marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(574回)<No.6>親愛なるJへ  中国厦門(アモイ)出張の思い出

2019-07-23 12:26:05 | 日記

新愛なるJ 

 不思議な名前の都市、厦門(amoy)。ここに僕が行った先は、磁性体に名を発して以降、さまざまな電子部品を世界的に生み出している「T▼K」でした。対応は、日本からの派遣されている製造部長さん。大陸の日本からの殆どのメーカー工場は、訪れた限り当然と言えば当然だが日本人ですね。しかし、日本からの工場にはあちらのお役人のような方の席が必ずあります。これは監視のためなのか中央との利便や情報をやりとりするためなのか、お金が欲しいのかは不明。

◆その工場の中国での場所や規模などは今はgoogle mapがありますので探せますよ。上海や深圳ではなく、大陸海側の中央から少し南の不便にも思えるこの場所にあるのは、あの「経済特区」などが出来つつあるときの日本と中国の政治的意図があったらしいです。社員の社宅は敷地内にあって、各部屋にクーラーも付いているとか、そして女看守が出入口に常時いる。勤務で工場現場に出払った後にもね。その工場の前には大きな道路があって自動車が通る。内陸から採用された今まで自動車など見たことない女工さんが、道路を渡ろうとして亡くなった人が出たので厳しくなったんだそうだ。今回の僕の出番はコスト削減の話ばかりで殆どなかった。

◆僕はここに中国通の、といっても 長◇◆産業の御曹司で、営業の為の武者修行として当社に入社したようだった彼と行った。彼は、学生卒業時、中国を一人旅したとのことで、いろいろ中国の著名なところは知っていたな(これも将来の勉強だったのだろう)。無論、彼は修行が済んだ数年後には、嫁さんをもらうと同時に自分の親父さんの事業の跡を継ぐために退社した。海外を渡り歩くには、相手国の数字(お金のこと)を必ず知っておかないといけないというのが口癖でした。確かに先方の国は外人が数字に弱いと思うとぼったくりを始めるからです。(香港の空港使用料で僕はやられた。)

◆残念ながら写真はありません。厦門と言えば、僕にあった記憶は、近松門左衛門の「国性爺合戦」、むかし何のことやらだったが、この「国性爺」とは「鄭成功」のこと。日本人を母にもつ「鄭成功」という人物が、この厦門の地で明朝復活を願い、清王朝に反旗を翻した争いで、ここが舞台だったこと。その記念の場所にも行きましたよ。コロンス島という小さな島に記念のやしろや碑が建ってまつられていて結構の観光客。海外の租界地にもなっていた時期、外人名が作ったという運動場があったし、この島ではピアノが作られていたんだと教えてくれた。僕の驚きは、海岸沿いの市場には豚肉の塊ばかりでなく魚介類売られているがいたのですが、その中にカブトガニが結構の数、売られていたことです。もちろん食用に。

◆僕の記憶のもう一つ。アヘン戦争。あの難関の科挙試験にパスした優秀な「林則徐」という役人が、自国にアヘンが入ることを禁じ、イギリスに抵抗をした場所だったということ。アヘンの多くを焼き払ったという話。人格を破壊するアヘンは亡国であると・・・そういえば教科書で掲載された阿片屈でパイプにくすぶられたげっそり痩せた人々の挿絵を見たなぁ。こういう大陸での話が日本にも伝わり、国を思う日本の志士達が勉強し奮い立った訳ですね。かの吉田松陰などは海上防衛を憂慮し青森の津軽海峡まで足を伸ばした訳だ。林則徐はイギリスよりもむしろ南化するロシアだと予見していたようだから。

◆google mapでは教会があるようだが、少なくとも僕が歩いた限りではキリストの教会を見ることが出来なかった。キリスト教会が見られない場所では、自己浄化能力がその土地にはないと思っていた僕は、その数週間後だったか、この厦門で大がかりな汚職が摘発されたというニュースが大々的に流れたことを記憶している。そういえば、さきの「林則徐」が役人から解任された理由が、たいそう厳しく賄賂を禁じた為、疎まれたためだったという。・・・隣国にもこういう立派な人がいたんだ、尊敬! では、次は更に南下して台湾から