菊田せつこ先生の思い出(2)

2019-02-25 | 料理

グループに入れて頂いたその期の始め、4月に先生から「これまで3年サイクルで

7回、 つまり21年間お勉強したことになりますが、これをもって「ぎんがむ亭」も 

終焉を迎えたいと思っております」とのお知らせを頂いていました。 

私は最後に滑り込めてでラッキーでした。

(ロバート・デニーロのレストランに団体で連れて行って下さった時の先生)

3年目の12月もお忙しい中、お元気にご指導頂いていたのですが、

年が明けて1月始めに突然信じられない先生のご訃報通知が連絡網で

回ってきたのでした。余りにも急で大変なショックを受けました。

それは16年前のことで(2003年1月)確か享年75才でいらしてと思います。

年末のご多忙でお疲れのところ、肺炎になってしまわれたとのことでした。

ご家族はもとより、先生をお慕いし教えを乞うている多くの方々が無念の

思いを感じました。今ご存命でしたら93才位になられていると思いますが

特に3D-フラワーアートは人気上昇中でしたから益々盛んになっていく

ものと誰もが 思っていました。きっと絢爛豪華で素晴らしい作品を沢山創作されて

いただろうと思うとに残念に思います。

(下の作品は私の手元にあります初心者向きの作品です。)

75才という年齢はやはり身体の変わり目 の年齢かと思います。

(私自身はその後期高齢者入りの年齢をもう越えてしまいました。)

 その後、お教室では、娘様の松井ミチル先生が裏千家流の懐石料理クラス、 

松華堂弁当クラスのお教室を続けていらっしゃるようです。

 

      肺炎の恐ろしさは私も分かっているつもりです。夫が24年前に経験していま 

したので。夫の場合は、60才で会社を替わった翌年、少し熱っぽいので会社の

医務室を訪れたら、担当医師がレントゲンを撮って下さり、「このまますぐ入院 

するように」と診断を下され、「大したこともないのに何故?」と不本意ながら 

がら大学病院に入院したのですが、お蔭で命拾いしたのでした。入院してから中々合う薬 

がなく1週間~10日目位の頃、症状が最悪になりました。生死の境を一時 

彷徨ったのでした。その会社の先生には命の恩人だと感謝しています。

退院するまでに約1ヶ月かかりました。高齢者にとっては癌も怖いけれど、

肺炎はもっと怖い様に思えます。

 

 

 


「ぎんがむ亭」菊田せつこ先生の思い出(1)

2019-02-24 | 料理

菊田 先生のお母様は黒柳徹子さんのお母様の朝様と姉妹でいらっ

しゃいました。(朝様が妹さんでした。)

ですから徹子さんと菊田先生は従妹でいらっしゃいました。。

戦争中、同じ所に両家族は疎開していらしたそうで徹子さんのことや

お母様達の思い出話も時々伺ったりしました。徹子さんのご両親の

    駆け落ち婚のお話等など。

 菊田先生はご自宅「ぎんがむ亭」でアメリカ料理の

クッキングサロンを開設されていました。

その傍ら、アメリカンシャドウアートの研究をされて、素材をシルクに

替えて「ハンカチ3Dアート」を考案されました。ご自宅やNHK文化

センターなどでも指導されていて引っ張りだこの、いきいきシニアで

いらっしゃいました。

素材にフランス製のブランドスカーフを多く用いられることが多く、

トウルーズ(仏)の国際コンペで大賞を受賞されたりしてその度に

何度か渡仏されていたように記憶しています。

 

私はふとしたきっかけで「ぎんがむ亭」のアメリカ料理クラスに入れて

頂き先生の素敵で気さくでなお人柄に惹かれて遠距離でしたが1クール

を終える3年近く通うことが出来て大変幸せな経験をさせて頂きまし

た。その間のレシピは大切にファイルしてあります。

先生は精密な頭脳の持ち主でいらして、勿論手先の器用さは抜群で

いらっしゃいました。生まれつきってあるのですね。

いつもそうなのですが、自宅で段取りも悪い私がレシピを見て同じ

料理を作っても思うような出来栄えにはならず、

それは生まれつきのDNAの違いなのかなと思い、教室でもっぱら

美味しい料理を頂くのが楽しみでした。

 


