marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(571回)<No.3>親愛なるJへ 中国上海出張の思い出

2019-07-22 00:29:59 | 日記

親愛なるJ 

 その後、おかわりなくお元気でお過ごしでしょうか。写真の整理が悪く、pcを買い換え時、消えてしまった写真もありましたが、時間が出来ましたので記録にとどめたいと思います。

◆中国上海、クリスマス 『聖誕快楽』としてお祝いします。聖誕とは、イエス・キリストの誕生、つまりクリスマスです。これは、僕が泊まった上海でのホテルだったのですが、実のところご当地の方々がお祝いするのではなく、海外からの出張の方が多く宿泊されるのでクリスマスの飾りを入り口においているものと推察しました。中国上海出張では、実は3度行き、同じこのホテルに泊まりました。そのうち、2回は夏と冬で、写真は冬。ホテルの入り口に飾られていたツリーです。(クリックされ大きくしてください)

◆もうだいぶ昔のことだったので、旅の案内本もどこかへ埋もれてしまったのですが、僕の記憶にあるのは、ホテルの部屋の窓からだいぶ古いキリスト教会が見えたこと。そして、ホテルの裏は学校だったことです。それから、道路を隔てた向かいの建物の上の”洋服のはるやま”の看板。さて、上海のどの辺だったろうと・・・。googleマップで探すと、おそらくここだったろうと推察できました。僕の泊まったところは、新世界麗笙大酒店(上海新世界丽笙大酒店)、確かに裏手に学校がある。ホテルの窓から見えた教会は、Shanghai Christian Church Moore Memorial Church(上海基督教沐恩堂)・・・。

◆上海はとにかく、人が多い。朝は早く、空き地の広場で太極拳をするや、路上歩道のにわか屋台で朝食を食べる人々が見られる。勤務帯はとにかくすごい交通ラッシュ。クラクションも遠慮無くならす。信号があっても、歩道をまともに渡れない。有名な東方明洙という電波塔が見える流域のバンドン地域とかは、早くから外国仏国、英国などが住んでいたということで町並みが比較的整理されきれいだったが、建築中の高いビルの足場が竹で組まれていささか驚いた。流域はゴミが浮いているし・・・。フォルクワーゲンのぼろいセダンが煙を吐き散らして走るのが多く見られました。中身ともかくフォルクワーゲンは中国では販売台数がいい。

◆向こうでは水道の水をまともに飲んでは、腹を壊します。部屋にはミネラルオゥターがあり、電気ポットがあるので時折、湧かして飲みます。少々高いのですが、サントリーの2リットルミネラルオゥータを買い込んで飲んでました。正露丸は必ず持って行くようにしてました。夏に、同僚がアイスコーヒーをホテルロビーで飲んで夜中に七転八倒。僕はホットでしたが、氷が良くなかったらしい。夜中に僕の持って行った正露丸を全部飲んでしまったが朝方もふらふらだった。室内の電話もフロントに繋がるがまともな対応はできません。自分の身は自分で守るべしです。ですから、歯磨きも室内の水道はだめです。中国でなくても大陸のあちらの国ではどこでも。

◆それから、夏暑い夜は、教会の前の庭には、これまた大変な人の集団がたむろ。涼む為なので、将棋をしたり、ラジカセで歌を聞いたり踊ったりと・・・。デパートもすごい人。無論買うのではなく、クーラー効いてるので涼みに来ているのがありありなのだった。先方の代理店の日本語を話せる若い中国の青年は、いろいろ説明してくれたのだが、道路には大きな看板がところどころあって、何箇条か人が守ることが書かれていると、一番上に「道路でつばを吐くな」と書いてあると説明してくれた。スーパーの沢山あるものは、期限切れが多く、そんの関係ねーです、きっと。

◆彼の叔母さんはクリスチャンだったそうだ。それで日本語を勉強しろと言われたと。その学校も見せてくれたが、普通の家。ホテルの裏の学校も子供らは赤いスカーフらしきを首に巻いているから分かるが一見学校かどうかわからなかった。ホテルと学校の間の空き地には、ホテルから捨てられた残飯が山となっていたのには驚いたなぁ。

