marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

☕ 僕の好きな町並み・・・コロナ禍で家にこもりフレイルにならないために

2021-04-23 18:07:30 | 日記

 天気の良い日がつづき、嬉しい陽気。チャリンコで街を散歩する。僕の好きな町並みのひとつ。タワーの地下には駅裏まである長いトンネルがとおっている。夏の竿灯大通りが右手にずうと伸びているので、ここのどこから見ても特等席。最上階にお風呂があるマンションである。

 世界の画家 藤田嗣治の大きな「秋田の行事」という絵が掲げれていた平野政吉美術館。写真では背中にあたるが市の文化創造館となり開放的なサロンになった。小さな茶店ではjazz流れていた。須賀敦子の本を買った。藤田の絵は写真に見える右手の新しい安藤忠雄が設計した美術館に移った。昔のお城のお堀であるが噴水もあって僕の好きな風景である。前にアップした散歩の工事の建築現場は、道路を挟みすぐ右手にあたる。

 お城の内堀は季節の木々がいつも癒しとなる。通ると写真を撮ってしまう。サギが餌を探していた。


世界のベストセラーを読む(840回) イエスはどこによみがえったというのか?

2021-04-23 17:31:43 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(652回) イエスはどこによみがえったのか? マタイ福音書28章から

タイトルに書いた「答え」は復活の時、現れた天使とイエスの言葉にある ***マタイによる福音書28章5節から10節まで***◇・・・天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十......
 

◆一番初めに書かれたイエス伝はマルコによる福音書である。文字でイエスのことが書かれたのは、聖書の中ではパウロの手紙、テサロニケ人への手紙だったと記憶している。マルコのことを想像するといろいろ面白い。レオナルド・ダビンチの描いた最後の晩餐はマルコのお母さんの家だったと言われているし、パウロと伝道をしたバルナバは、マルコのいとこなのだ。バルナバは、聖書は熟知していたからマルコは小さなころから、ユダヤ人の子どもたちがそうであるように、いろいろ民族伝来の神の導きの歴史を教えられてきたことだろう。◆そしてもっとも不思議でたくましく思ってしまうのは、マルコは書かれた文字として人が自己納得してしまうイエスの復活の事実とその恐ろしさを今後、読者へどのように伝達しようかと苦慮して、後で第三者が追記したようにではなく、復活したイエスに会い女たちは恐ろしかったとそこで書くのを止めてしまったことなのである。◆後代の読者は思うことだろう。彼イエスは一体どこによみがえったというのだ、と。そこで、彼はまさにその時、傍らによみがえられたイエスが立たれた語られているのを感ずるであろうと。


世界のベストセラーを読む(839回) 十字架に掛かりたるままのキリスト

2021-04-23 15:00:00 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(650回) 朝から雨。’20年4月10日受難日、金曜日・・・イエスの死。

****昼の12時になると、全地は暗くなり、それが 3時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨......
 

◆これは、2月に配信したブログ793回、794回の神学者青野太潮先生への手紙にも関連します。イエスが十字架に掛けられ亡くなるその時点のドラマは、この地上の神、人の三次元空間での世紀のドラマのサミット(頂点)なのだ。人の摂理を司る神側から見る神の子と言われた神人と、人側から見ると哀れな叫びをする人神のどちら側に立つか、そして時間経過の中でいかに解釈するかによって、どちら側にも傾きえるドラマなのである。それは、人の解釈を遮断する。時はその時であるのである。神殿の拝殿と奥の至聖所の間にかかっていた垂れ幕が裂けたのである。異邦人、ローマの百卒長が言う。「この人は本当に神の子だった!」◆「十字架に架かりたるままのキリスト」青野先生は、その痛みは誰の為かを忘れるなと言いたいのだろうと思う。