宝田明さんと大連

2019-02-21 | 歴史、

今日の午後、テレビを消そうとしていたら、「ごごナマ」に宝田明さんが出ていらしたので

思わず見てしまいました。宝田さんに興味をもったのは、主人から「大連会」によく来ていらしたと

聞いていたからです。殆ど同い年で引き揚げ者同士という事もあり、二人の話を合わせると

終戦後の大連での苦労と恐怖体験を通して命からがら帰国した時の様子がよく分かります。

運が悪ければ、山崎豊子氏の著作「大地の子」になっていたかもしれなかったのですから。

二人とも「中国人はよくしてくれた、ロシアの兵隊は恐怖だった」と言います。、

宝田さんは脇腹?に流れ弾の銃弾を受けて麻酔なしに摘出されたという壮絶体験を

語られておられました。今でも仕事の傍ら、反戦の語りべをしていらっしゃるようです。

その「大連会」も高齢化で役目を終えたと2013年に解散となってしまいました。

大陸から引き揚げた方々は同志の繋がりが深く、主人は今大連の小学校の同窓会の

幹事役を仰せつかって頑張っております。

===<以下引用>=======================================

大連会」が高齢化などで解散へ 中国との交流役割果たした66年

 終戦後に大連から引き揚げた人たちを中心に結成する親ぼく団体「大連会」(中国内では「日本大連会」、本部・東京都千代田区)が、会員の高齢化などを理由に今年秋に解散することになった。同会は戦後、大連との交流活動にも貢献してきただけに、日中両国側から幕引きを惜しむ声は大きい。
 大連は日露戦争後に日本が40年間にわたって統治し、終戦前後には約20万人もの日本人が住んでいたという。大連会は当時、大連に住んでいた日本人を中心に1947年(昭和22)に結成し、会報を年2回ほど発行して戦前、戦後の大連に関する思い出や記録を収録するなど、当時の大連を伝える貴重な記録集にもなっていた。
 また、2009年(平成21)末には、大連市史上で記録的な〝空白〟となっていた1936年(昭和11)以降の出来事を記した「続大連市史」(275ページ)を発行。大連建設前史や大連市政、経済・産業、交通・通信・放送、生活、教育・スポーツ・宗教など様々な分野を9編にまとめた。
 さらに大連市においては、日本留学の経験者らで結成する大連市中日友好学友会との交流をはじめ、NHK児童合唱団の大連公演を企画したり、小説「アカシアの大連」の著者で芥川賞作家の清岡卓行さんに大連日本人学校の校歌の作詞を依頼したり、親ぼく団体でありながら、日中をつなぐ文化活動の架け橋的な役割を果たしてきた。
 しかし、戦後60年以上も経ち、会員の高齢化が顕著になり、最多で2万5000人いた会員は現在2500人に減ってしまった。会運営も赤字が続き、存続が困難となったため、4月に最後の総会を開き、今年秋に解散することになった。
 大連会理事で現地担当の金子静雄さんは「戦後は会員の間口を、大連に留学、赴任された方にも広げましたが、会員増にはつながらず、解散の方針が決まったことはとても残念です。今後については、亡くなられたご両親・親戚の大連でのルーツ探しに協力し、故郷の大連を訪れる会員の方への協力を行っていきたいと思っています」と話している。

 


モロッコに行ったことのある方、行く予定の方ー会話サークルの話題から②

2019-02-19 | サークル 習い事など

 60代のYさんは旅行好きの御主人と一緒に世界各地によく出かけていらっしゃいます。

四季折々、マダガスタル島やモロッコ、ポルトガル、エジプトなど定番以外のところにも

行かれています。

5月にモロッコ行きを予定されているTさんとモロッコについての話が弾みました。

モロッコって北アフリカの西端でスペインとはジブラルタル海峡を挟んで接し、

両国からかすかに見える位の近さとか。(最短14キロメートル)

99%がイスラム教とか。往年の映画「カサブランカ」で有名ですね。

(この映画に所謂モロッコ人らしい人は殆ど出てきませんでした。)