◆ホテルの食道もそうだが大衆食道も、きちんと食器あらってるのかなぁ~。箸は、太いし(これは日本のは魚の骨など取るので先端が細いとのことだが)鉛筆みたい。お酒は日本で飲める老酒はおいしいほうで、コーリャンだが粟だかから作られるお酒はものすごい高い度数で少し酸っぱい味。客だからといって飲ませられるので要注意!カンペイなどといってガンガンのむ人はトイレにいってゲロを自分で出せる訓練をしておくことが大切。食べ物で記憶にあるのは、豚の角煮、向こうのは見た目は同じだが、シナモンかどうかそれらしき赤っぽい餡(アン)を掛けるので素材の肉の味が飛んでしまってとてもまずい(これも普段から食べている向こうの人はうまい!なのだろう)、残念! という記憶がある。

◆著名なお寺もあるけれど、観光客あいての乞食もいて、お金など渡したら絶対いけないと、通訳兼ねた代理店の青年はいうのだった。それにしても彼は、ヘビースモーカーだったな。長生きせんぞ、彼は・・・もろもろ思い起こせば多々ありますが上海はこの辺で終わりにします。ここを訪れた会社先は、小型モーターなど世界的シェアーを持つ日本の某メーカーでした。

次回は、韓国に参ります・・・。 では、お楽しみに   


世界のベストセラーを読む(570回)<No.2>親愛なるJへ 『般若心経』を聖書的に言えば、ひと言「肉の思いは死なり」

2019-07-19 08:55:40 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(522回目)(その1)「潔めを受けつつ、栄えに進み」 告白の背後にある本当の出来事に目を留める

 掲載したかったメッセージの抜粋を以下に記します(以下◆の以降となります)。これは、日本基督教団出版局『信徒の友』『こころの友』編集長の林牧人牧師の地方教会での130周年記念礼拝に......
 

親愛なるJ

 添付のメッセージのお話は1日の内の小一時間のものですがブログの添付メッセージの文章は5日間連続で続いています。是非続けてお読みください。個人のブログなどはどうしても本人が気づかない癖のある思考が絡んでいるものですが、そのメッセージ自体は教会という場所で信徒とそれ以外の方々に公開されている内容です。聖書はいわゆる「聖」である理由はここにありです。教派的にはJ・ウエスレーのメソジストです。

世界のベストセラー聖書をどう読むかは、自分の言葉でイエスの言葉とどのように会話するかにかかっていると言っていいと思うのです。ところが、みんな人が書いた参考書をすぐにひっ張り出してくるのです。そんな時間が経過すると、その人の書いたものに、又、解説がつき始めるのです。それが流布され、それが正解となるのです。ですから、未信者が先生はどう読むのですかと尋ねると、このように解釈されている・・・とか言い始め、自分の言葉でない公になった古い解説を説明しだすのです。それでも一応、神様に携わる人だから尊敬のそぶりをしなくてはいけない。あのルターは神学には試練が必要だと言ったのです。フォーサイスという神学者は教会形成には神学が必要だと言ったのです。人それぞれ違うように、教会形成も異なるでしょう。この地上に存在する者は弟子と言われる方々でも自分の十字架をみんな背負っているものではないでしょうか。真理はひとつでも啓示は時代、国により異なるでしょう。そこでも彼(イエス)はその人類舞台での演出のインフラのすべてを我々に提示されたということです。黙示録がありますね。それに書かれているパトモス島のヨハネが書いた教会への神からの評価のどれに該当するのかくらいは良く考えて見る必要がありそうです。決して人々にはイデオロギーのようにこれだとあからさまに姿を表さない。

◆  無論、これは信仰的に言ってというと真逆のようですが、僕のようなド素人からすると、イエスの言葉に、僕ら人としての生き物がそのまま鵜呑みにすれば不条理極まりないものがあるように思いますね。選ばれたと自認する牧会者は、恐れ多いかどうか知りませんが、そのことを自分の言葉で捉えようとしていないのではないでしょうか。恐れ多いのかどうか知らないが、回答が得られないのです。とすれば、周囲の人間はそれ以上の触らぬ神にたたりなしであろうと思いますね。恐れ多いから「神に委ねよ」となるのでしょうか? 僕などは自分が委ねる何者なのかも知り得ない。ようやく罪と呼ばれる欠陥見えてきたところです。この国には、彼(イエス)を信じて(その度合いは僕らには分からない)、喜んで死んでいった人々がいたということですね。こんなおかしなことがありますか!

