

正月2日 渋谷の交差点は華やかな人込みだ。

東急文化村を抜ける坂道はひっそりとして

通り沿いのカフェは閉じられ、山手通りに交差する正面に

ホスピタル本館が見える、

午後、3時 3階のお袋の部屋へ。

看護士さんが車椅子のお袋に鼻の吸引していた。

看護士さんが、お袋に話しかける。

「どなたが見えたのですか」

「弟」!

「あら、若い弟さんですね」

タイムスリップした記憶の断片が蘇り

お袋には、瞬間若い頃の実弟に見えたのだろう。

午後4時、弟夫婦がやってきた。

お袋の顔に表情が表れる。

同時に私が次男であることに気付く。

 

17時 横浜の実家に弟夫婦と行くことにした。

お袋は「行きたい」と声にならない声を発した。

私たちの会話は理解しているのだ。

悲しそうな表情のお袋に手を振り車に乗った。

夕闇の東名高速は正月渋滞。

下川井で下りて18時実家に着いた。

久しぶりの帰郷だ?

仏壇に線香を灯し、やっと煙と匂いが部屋に漂った。

帰れない主の部屋のベッドには孫が贈ったぬいぐるみが置かれたままだ。

親父の趣味だった、廃材を使って作ったお城に数年の埃が積もり

それこそ、風格ある家城になっているのだ。

 

掛け軸はお袋が70代で書道を習い80代の時に書いたのだ。

 

傍らには若い頃の夫婦、祖父、私たち男三人兄弟の少年期

孫の出産後や孫の中学入学記念等の写真が

セピア色になりかけていた。

 

全ては建て替え前の昭和時代の屈託ない光景が

薄暗い明かりの下で静まりかえっている。

この部屋に生きては戻れぬお袋への愛しさが満ちている。

11年8月に実家に帰った記憶が蘇る。

リビングで3人だけの宴が始まった。

新潟の酒を酌み交わし、刺身、煮物、沢庵が並んだ。

料理にはお袋の匂いがした。

義妹が言った。

「みんなお母さんに教わったの」

同居していた頃、子供のいない弟夫婦は仕事を持ち

食事はお袋が作っていた。

毎年、お袋が浸ける沢庵は絶品で

送られてくるのが正月の楽しみなのだ。

 

私たち男3人兄弟は皆学業優秀ではなかったが

身体は丈夫に育ったが、特に私は両親を悩ませる

半端者だったのだ。

 

60過ぎても、皆自営業で働いている。

3人とも、要領悪く金儲けが下手だ。

お袋の自慢は、息子達の女房が優しく

嫁姑の関係が良好なことだ。

私達男兄弟も小さい頃は喧嘩したが仲が良い。

諍いはないのだ。

 

九段スズキ本店 長野夫婦のように、遺産を巡って

善意の人達の好意を踏みにじり、騙し

虚飾の生活に浸る生き方はしない。

醜い三つ巴というより、十巴の争いは起きない。

争うような遺産もなく、互いに労わりあいながら暮らしている。

 

親父には弟の結婚を見せられなかったが

弟夫婦が結婚して同居をした。

まもなく、息子が中学合格した時

その学校は弟の嫁さんが勤める医学系の付属で

家族で幸せがいっぺんにきたと喜んだ。

その直後に兄が3月の八ヶ岳連峰で遭難の一報が

兄の嫁さんから入った。

幸せな瞬間が暗転したのだ。

私は後輩の山道具を早朝の新宿駅で受け取り

駅前でパンツ一つになり着替えた。

特急あずさに兄嫁と乗った。

車内放送で、私の名前が呼ばれた。

「車掌が通りかかりましたら、お声かけてくだい」

車掌は紙切れを手渡した。

只今、救出されましたのメモだった。

兄嫁は車内の好奇な目も憚らず泣き出した。

 

個々の家族には個々の苦悩が付きまとうが

平凡で慎ましい生活に満足している。

酔いながら思い出話をしていたが

午後9時になったので実家を出た。

碁盤の目のような閑静な住宅地は人も通らず

物音一つせず、街灯が緑の垣根を黒々と浮かび上がらせ

私は久しぶりに心地酔いで駅に向かった。

23時半 自宅に着いた。

 

本日の歩数計

19511歩

14047m

1084カロリー

異常でした。


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