大判のスカーフをもって行かないと寺院の観光は出来ないとか。

私には行く勇気(体力)も予算もないのですけど、この国に興味を持ちました。

Yさんが「女性は家族の男性の同伴者がいないと買い物が出来ないらしい。」と

言われたのですが、その辺のことについてはネットで調べてみても分かりません。

欧米的観点では女性の地位はかなり低いようです。

Tさんにその辺のこともよく視てきてもらうよう期待しています。 

 

 


英会話サークルでの話題から(1)

2019-02-15 | サークル 習い事など

今日は2時限から出席しました。お試しメンバーの方のお顔も拝見しました。

ご自身テニス好きでテニスプレーヤーの話に詳しい元銀行員のkさんに

「大阪なおみ」選手のコーチの変更について「どうしてでしょうか?」と質問が出ました。

それに関してのkさんの答えは大体次の3点でした。(私の聞きとれた範囲では)

1.賞金の10%程度がコーチにいくらしいがHe wants more らしい。

2.二人の信頼関係が少しゆらいでいる?

3.試合場所のコートの状態( court circumstances)に対して合うコーチを求めて

いるのではないか? ということでした。

 

下の写真は potluck party  でメンバーに作り方を教えてもらったフランスパンのクリームチーズ

詰めです。夜作っておくと朝食に便利です。

くり抜いたフランスパンにクリームチーズ、湯で解凍のミックス野菜、マッシュポテト、バター、

くり抜いたパン、ハム等々を適当に混ぜて詰め込んで冷蔵して切り分けたものです。


庭の白梅が満開です。

2019-02-13 | 雑記

寒さに縮こまっています。確定申告をしていたら、22年前に亡くなった両親のことを思い出して

しまいました。父は92歳で母は88才で1997年に8か月違いで他界しました。

必ずしも仲は良くなかったけれど、あの世に行くときは同じ年に逝ってしまいました。

バブルが1991~1993年頃から崩壊し始めて間もなくのこの時期に、二人のささやかな遺産を

相続しました。その後、アジア通貨危機、リーマンショックが追い打ちをかけて、失われた20年と

言われる右肩下がりの経済が先にあることも見通せず、不労所得のマネーは泡のごとく

飛んでいってしまいました。

全部を元本確保の出来る減らない貯蓄ものにしておけば良かったのに、マスコミなどの書く

「貯蓄から投資へ」の言葉に乗ってしまったのでした。思い出しては反省し懺悔しています。

 

 


孫の自立

2019-02-03 | 家族、孫達

24才になる男の孫M君が今春社会人になります。就活ではすったもんだがありましたが、最後に思いがけなく憧れの企業に内定を頂き、私は暫く半信半疑?でした。一般に理系の就活は楽だと言われたりしていますが、間口が狭くて、自分の専攻や希望と企業のニーズが一致するのは、なかなか微妙とか言っていました。

M君は生まれた時から、手のかかる子で、娘夫婦は振り回されて、育てるのが大変でした。今では180センチ以上でひょろりと背は高いのですが、小さい時から、アレルギー体質のせいか、好き嫌いが激しく、(自分で本能的に防御しているのかもしれません)又次から次に病院通いが続き、親も子も神経過敏になってしまったように思います。うちに来ても、ごまだれは「胡麻アレルギー」だからダメだとか青魚始めお魚は嫌いだとか、何でも美味しいと食べてくれる女の孫達と違って、大変面倒です。でもアレルギー反応って、成人してからでも、ある日突然出てくる人も多いそうですから侮れませんね。先日、アレルギーや腸内フローラの権威でいらっしゃる藤田紘一郎先生の本を渡しておきました。

 

M君はこれは母親似で間違いないのですが、昔からよく喋る子で、思っていること全てを

母親に話さないと気が済まないようで、問題の多かった中高時代など、

親は本人のことをよく分かっていたので、ある意味対処しやすかったともいっています。

自他ともに「マザコン」を認める彼ですが、先日、関西勤務の辞令が出て、

少し動揺していました。関西に行く学友も多く、両親やお爺さんとも話し合って

今ではすっかり落ち着きました。簡単に、帰ってこれない所で、

少し異なる文化や歴史に触れて切磋琢磨して自立してほしいと思っています。