◆それでも自分の言葉で宣べ伝えるという弟子達の言動に不思議にも多くの心の中で目覚めたいと願う人々が共感するのです。それには、かなり後ろ向きの自分の十字架を理解する省察をかなり日々、生活の中で詳細に行って行かなくてはなりません。この限界を知ったら自分の魂が天国に迎えられるであろうこの地上での霊的改善を伴うシステムが見えてくる。そこに聖霊という介在の必要性も訳の分からんものとしてではなく見えてくる。他宗教ではこれをストレートに実行しようとするのが肉体を酷使するいわゆる修行と呼ばれるものだったのではないでしょうか。キリスト者は、まず聖霊の介在を願うべく、毎朝、祈りから始めるのです。自分の言葉での彼との対話です。

◆イエスの言葉の不条理というのは実は、聞く我々への神からの挑戦なのではないでしょうか。解説では無く、まさにあなたはどう生きるのか、何を信じているのか、です。「自分の十字架を負って我に従え」と言われましたね。自分の十字架の認識。なんとマイナーな後ろ向きの省察なのだ。しかし、大変な試練の中で選ばれし民族は、世界に神を不完全な人と言う生き物の言葉を使わずして生き様で神の概念を広めていった。彼は、あからさまに姿を見せない。地上の不完全な表せば消えていくエリートらによる定着される文言などには収まらない、もっと次元の高いものだからなのです。この地上において、それにはこの地上においてはなんと筆舌に尽くしがたい試練という逆説があったことでしょう。さて、・・・

◆この国の仏教の必ずといって唱えられる「般若心経」。これを聖書の記事からひと言言えば「肉の思いは死なり」ですね。いずれも今生の不条理な肉体という媒介をして僕らは生きているからそう思えるのです。よく、考えて見てください。人がイメージで生き、それを肯定するとすれば仏教は先祖の供養でしょう。過去に生きた先祖がともに歩むというイメージ。その物語性。聖書に垣間見られる脱出のイメージ、そしてイエスの厳しいと思われる言葉は、それを遮断する言葉なのです。親の因果が子に報いでもない、輪廻転生は次は天上界の永遠の生のみであると、つまり過去と現在にまとわりつく不浄な霊からの脱出。彼はいうのです。過去を捨てよ、それらは私の犠牲によって十字架につけられたのだ。我に従え、我らを迎えるのは、ただ輝かしい栄光の未来、天上の永遠に生きる世界なのであると・・・  今回は長くなってしまいました。健康に留意されてください。 Ω


世界のベストセラーを読む(569回)<No.1>親愛なるJへの手紙 思想と宗教の結びつき:(国学者)平田篤胤

2019-07-18 12:47:29 | 日記

親愛なるJ 

          

 僕も少しは静かな時を過ごすことができるようになりましたので、仕事でのこと、差し支えない範囲で海外出張でのあれこれを少し書いてみようと思いました。”世界のベストセラー”でなくてもと思わるが、僕の地上においての指針になっているのでこれを続けて掲載させていただきます。

◆僕が、人生で初めての海外出張の時、それは隣の国上海でしたが、成田の広いロービーについたとき、思い出されたのは学生時代読んだ森有正の「バビロンの流れのほとり」の中の、彼がフランスに留学する船から上陸する際、脳裏に浮かんできた、アブラハムが神に「親族を離れ、わたしの示すところへ行きなさい」と言われたところ。かつての知識人はヨーロッパへは船で行ったものだ。まだ飛行機の時代ではなかったので。「世界を見てやろう」の小田実や、作家の遠藤周作やカトリック神父の井上洋二さんなんかも。僕にはずいぶん昔のことだ。見ている空や海は世界に繋がっている。見ず知らずの国へ行く前のどきどき感はどんなのだったろうと。神が創造された土地なのであるから。アブラハムに神は、東西南北、目にするあらゆるところを与えようと誓った思いを持って、未知なる土地を目指して出発した。

君が知っているとおり神が自分の似姿に人を創造した(創世記)ということが、いつも頭から離れず、自分も含めて人を知れば神を知ることに少しでも近づくことが出来るようになるのではないかと思っているのです。魂の器としての身体を治す医者がたいそう尊敬されてきたのは命に通ずるものがあったからなのだろうと同時に、神の似姿に人が創造されてきたからなのだろう。人と言う生き物には、無論肉体という中にそれぞれにとても神秘的なDNAを繋げ伝えていく歴史を持った秘密を抱えて存在しているのである。肉体が滅びても生き延びるという何かが。 

◆僕の勝手な歴史的ロマンがあるわけだ。それは、イエス誕生以前、あの地で僕らが高校の世界でもならうバビロン捕囚。何度か彼らの祖国は他国に蹂躙され、彼らの祖国が消滅したときに離散させられた人々、そういう大変な民族的試練を受けた人々の中に多くは「東を目指した人々」も多くいたのだろうと思っている。北イスラエル、南ユダに分断し、BC722年北イスラエルがアッシリアに1世紀経たBC586年にアッシリアに代わり世界の覇権を握ったバビロニア帝国のネブカネネザルによってとうとう南ユダも失われた。残りの失われた10部族は何処へ行ってしまったのだろう。彼らは旧約の預言に救世主が生まれることは知っていただろうけれど、当時の彼らにとっては遠い未来の希望。彼らは、アブラハムに神が告げられた希望を託して東へ向かった(無論、何世代もの時間を掛けて歴史上の国々にも関わりながら)なぜなら、この地上すべては自分達の神である創造主のなせる業の中にあるのだから、それは預言された助け主が来るまでのことでもあると信じて。

◆今は彼らの足跡をyoutube見ることが出来るようだ。日ユ同祖論なんかも・・・少し行き過ぎ内容もあるけれど。カスピ海周辺にいた人々、弓月氏という民族集団、移動してきたキルギス、ウズベキスタン?あたりには彼らの国の痕跡があるそうだし、失われた末裔として発見された中国雲南省の人々の中にはイスラエルに帰った集団もあったそうだと聞いたのはもうだいぶ前の話だ。聖徳太子のブレーンだった秦河勝は、本も出ているけれど大陸を東に移動してきた謎多き秦氏の一団だったといわれている。そして彼らは理想の国を目指して日本にまでたどり着いているとされる。日本の神社のいわれを調べるとどうも出所(言葉の記録として表れるの)は室町時代あたりからとかはっきりしない。八幡神社と調べると渡来人(秦氏・・・)が出てくくるから、やはり最も古いのはこの辺だろう。ヘブライ語で神(ヤー)秦(ハタ)=八幡。東北地方にも結構その名前の土地や無論、神社も多くある。かなりの技術集団でもあったと思われるのですね。

◆僕がとても不思議に思うのが、この国人々の信仰心というもの。日本の至る所に神社や祠があるし、近代以降、歴史上で神仏習合になったり、廃仏毀釈になったり、古くは本居宣長や、彼を慕う江戸末期の平田篤胤(この人のお墓は秋田県の秋田大学の裏手の高台にあり、裃姿で本居宣長の墓所の方角を向いて葬られているそうだ)が黒船来航以来の国学に思想的影供を与えた(作家島村藤村の「夜明け前」)。これだという決定的思想にはなりえない漠然とした、あるときは、古来からの心の中の「通奏低音」と呼ばれ、表に現れれば漠然とした「空気」と呼ばれ時勢に押し流されるこの国の思想。しかし、言葉として表に現れて来ないが、この国の人々の摩訶不思議な信仰心というものには動かないものがあるように思うのです。

 ・・・長くなりました、又、書きます・・・健康に留意されてお過ごしください。それでは・・・   


世界のベストセラーを読む(568回) (神学者)『野呂芳男』と (歴史学者)『田中英道』

2019-07-17 05:54:02 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(519回目)(その1)不条理を解明しようとすることが人として生涯を生き通すことなのだ

 西日本では大雨で又、大変な被害。この国の地形の移り変わり、ぼくら人の手では如何ともできない天災について。ともかく犠牲は最小限に、早く復旧されることを心から願います。 僕のいると......
 

◆1年前を振り返ってという添付文書がついている画面は、投稿文書の文字数が限られているようなので(文字を小さくはしているのですが)、表題の結論のみを記録に残したい。自己アイデンティティーを求めてきた僕にとって追求してきたことがらが、公になって(僕個人の中で繋がりはじめて)きているようで嬉しく思いました。それを箇条書きにして記録にとどめます。2点。

◆1942年、小説「異邦人」や「シューシュポスの神話」で「不条理の哲学」を打ち立てたカミュを評論している野呂芳男という神学者の「民衆の神 キリストー(実存論的神学)」:ぷねうま社 <2015年第1刷> に次のような記事がありました。・・・p24「・・・カミュのキリスト教理解は主にローマ・カトリシズムからきているもののようである。ローマ・カトリシズムの神観は、言うまでもなく中世的であって、客観的・世界観的に神を認識しようとの努力である。神を世界観的に認識する以上、そのような神の支配する世界には究極的には、不条理は存在しないは筈である。ところが不条理は厳然と存在するのであるから、もし神が、この神のこの世界の究極的な支配者として世界観的に考えられるならば、殺神(deicide)こそ人間の義務であるとカミュは主張する。・・・私は、カミュの世界観的なキリスト教へのこの反逆に賛成する。・・・」

◇僕が、以前ブログの中でシモーヌ・ヴェーユのことを書いた時、彼女がカトリックでなくプロテスタントであれば、違った思想形成をされたのではないかと書いたことがあった。これに通ずるものであると僕は思う。中世・・・そう、現在もエキュメニカルなどで人の良心に繁栄されるであろうと神観に訴えかける人の思いを一緒くたする中にも、少し待った方がいいと語っているのが実在するキリストではないかと僕は思っているのです。

◆歴史学者 田中英道、この先生の連続講義は、youtubeで流れていますのでご覧になれます。キリストを知った今では殆ど霊的雰囲気をあまり感じなくなったのですが、日本中になぜ似たような名前の神社があるのか。作りが何故似ているのだろうかとか、あちこちにある石の板碑、古代からのこの国の人々の信仰心というもの、それが今の人々の心の中につながるものがあることにも心引かれていましたので、講義の中で「日本人がキリスト教を信ずる底辺には古来からの神道が流れている(話の中で曾野綾子や渡辺昇一も出てきたところも面白い)」と語られていたところに僕はまったくそうだと同感したのですね。イスラエルの失われた10部族の話や日本中にある(僕の田舎にもある)八幡神社や聖徳太子のブレーンだった秦河勝など、僕が考えてきたことにすべて繋がってきているようでとても嬉しく思ったのです。 ・・・


世界のベストセラーを読む(567回) 生きている限りは自分の肉体から解放されないという”しがらみ”の不条理

2019-07-15 08:02:52 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(520回目)(その2)不条理を解明しようとすることが人として生涯を生き通すことなのだ

 さて、不条理として掲げた先、相矛盾するようなブログのイエスの言葉なのであるが、(オウム真理教の教祖が死刑となったとのニュースですけれど)、ぼくは宗教の怖さというのは、真の自分の追......
 

◆僕がどうして、カミュがいうところの不条理を抱えているかといえば、表題のとおり僕らは、今生に生を受けて以来、自分の肉体からは解放されないという”不条理”があるからなのである。思考する、しないに関わらず、すべての存在や言動は、自分のものではあるに関わらず、自分では手におえないものを背負ってその肉体に存在させられているからなのである。外交体力のある人や、神経系の気丈な人は、outputにのみ喜びを見いだす人はマイナーなこのようなことは頭の片隅にも無いであろう。しかし、僕は人類というすべて生を受けている生き物は、何らかの口で言い表さずとも、たとえ無信者であると言う人であっても宗教的であると思っている。

◆いずれ死後には、生を受けていたころの審判を受けるという。あるいは、親の因果が子に報いと言い、輪廻転生があるという。科学や学問では証明しきれないであろうこれらの事柄も、実はすべての人と言う生き物に無意識にも関わっているものなのであると信ずる。

◆世界のベストセラーが言わんとしていることは、それら自らの力ではいかんともしがたい、なおかつ、そのすべての人が意識する、しないに関わらずそれらをかなぐり捨てて、命というシステムを提供されている天上界へ帰還(脱出)しようと述べ続けてきたことである。(これは今ふうに書いた)だから、よく考えて欲しい。僕ら自らの力では不可能なのだ。先に述べた自分で選択できない条件の元で生を受けてしまっているのだから・・・。

◆NHKの”人体”という番組での”DNA”の話や、同じくEテレでの”AI人間てなんだ”などを見て、神が自分の似姿に人を創造されたことのそのシステムが解明がなされてきつつあるということかと。人型ロボットなどが作られて・・・。とすれば、人が人を創造せんとすれば殆ど限りない時間が必要となるだろうが行き着くところ”神は霊である”と書かれて、神が人に霊を吹き込むことによって命が与えられたとあるから、僕らの力ではどうやっても天上への脱出は不可能ということだ。修行などという言葉があるがこれもすべて身体に関わっていることではないか。・・・

◆僕ら人類の生については、ここにキリストの十字架が現れるのである。彼の元で、一度、地上の肉体の死を受け入れ、自分も一度死ぬというのである。あらゆる”しがらみ”から解放されるためにである。特に、地上のさまざまな霊のしがらみからも。・・・そして”新しい人に生まれ変わる”のであると。